第十九話「失ったもの、残されたもの」
「「──アッシュ!」」
戦闘を終えた俺たちは、一斉にアッシュのもとへ駆け寄った。
「……おい」
エルマが真っ先にアッシュの傍へ膝をついた。
奴は壁へもたれかかったまま動かない。
だが──僅かに胸が上下していた。
「治してやる」
「……」
エルマの言葉に、アッシュの瞼が僅かに開く。
「解毒もしてやる」
やがて彼女の右手に、淡い光が集い始める。
「──エルマ、お前」
思わず、口出しする。
こいつを、助ける気か?
ついさっきまで、俺たちを裏切り、殺そうとしてきた奴を。
それだけじゃない。
アッシュは、メルトナを売った。
そのせいで、メルトナはヴェノッサに斬られ、今は王都で処刑を待っている。
そんな奴を。
「どうして──」
その言葉の続きを、口にすることはできなかった。
エルマが、俺の前へ左手を差し出したからだ。
「すまん、チハル。お前の気持ちもよくわかる」
「わかるなら、なんで──」
「だが、まだ間に合う」
その顔には、いつもの軽い笑みはなかった。
再び、彼女の目線がアッシュへ向かう。
「アッシュ。てめえもチハルを手伝うってんなら、助けてやる」
「……!」
胸の奥が、ざわついた。
正直、納得できない。
こいつに、メルトナを助ける資格なんてあるのか。
……だが。
もし、こいつが俺を手伝うというのなら。
俺は、その手を拒めるのか。
「だから、考え直せ」
「……」
「選べ。ここで死ぬか、あたしらの元に戻るか」
アッシュは、しばらく何も答えなかった。
______やがて。
「──ハハ」
アッシュの口から、黒い煤と共に小さな笑い声が漏れた。
「相変わらず……甘いな、エルマ」
エルマは、目を逸らさない。
「答えろ」
ただ、冷たく返すだけだった。
「──お前らと一緒にいるのは、本当に楽しかった」
その言葉に、エルマの表情が僅かに揺れる。
「だったら──」
「でもよ」
アッシュが言葉を遮る。
「それ以上に、欲しかったもんがあったんだ。盗めねえもんが、な」
「……」
「だから──今更戻るなんて、無理な話だ」
差し伸べられたエルマの手が、ゆっくりと下がる。
「……なんで」
エルマは、それだけ呟いた。
「……」
その瞬間。
俺の胸の奥で、何かが切れた。
黙って聞いていた。
だが、もう堪えられない。
「──っざけんなよ」
気づけば、俺はエルマを押しのけ、アッシュの目の前に立っていた。
手に握った短剣へ、力がこもる。
奥歯を、ぎりぎりと噛み締める。
こいつを殺しても、メルトナが助かる訳じゃない。
そんなことは、分かっていた。
それでも。
______お前の、お前のせいで、メルトナは──。
「──兄ちゃん……」
その声掛けを、意にも介さない。
気づけば、手が動いていた。
「お、おい、チハ──」
エルマの声が響く。
だが──止まらなかった。
______ズッ。
短剣が、アッシュの胸へ沈み込む。
「ぐっ──がはっ」
アッシュは身体を揺らし、激しく吐血した。
やがてその瞳から、ゆっくりと光が消えていく。
「チハル……」
エルマの掠れ声が聞こえてくる。
俺は短剣を差し込んだまま、動けなかった。
「……」
手のひらには、ぬるっとした感触が残っている。
自分が何をしたのかという事実が──遅れて胸の奥へと押し寄せてきた。
「……っ」
短剣を握る指が、僅かに震え始める。
怖い。
自分が、怖かった。
ついさっきまで、こいつを助けるべきかどうかで迷っていたはずなのに。
今の俺は、怒りに身を任せ、何の躊躇もなくその命を奪っていた。
______でも、それでも……。
こいつの返答は、到底受け入れられるものではなかった。
メルトナをあんな目に遭わせておいて。
どうして、責任を取ろうとしない。
どうして、拒絶した。
「──そりゃあ、そうなるわな」
そんなときだった。
俺の胸に渦巻く葛藤を、レントの言葉がそっと拭った。
「大事な仲間を酷え目に遭わせた奴が、目の前にいるんだ」
レントは俺の隣へ歩み寄ると、短剣の柄へ手を伸ばした。
そして、そっと俺の手に重ねるように柄を握る。
「もう、抜くぞ」
「……」
返事はできなかった。
レントが力を込める。
短剣が、ゆっくりとアッシュの胸から引き抜かれた。
「……っ」
その瞬間、指先から力が抜け、俺はその場に尻餅をついた。
レントが短剣を受け取り、静かに血を払う。
「チハル。お前は悪くない」
その声は、落ち着いていた。
胸の奥の騒めきが、僅かに安らぐ。
「……レント」
だが、エルマは違った。
彼女の声には、隠しきれない動揺が滲んでいた。
「チハルを責めるつもりはねえ。
でも、そういう言い方は──」
「お前は甘すぎだ、エルマ」
「っ──」
その言葉に、エルマは黙り込んだ。
レントは、息をしなくなったアッシュへ視線を落とす。
「俺だって、思うことはある」
その声は、決して冷たくはなかった。
僅かに言葉を詰まらせ、何かを堪えるように、レントは続けた。
「だが──こいつにとって俺たちはその程度だったのさ」
「……」
「お前も、聞いてただろ」
エルマはしばらく俯き、黙り込んだ。
やがて、ゆっくりと、震える口を開く。
「……分かってる」
嗚咽のような声だった。
「分かってるけどよ……」
エルマは、冷たくなったアッシュから目を逸らさない。
「あたしはまだ、助けられると思ってたんだ」
エルマの声が、静かな路地に落ちる。
俺は、何も言えなかった。
短剣を抜いた右手がまだ震えている。
そんな俺たちを見かねたのか、レントが口を開く。
「まだ助けられそうな奴なら、すぐそこにいるぞ」
彼は、路地の奥の方を指さした。
「……」
そこには、アッシュが斬りつけたあの女の姿があった。
彼女は未だに、苦しそうに喉元を押さえながら膝をついている。
「──そう、だな」
その様子を見て、エルマが呟く。
俺たちは胸の曇りが晴れないまま、罪滅ぼしでもするかのように彼女の元へ向かった。
※ ※ ※ ※ ※
「おい、聞こえるか?」
エルマが最初に声をかける。
女は、答えなかった。
俯き、片手で喉元を押さえたまま、苦しそうに身体を震わせている。
その指の隙間からは、赤い血が滲んでいた。
「──喉、やられてんのか」
レントが女の傷を確認する。
「姉ちゃん、もう少しの辛抱だ」
エルマがそう言うと、女の前に膝をついた。
やがてその右手に、淡い光が集い始める。
「──‘’レメディオン‘’」
柔らかな光が、女の身体を包み込んだ。
「……っ」
やがて、喉元を押さえていた女の手が僅かに緩んだ。
「ごほっ……!」
女が激しく咳き込む。
喉につっかえていた血が、口から吐き出された。
「がっ……ごほっ……!」
「お、おい──大丈夫か?」
俺は思わず声を上げ、女の元へ駆け寄る。
だが、エルマは落ち着いた様子で女の背中に手を添えた。
「慌てんな。血を吐けるなら、まだ気道は塞がっちゃいねえ」
「──っ、はぁ……」
女は何度か咳き込んだあと、荒い息を吐いた。
少しずつ、呼吸を整えていく。
やがて。
「──ありがとう」
女はそう言って、顔を上げた。
______その顔を、間近に見た瞬間。
「……え?」
頭が、真っ白になった。
知っている。
この顔を、俺は知っている。
「お前は……」
脳裏に、あの夜の光景が浮かび上がる。
燃え盛る炎。
その向こうで、杖を構える女。
______目の前の女と、記憶の中の姿が重なった。
「あなたは……」
どうやら、この女も同じように気づいたらしい。
「なんだ、お前ら。知り合いなのか?」
エルマが水を差す。
「……違う」
女が答える。
やがて、その瞳が鋭く俺を捉えた。
「──敵」
女は眉を寄せ、俺を睨みつける。
「「は?」」
エルマとレントが、同時に声を上げる。
だが、俺は否定しなかった。
「なんで、お前がここにいる」
どういう風の吹き回しか。
かつての敵がなぜ、こんな場に。
「それは──こっちのセリフ……!」
女が右手を掲げる。
その掌に、魔力が集っていく。
「っ──そっちが、その気なら……!」
すかさず俺も右手を掲げる。
イメージするのは、巨大な──
「おいおい待て待て!」
慌てながら、レントが間に割って入る。
そして、互いの顔へ向けられていた腕を、左右から掴み、強引に引き上げた。
「痴話喧嘩か!?」
……なんだって?
こいつ、今更そんなくだらない冗談を──。
「「違う! そんなんじゃ──」」
……俺と女の声が、綺麗に重なった。
「「……」」
思わず、互いの顔を見る。
「なんだよ」
「不愉快」
女はそう言って、視線を逸らす。
こっちのセリフだ……!
「ははっ、なんだお前ら、仲良しじゃねーか」
また、エルマが水を差す。
俺と女は、ほとんど同時に刺すような視線をエルマへ向けた。
______ギロッ。
「わ……悪かったって」
エルマは両手を上げ、たじろいだ。
だが、レントはそんな俺たちを見て、深々とため息をつく。
「はぁ……ったく、勘弁してくれ……」
呆れたような口調だった。
「もう喧嘩は懲り懲りだ。話し合おうぜ」
レントは、俺たちを交互に見る。
「何があったかくらい、聞いてやんよ」
俺と女は、しばらく黙って睨み合う。
やがて短い牽制のあと。
女がゆっくりと口を開いた。
「──わかった」
「……よし。もう喧嘩すんじゃねえぞ」
その言葉を機に、レントは俺たちの腕を解放した。
※ ※ ※ ※ ※
俺たちは、互いに何があったのかを簡単に説明した。
女の名前はアイヴィス。
冒険者である彼女は、ある公爵から、エルド山脈に身を潜めていると噂の竜族──メルトナの捕縛を秘密裏に依頼されていたらしい。
メルトナを狙ったアイヴィスたちと戦い、
その結果として、彼女の仲間だった大男──ブルモッドが命を落としたこと。
事情を聞き終えたレントはしばらく黙り込んでいた。
「……なるほどな」
やがて、レントが口を開く。
「つまり──お前らはどっちも、自分の仲間を守るために戦ったってわけか」
「「……」」
「それで、互いに相手を許せねえ」
「当然」
アイヴィスが、即座に答えた。
その瞳が、鋭く細められる。
「ブルモッドを殺した。あなたも、彼を傷つけた」
「……メルトナだって、お前らに殺されかけた」
俺も、アイヴィスを睨み返す。
「先に襲ってきたのは、そっちだろうが」
「それは……理解ってる」
アイヴィスは、静かに答えた。
やがて、再びその眼光に鋭さが戻る。
「でも、理解と感情は別」
「……」
「──ブルモッドは、私にとって大切な仲間だった」
それまで淡々としていた声に、初めて確かな揺らぎが滲んだ。
「だから、私はあなたたちを許せない」
「……俺だって」
拳を握る。
「メルトナを傷つけたお前たちを、許すつもりはない」
少しでも状況が違えば、結果は一転していたはずだ。
だから、同情の余地なんてない。
「そう」
アイヴィスは、短く返した。
「なら、話は終わり」
「……は?」
「私たちは敵同士。これ以上、話す必要はない」
アイヴィスが立ち上がろうとする。
だが、まだ傷跡が痛むのか、身体が僅かによろめいた。
「おい、無理すんな」
レントが肩を支える。
「触らないで」
「はいはい。元気なこって」
レントが手を離すと、アイヴィスは再び俺を見た。
「……ただ」
「?」
「一つだけ、聞きたい」
アイヴィスの視線が、俺の奥へ突き刺さる。
「──あなた、あの竜族を助けるつもり?」
「当たり前だ」
即答する。
そのことは、考えるまでもなかった。
「明日、王都へ向かう。
俺は──必ず、メルトナを助けに行く」
「……そう」
無機質な返事だった。
「随分と、無茶するじゃない」
アイヴィスは呆れたような口調でそう吐き捨てる。
だが──。
その態度に、俺が反感を買おうとした、次の瞬間。
「──羨ましい」
アイヴィスは俯き、どこか寂しそうにそう呟いた。
「……?」
その言葉の意味が、俺には分からなかった。
アイヴィスはただ俯いたまま、握りしめた拳を見つめている。
「何が──羨ましいんだ?」
その姿に、俺は思わず尋ねていた。
「私には、もういないから」
「……いない?」
「──助けに来てくれる、相手なんて」
アイヴィスの声が、大きく震えた。
「帰る、場所も──」
そこで初めて、彼女の瞳に涙が浮かんだ。
「……あのまま、死んじゃえばよかった」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が僅かにざわついた。
______あの日の俺を、見ているようだった。
生きていても仕方がないと。
この先に何も残っていないと。
そう思いながら、ただ時間だけをやり過ごしていた、あの日の俺。
目の前の女もまた、何かを失いすぎたせいで、生きる理由を見失っている。
そう思うと、さっきまでの怒りが、ほんの僅かに揺らいだ。
「……」
同情するつもりなんて、なかった。
それでも──。
今のアイヴィスを、責める気にはなれなかった。
「……おい」
そんなとき、エルマが声をかける。
「お前、これからどうするつもりだ?」
「……分からない」
アイヴィスは、涙を拭おうともしない。
エルマは、そんな彼女をしばらく見つめていた。
______そして。
「だったら──うちに来いよ」
「……」
その言葉に、アイヴィスが顔を上げる。
「何を、言っているの」
「そのまんまだよ」
そう言ったエルマの声色は、柔らかなものだった。
まるで、妹分を慰めるかのようだった。
「帰る場所がねえなら、作ってやるよ」
「……あなたが?」
「ああ」
「……どうして」
「さあな」
エルマは肩を竦め、少しだけ笑う。
「放っとけねえから。それだけだ」
「……」
「ただ、勘違いすんなよ」
エルマは、俺とアイヴィスへ交互に視線を向ける。
「チハルとお前のことまで、あたしが口出すつもりはねえ」
「……」
「お互い、簡単には許せねえんだろ?」
俺は、黙って頷いた。
「なら、それは二人で勝手に決着つけりゃいい」
エルマの瞳が、再びアイヴィスを捉える。
「でも、お前が一人になるのを見捨てるほど、あたしは薄情じゃねえ」
「……」
「うちに来いよ」
アイヴィスは、答えなかった。
ただ、頬を伝う涙を拭った。
「……変な人」
「よく言われる」
「……理解できない」
「別に理解しなくていいさ」
エルマは笑う。
「来るか、来ねえか。それだけ決めな」
アイヴィスは黙り込む。
しばらくして。
「……少しだけ」
「ん?」
「少しだけ、考える時間が欲しい」
「おう。好きなだけ考えな」
エルマはアイヴィスにそっと手を差し出す。
「とりあえず、今夜はうちで休め」
「……」
アイヴィスは何も答えなかった。
だが──その手を拒むこともなかった。




