プロローグ
鬱蒼と茂る森の中を、女が一人、歩いていた。
頭からは、二本の角が伸びている。
人間のものとは明らかに異なる、細長く尖った耳。
そして──陽の差し込まない森の奥でも、淡く光を宿す、縦に裂けた瞳孔。
それらは、彼女が人間ではないことを主張するかのようだ。
木々の葉は風に揺れることもなく、ただ静かにその身を寄せ合っている。
薄暗い森には鳥の声すらなく、枯れ葉を踏みしめる足音だけが、乾いた大地に染み渡っていた。
女の足取りは重く、伏せられた瞳にはどこか物寂しげな色が浮かんでいる。
まるで、何かを探しているように。
あるいは──何かを失った者のように。
______そのとき、突如として、前方に閃光が走った。
「──?」
女は足を止めた。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
目を焼くような光が森の静寂を破ったかと思えば、何事もなかったかのように消えていった。
______何が、起きたのか。
警戒しながら、女は光の消えたほうへと歩み寄る。
やがて木々の向こうに、人影が見えた。
「──人?」
そこには、一人の青年が倒れていた。
身に着けているのは、見たことのない奇妙な服。
髪もまた、珍しい黒一色であった。
______だが、何よりも目を引いたのは、その身体。
至るところが血に染まっている。
呼吸も浅く、手足は不自然な方向へと曲がっている。
まだ息があることさえ、不思議に思うほどに痛ましい。
どこから現れたのか──そう困惑しながらも、女は青年の傍らに膝をついた。
そっと手を伸ばし、首元に触れる。
______まだ、脈はある。
しかし、このままでは長くもたない。
女は、青年の姿を改めて見つめた。
服装、髪色、森を走った閃光。
「この方は──もしや」
やがて女の脳裏に、とある一つの可能性が浮かんだ。
女の表情には一瞬だけ迷いが宿ったが、すぐさま意を決したようだった。
______自らの腕に牙を立てる。
赤い血が、白い肌を伝って滴り落ちた。
それは、青年の口元に運ばれた。
「──生きて」
女は、声を震わせて切実に願う。
血が、青年の唇へと流れ込んだ。
※ ※ ※ ※ ※
二月下旬某日、早朝。
俺は、駅のホームに立っていた。
ホーム上屋から覗く空は、鉛色に濁っている。
雲は低く垂れ込め、静かに降る雪が街の輪郭をじんわりと押し潰し、曖昧にしていく。
この日も街は普段と変わりない銀世界で、それは冬の北国の日常茶飯事である。
俺の名前は、鈴宮 智晴。
友人なし。
彼女なし。
大学では留年。
______自他ともに認める、社会不適合者だ。
大学入学を期に、東京からこの地に来て三年目。
当初は心を躍らせていたこの雪景色も──今となっては、ただの陰鬱な殺風景に過ぎない。
どうして、こうなったんだろう。
視界が歪み、喉のあたりから熱がこみ上げてくる。
必死に抑えんと、俺は深く深呼吸をした。
乾いた冷気が肺を満たす。
いつになく、胸の奥の重さがさらに積り、沈んでいく。
まるでこの鬱屈な空そのものが、俺の心の内側に降り積もっていくかのようだった。
少し辺りを見渡してみる。
時計を見ると、現在時刻は六時半。
忙しない通勤ラッシュの到来はまだ少し先のことだろう。
事実、周囲に人は片手で数える程度しかいない。
この状況なら実行に移しやすい。
ふと、路線の向こう側をぼんやりと眺める。
白い息がゆっくりとほどけて消えたかと思えば──遠くで、キンコンと踏切の警報機の鳴る音が鳴り始めた。
______それを聞いた俺は、ふと自分の人生を振り返っていた。
人並みの小中時代。
運動はできなかったが、勉強とゲームは得意だった。
高校はそれなりに優秀な所に進学し、親友と呼べる存在もできた。
──ここまでは、順調だった。
だが、すべてが狂い始めたのは、大学受験からだった。
俺なりに必死で勉強した。
それでも二度、受験に失敗し、最終的に現在の大学に滑り止まった。
一般的に見れば、それは決して悪い結果ではなかった。
それでも、俺には受け入れがたかった。
両親も、兄も姉も、鈴宮家は皆が都内の名門国立──T大学の出身。
そんな家族の中で、俺だけがそこに届かなかった。
地方の大学へ進学したことそのものよりも、「自分だけが落ちこぼれた」という劣等感が、いつまでも胸に残り続けた。
そこから、どんどん落ちぶれていった。
大学に入れば、そんな視野の狭い価値観も、劣等感も、払拭できるだなんて考えていた。
新しい友人。
広がる世界。
そんなものを、どこかで期待していたのだ。
──だが、現実は違った。
プライドとコンプレックスを拗らせた俺は、人の輪に入ることができなかった。
その結果が、友人も恋人もいない、孤独な毎日。
大学へ行く意味も見失い、やがて部屋に引きこもるようになった。
当然、留年も決定。
気づけば俺は、大学に通う意欲も、将来を考える気力も──果てには、生きる理由すらも失っていた。
______ゆえに、この決断に迷いの余地など一切ない。
ただ、この鬱屈な世界で生きていくのが、面倒で仕方なく思えてきたのだ。
踏切の遮断機が降りたのを見た俺は、誘い込まれるように、黄色い線の向こう側へ身を乗り出そうとしていた。
______そのときだった。
「あの──大丈夫ですか?」
唐突に、背後から声がした。
それは、アナウンス音声とは明確に違う、感情を孕んだ声だった。
驚いた俺は我に返り、声のした方へ振り返る。
そこには、制服姿の女の子──恐らくは、女子高生くらいの子が立っていた。
その子は、綺麗な黒髪のぱっつんに、端正な顔立ちをした美人だった。
向こうから呼びかけてきたというのに、つい目を逸らしてしまいそうになるほどだ。
だが、実際にそうしなかったのは、
まるで俺の事情を承知している身内かと勘違いするほど──彼女が、心の底からこちらを哀れむような、
そんな表情をしていたからだった。
「あ、すみません、いきなり......。その、危ないですよ」
「......え?」
思わず、間の抜けた声を上げてしまう。
いや、当然の注意なのだが。
まるで、俺の考えていることを見透かされたような気がしたのだ。
「──ぁあ、すみません。その、ちょっと寝不足で......ハハ」
人と対面で話すのなんて、いつぶりだろう。
必死に発声したつもりが、掠れた声しか出なかった。
「で、でも......」
「大丈夫、なので」
適当に笑って見せる。
それでも、女子高生は心配そうな顔でこちらを見つめていた。
「......」
なおも、彼女は俺から目を離さない。
「──本当に、大丈夫ですか?」
やがて、少しの沈黙の後、彼女は再び口を開いた。
「大丈夫だって」
少し苛立ちながら、乱暴に返事をする。
______いい加減、鬱陶しい。
大丈夫だと言っているのだから、放っておけばいいのに。
余計なことに、首を突っ込んでくるなよ。
「そ、そうでしたか......。それはその、失礼しました」
流石に怯えたのか、女子高生は申し訳なさそうに頭を下げた。
そんな様子を見ると、流石にこちらも申し訳なくなる。
だが俺は、今更助けを求めているわけでも、心配してほしいわけでもない。
もう、終わらせたいんだ。
他人に、俺の何が理解るというのだ。
女子高生は引っ込みながら、胸に抱えていた参考書を、ぎゅっと大事そうに抱きしめた。
「......」
受験生、か。
そんなことを考えていると、ふと胸がざわついた。
______そういえば、今日は、何日だ?
スマートフォンを取り出し、画面を確認する。
「──二十五日......」
その数字を見た瞬間、心臓がキュっと締まる。
T大学を受験した日。
あれからもう、四年近くも経つのか。
あの日の俺は、緊張と不安を抱えながらも、それ以上に未来への期待に胸を膨らませていた。
両親や兄姉のような、優秀な人間──いつか自分も、そうなれると思っていた。
それが、今ではどうだ。
大学には通わず、部屋に引きこもり、家族からの連絡すら無視している。
あの日の自分が今の俺を見たら、きっと笑うだろう。
......いや。
きっと、失望するだろう。
______抑えていた感情が決壊し、涙と共に溢れ出てきた。
「お兄さん! やっぱり──」
女子高生の声が響く。
『まもなく、二番線に──』
だが、その続きは、駅構内に流れたアナウンスに搔き消された。
やがて。
______キィィィン!!
鉄と鉄の擦れる、不快な摩擦音がこちらへ近づいてくる。
次の瞬間。
俺は黄色い線の向こう側へ身を投げ出した。
「っ──待って!」
女子高生は泣きそうな顔をしながら、咄嗟に手を伸ばす。
無防備だった俺の腕を、彼女の手が掴んだ。
「──やめろ!!」
......どうして。
どうして、そこまで。
そう思った。
だが、もう遅い。
俺は巨大な鉄塊に、無慈悲に身体を打ち砕かれ──。
視界が、白く染まった。




