第十三話「裏切り」
湿った空気が、肺を満たす。
俺は思わず息を呑んだ。
水路の先。
暗闇の向こうに立つ老人からは、肌を刺すような殺気が伝わってくる。
ただそこに居るだけだというのに、息苦しい。
______動けば、殺される。
頭で考えるより先に、本能がそう訴えかけてくるようだった。
「──ヴェノッサ……?」
背後から、グレーゼルの声が聞こえた。
まるで信じられないものを目の前にしたかのような、震えた声だった。
ヴェノッサ。──何度か耳にした名前だ。
その名前を、俺は頭の中で反芻する。
______その瞬間。
頭の奥に、何かが流れ込んできた。
紅の世界。
倒れた同胞たち。
掲げられた、無慈悲なる剣。
そして──恐らくは、若かりし頃のあの男。
「うっ……」
思わず、頭を押さえる。
______知らない。
俺は、こんな光景を知らない。
なのに、どこかで見たことがある。
いや。
この記憶は、俺のものじゃない。
これは──
「メルトナ……?」
隣を見る。
彼女は答えなかった。
ただ、身体を小刻みに震わせている。
顔から、血の気が引いていた。
いつもの余裕なんて、どこにもない。
「……」
メルトナが、ゆっくりと震える手を前へ掲げる。
「──‘’ルシエラ‘’」
その声までもが、震えていた。
______直後、氷の奔流が水路を走る。
ヴェノッサは、避けなかった。
ただ、腰に携えた剣の柄へ、ゆっくりと手を伸ばすだけだった。
「──なぜ、ここにいるかと聞いたな」
ヴェノッサが、淡々と口を開く。
______次の瞬間、彼の傍らから衝撃波が放たれた。
轟音とともに、氷の波が砕け散り、その勢いを失う。
……否。衝撃波などではない。
右手には剣が掲げられている。
それは、ただの一振りの剣撃だったのだ。
「密告があったのだよ」
「密告……?」
ヘンデルが呟いた。
その声色には、隠しきれない戸惑いが滲んでいた。
「──貴様らの作戦とやらも、竜族が紛れていることも、全て伝わっているのさ」
「……なっ」
グレーゼルが息を呑む。
アッシュも表情を強張らせ、メルトナは無言のままヴェノッサを捉えていた。
俺は、何が起きているのか理解できなかった。
______どういうことだ?
誰かが、俺たちを、メルトナを売った?
密告……?
一体、誰が──。
そのとき、ふと視線が止まる。
──エルマ。
「お前……」
「……ち、違う。あたしは──」
瞬間。
ヴェノッサの姿が消えた。
「っ……‘’オルテガ‘’!!」
唯一、メルトナだけが反応する。
前方に結界が展開したと同時に、金属が擦れる音が鳴り響く。
結界越しに、剣を押し込むヴェノッサの姿があった。
間一髪、間に合ったのだろう。
だが……。
一本。
二本。
そして、三本。
ミシミシと音を立てながら、結界に亀裂が走っていく。
「ぐっ……!」
メルトナが苦悶の声を漏らした。
さらに一歩、ヴェノッサは容赦なく踏み込む。
______ピシッ。
最後の亀裂が、結界を走った。
次の瞬間。
______ガシャァアンッ!
結界が、砕け散る。
「──っ!」
その向こうから、剣閃が走った。
「メルトナ!!」
叫んだ。
だが、遅かった。
深々と、彼女の胸元に刀が走る。
「ぐはっ……」
鮮血が舞った。
メルトナの身体が、ぐらりと揺れる。
「──ぁ……」
形にならない声が、喉の奥から微かに漏れた。
目の前の光景を、理解することすらできない。
______否、理解したくなかった。
「貴様には、聞きたいことがある」
冷酷な眼差しは、その対象を俺へと移す。
______ゴンッ。
抵抗する間もなく、俺は剣柄を頭上に叩きつけられた。
視界が滲み──そして、暗転した。
※ ※ ※ ※ ※
チハルの身体が、力なく崩れ落ちる。
そのすぐ隣で、メルトナもまた膝をついていた。
胸元から溢れた鮮血が、湿った石畳を赤く染めていく。
「チハル……! メルトナ……!」
エルマが叫ぶ。
だが、両者とも返事はない。
倒れた彼らの元へ駆け寄ろうとした、その瞬間だった。
「動くな」
低い声が、水路に響いた。
ヴェノッサの剣先がエルマを捉える。
「……っ! クソ野郎……!!」
たまらず、エルマは足を止めた。
しかし、次の瞬間。
「──エルマ!!」
その叫び声と同時に、一瞬にしてグレーゼルが身体を滑り込ませ、ヴェノッサへと抜刀した。
瞬間、ヴェノッサの懐へ稲妻が走る。
「っ……」
凄まじい抜刀速度に、僅かながらヴェノッサの反応が遅れる。
間一髪、その閃光は首筋を捉える直前で静止した。
(閃流か……)
初撃──抜刀術に重きを置き、その速度と威力を追求する、一撃必殺の流派『閃流』。
その代表的な抜刀術の一つ『雷光一閃』。
グレーゼルが放った一撃は、まさしくそれだった。
いくらヴェノッサといえど、完全な対応は難しい。
「クソっ……!」
だが、それを受け止められた以上──グレーゼルに勝機は失われた。
そう、思われた。
「……む」
ヴェノッサは眉をひそめる。
受け止めた剣から伝わってくる重み。
それは、さきほどまでとは変わっていなかった。
むしろ──重い。
彼は僅かに目を細めた。
(その細身で──これほどの膂力を?)
剣を押し返そうとする。
だがグレーゼルの刃は微動だにしない。
______その瞬間。
「ハァッ!!」
この隙を逃すまいと、横合いからヘンデルが剣を抜いた。
狙いはヴェノッサの胴。
だが──。
「──‘’ドルト‘’」
瞬間。
______ゴゴゴゴッ!
ヴェノッサの足元から、大地が隆起する。
「ガッ……」
突如としてせり上がった岩塊が、逆にヘンデルの脇腹を抉った。
ヘンデルの動きは決して遅くなかった。
並の剣士ならば対応できず、胴と腰が泣き別れになっていただろう。
だが──相手が悪かった。
「伊達に長く生きておらんのでな」
長年の経験ゆえの余裕からか、その声には確かな自信と微かな笑みが混じっていた。
「ふん!!」
そして──グレーゼルとの鍔迫り合いもついに押し切られる。
「ぐっ……」
グレーゼルは右半身を切り刻まれ、エルマの傍まで蹴り飛ばされた。
「──エルマッ……!」
ヘンデルの叫びが水路を揺るがす。
「逃げろっ……!」
「……!」
エルマが目を見開く。
「何言ってんだよ! あたしは──」
「──僕たちに構うな!!」
今度は、グレーゼルの怒号が水路に響き渡る。
「あたし、は……」
エルマは唇を嚙み締めた。
______視線の先。
倒れたチハル。
胸を切られ重傷のメルトナ。
傷ついた仲間たち。
どれも、置いていきたくなんてなかった。
「……あたしは、仲間を捨てたりしない」
震える声で、エルマが呟く。
______しかし、ヴェノッサはそんなエルマの言葉など意に介さない。
呆然と立ち尽くすエルマに、無慈悲な剣撃が下されようとした──そのとき。
「「──させるかッ!!」」
グレーゼルが立ち上がり、ヘンデルと共にヴェノッサの前へ躍り出た。
振り下ろされた剣閃を、二人の剣が左右から受け止める。
______ガキィィン!!
凄まじい衝撃が、水路全体を揺らした。
(重い……!)
だが、二人がかりでも押し返すには至らない。
むしろ──少しずつ、ヴェノッサの剣が下がってくる。
「この程度では私は止められん」
ヴェノッサの剣に込められた力がさらに増していく。
限界を迎えようとした、そのとき。
「──エルマァ!!」
グレーゼルが、決死の思いで叫びを上げた。
「今のうちに行け!!」
ヘンデルが、続く言葉を代弁する。
「でも……!」
エルマは二人を見つめる。
グレーゼルも、ヘンデルも血だらけだった。
「気にするな。恩返しさ」
______それでも、二人は一歩も引かなかった。
「……っ!」
エルマの拳が震える。
仲間を置いて逃げるなんて、絶対に嫌だ。見捨てたくない。
それでも──。
今ここで自分まで倒れれば、誰も助からない。
「……わかった」
溢れ出す感情をぐっと堪えて、涙ぐみながらも懐へ手を伸ばす。
「──絶対、生きて帰って来いよ」
取り出したのは、一枚の小さな紙切れ。
ただの紙切れではない。そこには、面妖な紋章が刻まれていた。
「……あぁ」
ヘンデルが、掠れた声でそう返す。
やがて──。
エルマは、握りしめた紙切れに魔力を流し込んだ。
ボッ。
青白い炎が紙を包み込む。
「──‘’ポルテラ‘’」
その瞬間。
エルマの身体を、淡い光が包み込んだ。
「──転移魔術だと? どこでそれを……」
やがて──ヴェノッサの剣が、二人の剣を押し切る。
そして、その凶刃がエルマに振りかざされる前に──
「……ごめん」
最後にそう呟いて。
エルマの姿は、光の中へと消えていった。
※ ※ ※ ※ ※
エルマは逃亡。
残されたのは、気絶したチハル、瀕死のメルトナ、吹き飛ばされた童話兄弟。
そして──。
「もう、いいだろ」
アッシュ。彼は静かに口を開いた。
「……は?」
ヘンデルが振り返る。
そこには、俯いたまま立ち尽くすアッシュの姿があった。
「諦めろ。お前らが勝てる相手じゃねえ」
「──アッシュ……?」
グレーゼルが怪訝そうに彼を見る。
「悪いな」
アッシュはヴェノッサと視線を合わせる。
しかしヴェノッサは、アッシュを気に留めることなく剣をしまった。
______その様子を見ていたヘンデルが目を見開く。
「アッシュ──まさか」
「まあ、そういうことだ」
アッシュの視線が倒れているメルトナへ向いた。
「姉ちゃんを売ったのは俺だ」
「……っ!!」
グレーゼルが息を呑む。
「どうして……」
ヘンデルの声が震える。
「金だよ」
アッシュは淡々と、それだけを答えた。
その告白に、童話兄弟はそれ以上声が出なかった。
______絶句だった。
ヴェノッサも、何も言わない。
ただ、アッシュの横を通り過ぎる。
やがて暗闇の向こうから、数人の衛兵がやってきた。
「こやつらを牢屋に連れていけ」
「はっ」
衛兵たちが一斉に返事をする。
「黒髪の男は、後に尋問にかけろ。
アイヴィス嬢から、竜族の女と行動を共にしていたと聞いたのでな」
「承知しました」
やがて、彼らは倒れた四人の元へ近づいていく。
______そのとき。
「……ッ」
メルトナが、ゆっくりと顔を上げた。
その紅い瞳が、一人の衛兵を射抜く。
「ひっ……!」
たまらず、その衛兵は腰を抜かした。
血だらけで倒れているにも関わらず、その眼差しには凄まじい殺気が宿っていた。
「怖気づくな。この女はもう抵抗できん」
「……は、はいっ!」
ヴェノッサが一喝すると、衛兵は慌てて姿勢を正した。
だが、メルトナから視線を逸らすことはできなかった。
そんな彼らを横目に、ヴェノッサはメルトナの元へ歩み寄る。
「お前は、私が連れていく。
王都にて、民衆の眼前で処刑し、民の安寧を取り戻す」
「──ぅ……」
メルトナが僅かに身体を動かそうとする。
しかし、深く傷ついた身体は思うように動かない。
そのうえ、声を出そうとするたび血の塊が口からこぼれ出る。
______それでも、その瞳だけはヴェノッサを睨み続けていた。
「凄まじい生命力だな。それに、その眼……」
ヴェノッサは一瞬だけ彼女を見下ろす。
「あの頃から、何も変わっておらん」
そう呟くと、メルトナを抱えたまま歩き始めた。
「──待てっ……!」
そのときだった。
グレーゼルが立ち上がろうとする。
「彼女を……」
「──グレーゼル!」
そんなグレーゼルの肩を、ヘンデルが咄嗟に掴んだ。
「兄さん……!離して……!」
「今は、無理だ!」
ヘンデルも傷だらけだった。
それでも必死にグレーゼルを押さえ込む。
「ここで逆らったって、僕たちまで殺されるだけだ」
「……っ」
グレーゼルは必死に怒りを押し殺しながらも、
歯を食いしばり、ヴェノッサを睨みつけていた。
だが──。
ヴェノッサは振り返らない。
そのまま、メルトナを抱えて暗闇の向こうへと消えていく。
「クソッ……」
グレーゼルが拳を握り締める。
そして残されたチハルと、童話兄弟のもとへ衛兵たちが歩み寄った。
それを横目に、アッシュはただ立ち尽くす。
「おい、そっちの二人を運べ」
「この男は俺が運ぶ」
こうして──。
チハルたち六人はバラバラに引き離された。




