第十六話「羨望」
レントと共に、俺は牢の外へ飛び出した。
『ヴォルトナ』の余波は、どうやら牢獄内の騒ぎに紛れたらしい。
今のところ、俺たちが魔術を使ったことに気づいた様子はない。
だが──。
暗闇の向こうからは、複数の足音が響いてくる。
徐々にこちらへ近づいてくるその音に、胸の奥がざわついた。
「急げ!」
「侵入者を探せ!」
怒号が響いた。
俺は反射的に、声の聞こえてきた方向とは逆へ駆け出した。
レントもすぐに後を追ってくる。
______薄暗い牢獄の通路を、ただひたすらに走った。
その先に何があるのかも分からない。
なおも不安が拭えずにいた、そのとき。
「──こっちだ!」
曲がり角の向こうから、聞き覚えのある声が飛んできた。
「エルマ......」
思わず声が漏れる。
だが、再会に明け暮れている暇などない。
エルマは周囲を見渡し、警戒しながら口を開く。
「お前ら、すまん。話はあとだ」
「......ああ」
「他に捕まってる仲間はいるか?」
「......アッシュは、わからない」
俺は一瞬だけ言葉を詰まらせる。
「でも......ヘンデルとグレーゼル。
あいつらなら、別の牢屋に入れられてた」
「そうか──場所はわかるか?」
「多分、向かいの通路の、奥から二番目のとこだ」
俺は記憶を頼りに、その方向を指差した。
「わかった。行こう」
俺たちは童話兄弟のいる牢に向かって走り出した。
牢獄内には、未だに衛兵たちの怒号と足音が響いている。
時間はない。
「──ここだ」
俺が足を止める。
目の前には、見覚えのある鉄格子があった。
「エルマ、チハル! ──それに」
鉄格子の向こうから、ヘンデルが声を上げる。
「レント!」
続いて、グレーゼルもこちらへ駆け寄ってきた。
「おう、無事だったか」
「ああ。なんとかね」
レントが軽く声をかけ、ヘンデルが短く答える。
その間にも、遠くから衛兵たちの怒号が響いていた。
「悠長に話してる暇はねえな」
エルマは人差し指と中指を揃え、銃口を向けるようにその手を構えた。
「──‘’ゼクレノ‘’」
瞬間、鋭い剣閃が走った。
______ギィンッ!!
鉄格子の一部が切断され、甲高い音を立てて床へ落ちる。
エルマは腕を下ろし、腰に差していた二本の剣を取り出した。
「ほらよ」
牢から出てきた二人へ向かって、エルマがそれぞれ武器を差し出す。
「僕たちの......」
「わざわざ持ってきてくれたのかい?」
「ああ。一応持ってきて正解だったぜ」
ヘンデルが剣を受け取り、刀身を眺める。
その隣で、グレーゼルも自分の武器を握りしめた。
「──ところでお前ら、アッシュは知らねえか?」
エルマの問いに、童話兄弟は顔を見合せた。
「......」
ヘンデルが何かを言おうと口を開く。
だが、彼が声を発することはなかった。
______まるで、口にすることを躊躇っているかのようだった。
「......どうした?」
エルマが訝しげに眉を寄せる。
「いや......」
ヘンデルが、僅かに目を伏せた。
「その話なんだが──」
その続きは、遮られた。
「──いたぞ!!」
暗闇の向こうから響いた、怒号によって。
「侵入者だ! 逃がすな!」
複数の足音が、こちらへ迫ってくる。
「ちっ......」
エルマが舌打ちした。
ついに、見つかってしまったか。
「排水路へ向かう! ついてこい!」
その声に従い、俺たちが駆け出そうとした、そのとき。
「おい! どうした!?」
エルマが振り返る。
グレーゼルは、静かに剣を構えていた。
「僕たちは、ここに残る」
「......は?」
「あいつらはきっと、どこまでも追っかけてくる。だから──」
ヘンデルも隣に並び、剣を抜いた。
「僕たちがここで足止めする。──その間に、先に行くんだ」
「馬鹿言うな! 全員で逃げるぞ!」
「時間がない」
童話兄弟は、迫りくる衛兵たちへ視線を向ける。
「行くんだ」
「......」
一瞬だけ、エルマが黙った。
やがて、小さく息を吐く。
「絶対、戻って来いよ」
「ああ。後で必ず合流する」
俺たちは再び走り出した。
背後に残る二人の姿が、徐々に遠ざかっていく。
そのとき。
「──エルマ」
背後から、ヘンデルの声が飛んできた。
エルマは振り返らず、その長い耳だけを傾ける。
「アッシュは──」
一瞬の間。
「裏切った」
その声の直後。
剣撃どうしが激しく擦れる音が、牢獄内に鳴り響いた。
「──っ」
エルマの足が、一瞬だけ止まった。
けれど、振り返らない。
彼女は前を見据えたまま、再び走り出した。
その横顔からは、何を考えているのか読み取れない。
ただ──握りしめていた拳だけが、僅かに震えていた。
______エルマを疑う理由はもうどこにもない。
レントの言った通り、こいつは危険を承知で俺たちを助けに来てくれた。
それだけで、十分だった。
けれど──。
昨日まで隣で笑っていた男が、仲間を裏切った。
その事実は、俺にとっても信じがたいものだった。
※ ※ ※ ※ ※
ロミエットの街より、馬車で一時間ほど。
ベルヘラ領の中心部にほど近い場所に、豪勢な屋敷はあった。
広大な敷地を囲む鉄柵。
その向こうには、領主の住まいに相応しい立派な屋敷がそびえている。
ここは、ベルヘラ領を治めるフォーリン伯爵家の本邸。
その一室──広い執務室の奥で、男が一枚の書類から顔を上げた。
「......ふむ」
男──イグノア・フォーリン伯爵は、机の上に置かれた大きな革袋へ視線を落とした。
その間、アッシュは部屋をちらりと見渡す。
磨き上げられた床。
壁に掛けられた絵画。
煌びやかな家具の数々。
どれも、今までの自分には縁のなかったものばかりだった。
「これが、例の金か」
「ええ」
アッシュは革袋を軽く叩いた。
中から、硬貨の擦れ合う音が響く。
「......かなりの額だな」
「はは、満足いただけましたか?」
「......して、貴様は私に何を求める?」
イグノアは、鋭い視線をアッシュへ向けた。
金を見せびらかすだけではない。
それを餌に、何を要求しようとしているのか。
イグノアは、目の前の男の出方を窺っていた。
「要求は一つだけです」
アッシュはふっと笑った。
「僕を、フォーリン家の養子として迎えて欲しいのです」
「......」
イグノアの眉が僅かに動く。
想定していた要求とは、一線を画すものだった。
はっきり言えば──馬鹿げている、傲慢甚だしい要求だ。
「ほざけ。いくらこのような大金を提示されようと、得体の知れん奴を養子に迎える気などさらさらないわ。
それに、この金──どこで集めてきた?
まさか盗んだとは言わぬよな? 汚れた金を受け取る気はないぞ」
イグノアの声音には、明確な警戒が滲んでいた。
大金を持って現れた素性の知れない男。
その金の出所を疑うのは当然だった。
「盗んでなどおりません。
これは、ロミエットに身を隠した竜族を捕らえて得た金です」
「なっ......」
その一言に、イグノアの表情が変わった。
竜族。
その言葉が持つ意味を、彼も知らないわけではない。
「それに、金だけではありませんよ。
もう一つ。僕の方から、イグノア様に都合の良い話があります」
アッシュは、イグノアの反応を見逃さなかった。
僅かに揺れた瞳。
ほんの一瞬だけ止まった呼吸。
その反応から、次に何を切り出せばいいのかを確信する。
「......なんだ?」
「アイヴィス・フォーリンのことです」
「──っ」
イグノアの眉間に、深い皺が刻まれた。
その名を聞くだけで、隠しきれない苛立ちが滲む。
「邪魔なんでしょう?
優秀であったというのに、家の意向を無視して冒険者に成り下がり、なおも家名を汚す娘が」
「──どこでそれを?」
イグノアから、先ほどまでの余裕が僅かに消えた。
「調べました」
アッシュは淡々と答える。
まるで、それが当然のことであるかのように。
「娘さんは、ロミエットの街に居ると聞いています。
丁度いい。僕が、あなた方の前から彼女を消してみせます」
「ほう?──方法は?」
イグノアの目が細くなる。
娘を消す。
その言葉の意味を問い質すこともなく、真っ先に『方法』を尋ねた。
「それは、僕にお任せください。考えがあるのです」
「......」
イグノアは黙ったまま、アッシュを見つめていた。
目の前の男は、こちらが何を欲しているのかを知っている。
______それだけではない。
それを利用して、フォーリン家に入り込むことすら企んでいる。
「随分と周到だな。ある程度、頭は回ると見える。
それに、真偽は知らんが、あの恐ろしい竜族を捕らえたという実績もある」
イグノアは革袋へ視線を落とした。
金。
竜族。
そして、アイヴィス。
いずれもこの男が、こちらが満足するような条件を提示するために用意した材料なのだろう。
「一つ聞こう。何故そこまでして、我々の養子になることを望む?」
「......」
初めて、アッシュの笑みが消えた。
今まで淀みなく言葉を紡いでいた男が、ほんの僅かに沈黙する。
その沈黙を、イグノアは見逃さなかった。
「金が欲しいわけではないのだろう?」
「ええ」
「ならば、権力か?」
「いえ、それも違います」
アッシュはしばらく黙り込んだ。
やがて、低い声で答える。
「──身分、です」
「身分?」
イグノアは僅かに眉を上げた。
「僕は、身分がないというだけで、人間扱いすらされませんでした」
握った拳に、僅かに力が入る。
その仕草だけが、それまで淡々としていたアッシュの言葉に、初めて感情を滲ませていた。
「ハッ、なんだ貴様、奴隷だったのか?」
その声には、嘲笑が混じっていた。
「ええ」
「ハハ、家族を殺されたか? 友人を殺されたか?
あるいは、貴様の尊厳を踏みにじられたか?」
「──全て、ですね」
アッシュの返答に、迷いはなかった。
イグノアは、しばし黙り込む。
目の前の男が、どこまで自分の過去を恨んでいるのか。
そして、その恨みを何に変えようとしているのか。
その目を見れば、容易に想像できた。
「そうか。ならば、憎いか? 貴族が」
「......」
アッシュは不思議そうな表情を浮かべる。
まるで、何故そんなことを聞いてくるのかとでも言うように。
「いえ──寧ろ、羨ましかったですよ」
「──なに?」
またしても想定外の返答に、イグノアの顔から僅かに笑みが消える。
「見下す。殺す。犯す。
──やりたい放題の貴方がたが、とにかく羨ましくてたまらなかった」
「......」
言葉が途切れる。
先ほどまでの交渉とは、明らかに空気が違っていた。
イグノアは、目の前の男をじっと見つめる。
その真意を確かめるように。
「だから僕も、そんな地位に就いてみたいと思ったんです。
そのためなら、なんだってする」
「狂っているな、貴様は」
イグノアは、吐き捨てるように言った。
普通なら、憎むところだろう。
自分を踏みにじった者たちを恨み、その地位を奪おうとする。
だが、この男は違う。
恨むどころか、その立場そのものに憧れを抱いたというのだ。
「先ほどの言葉を訂正しよう。お前は頭の回らん馬鹿だ」
「......」
一瞬、アッシュの表情が固まった。
だが、それも僅かな間だった。
「だが、気に入った。その執念には感心したよ」
イグノアは椅子から立ち上がった。
その言葉に、アッシュが僅かに顔を上げる。
「いいだろう」
静かな声だった。
「お前を、フォーリン家の養子として迎えることを約束しよう」
「──!」
アッシュの目が、僅かに見開かれる。
その反応を見て、イグノアは確信する。
______こいつは、本気だ。
金が欲しいわけでも、ただ権力を欲しているわけでもない。
身分そのものを欲している。
だからこそ、一度手に入れれば簡単には手放さないだろう。
「ただし──」
イグノアは続けた。
「アイヴィスを消せ。証拠を残すな。
フォーリン家が関与したとも、お前が手を下したとも悟らせるな。
それができた時、初めてお前をフォーリン家の人間として認める」
「承知しました」
即答だった。
その迷いのなさに、イグノアは僅かに目を細める。
「二度と、奴がフォーリン家の名を汚さぬようにしろ」
「お任せください」
アッシュは笑いながら答える。
まるで、それが自分にとって難題でも何でもないかのように。
イグノアは、その笑顔を見つめながら思う。
(......フォーリン家も、随分と落ちぶれたものだな)
誇りだったはずの娘。
将来は王宮に仕えるはずだった。
だというのに、用意してあげた道は拒絶され、挙句の果てには薄汚れた冒険者なぞに落ちぶれた。
そして、その代わりに迎え入れるのは、かつて奴隷だった男。
だが──。
これもまた、フォーリン家を存続させるために必要なことなのだろう。
そう言い聞かせるように、イグノアはゆっくりと目を伏せるのだった。




