妹の形
「それで、お兄ちゃん。何か言うことはある?」
「……いえ、何もありません」
俺は今、我が家のリビングで腰に手をあて怒りのポーズをとる美少女の前で正座している。
小さな体つきに肩より少し上のあたりで切りそろえられたブラウン色の髪。大きな瞳と整った顔立ちは愛嬌があり、笑った時に覗く八重歯がそれを引き立てている。正直言ってとても可愛い。……そう、いつもなら。
時刻は十九時。家の中にいるというのに何故だか温かさを感じないのは、きっと少し前まで片付けが面倒だと言う理由で放置されていた炬燵が遂に押し入れにしまわれたからに違いない。決して冷たいフローリングの上で正座させられた上に愛してやまない妹のまなみから凍てつく氷の女王さながらの目で見つめられているからではない。
一ノ瀬と別れた後、俺は今日どこにも立ち寄らずに真っすぐ帰宅した。サラリーマンの帰宅ラッシュと被ってしまい電車の中でずっと立ちっぱなしだった俺は家に着くなり挨拶を済ませると、そのまま風呂に直行しようとしてまなみに捕まったのだ。
「はあ、今日のシチューには私の好きなグリーンピース入っていないんだけどな~。明日の朝ごはんに作ろうと思って買っておいたベーコンもどこいったんだろうね~」
そう言って笑うまなみの目は驚くほどに笑っていない。
「さ、さあ、どうしたんだろうな? そういえば近頃巷じゃベーコン泥棒やグリーンピース泥棒なんてのが流行ってるらしいぞ。いや~、災難だったな。これに懲りたら今度からは家の戸締りをしっかりしてそいつらは金庫の中にでもしっかり保管しとこうな」
「………(ニッコリ)」
「すみませんでした!」
俺は自分の妹に何のためらいもなく頭を下げる。正座していた俺が頭を下げるのだからそれはもうどこからどう見ても土下座である。まさか二日続けて可憐な乙女に土下座するとは思わなかった。……先生も勿論可憐な乙女だ。異論は許さない(注:許されない)
「……まあ、別にもういいんだけどね。ただ今日の晩ご飯が少し美味しくなくなって、明日の朝ごはんのクオリティがズドーンっと下がって、私のテンションもズドガーンっと下がるだけだから」
「いや、それ全然許してくれてないじゃん」
チクチクと嫌味を言うまなみ。普段はアホ丸出しで愛嬌の塊なのだが、今日はいつもと一味違う。俺は何も反論できないので、素直に受け入れるしかなかった。
さっきからまなみが言っているベーコンやグリーンピースとは今日、遅刻した俺がお昼に作ったチャーハンの具材だ。帰りにアイスと一緒に買ってこっそり戻しておくつもりだったのだが、一ノ瀬達と話していてすっかり忘れてしまっていた。
そして、そのことがバレて今に至ると言うわけだ。
知らない間にアイスが増えて食材も新しくなっていることに気づいたまなみが、
「お兄ちゃん、何か私に言うことあるでしょ?」
と愛のこもった目で尋ねてきて、
「さあ、何のことだか分からないな~」
と余裕たっぷりに微笑む俺。
「もう、素直じゃないな~。でも、そんなところが大好きだよ♪ 今夜はデザートにコーヒーゼリーもつけてあげるね」
そう言って照れたように頬をかくまなみ。そして兄妹の絆を確かめ合った俺たちはどちらからともなく笑い出す。外はまだ寒いけれど我が家はとても温かくて、俺は少し早い夏の雅を感じるのだった。
という俺の計画は見事に崩れ去り、一致しているのは始めの、
「お兄ちゃん、私に何か言うことあるよね?」
のくだりだけである。しかも全く違う感情を伴った。
いや、俺も電車に乗るまでは覚えてたんだよ。覚えてたんだけどあまりの込み具合に途中で降りてスーパーによるのが面倒くさくなったのだ。でもしょうがないよね。だって通勤ラッシュの時間帯とか痴漢なんかの危険も増えるっていうし、あたし怖かったんだもん。……うん、全然関係ないな。むしろ入学式の日に痴漢をしたのは俺だ。
「……プッ………フフフ………アハハハハ」
俺がどうやって機嫌を直してもらおうかと思案にふけっていると、破顔一笑。まなみはこらえきれないとばかりに大声を上げて笑い出した。
「アハハハ、冗談だよ、冗談。私べつにそんなに怒ってないよ? というか、ベーコンとかグリーンピース勝手に食べちゃったくらいでそんなに怒るわけないじゃん。むしろ明日お兄ちゃんと買い出しに行ける理由ができて嬉しいくらいだよ」
「へ? お、おこってないのか?」
「当たり前じゃん。それともお兄ちゃんは私がこんなことくらいで一々機嫌を悪くする束縛系の面倒くさい女だと思ってたの?」
「い、いや、そうじゃない! そうじゃないんだが……、ただ、さっきの目が本当に怖かったからてっきり本気で怒ってるのかと」
「ああ、それは別の理由だよ。ちょっとお兄ちゃんから知らない女の匂いがしたから不愉快だっただけ」
「え……。そ、それも冗談だよな?」
「さあ、どうかな~」
「ハ、ハハ………ハハハ」
その含みのある言い方に俺はただかすれた声で笑うことしかできない。まなみがどういうつもりで言っているのか分からないが、その魅惑的な微笑には先ほどの怒った無表情よりもよっぽど恐怖を感じた。いつもはアホで可愛い自慢の妹だが、今のまなみからは妙な色気までも感じる。
「フフッ……さてと。お兄ちゃんをからかうのも楽しいけど、そろそろお風呂入って来てね。じゃないと私たちも入れないから」
我が家の家族構成は以前にも言った通り俺、妹、姉、母の四人家族でいわゆる母子家庭だ。と言っても、母は優秀なキャリアウーマンの上に笑顔が素敵というパーフェクトレディーであるため、家計に困ることなく、三人兄弟の内二人がアホみたいに学費の高い私立高に通えるくらいには、恵まれた生活をさせてもらっている。まあ、俺は高校なんてどこでもいいって言ったのに無理やり一ノ瀬を受験させたのは他でもない母さんなのだが。学費を払ってもらう立場の俺に断れるわけもなく、俺は無事受験に合格し、今の生活を送っている。……入学初日にクラスメイトのおっぱい触って皆から嫌われているなんて、母さんに知られたら本気で泣かれてしまうかもしれない。その事実を家族にだけは知られてはならないと、固く誓った。
「なんだ、別に風呂なんて先に入っていてくれて良かったのに。なんなら俺最後に入るぞ」
「それはダメ‼」
「うおっ⁉」
「だってお兄ちゃんが先にお風呂に入ってくれないと後から入ってお兄ちゃんの入った残りっ――てちがう! 何言ってんの私⁉」
「え? わるい、まなみ。声が小さくてよく聞こえないんだが」
「べ、別に何でもないよ! それよりほら、ええと………そう‼ 私たち家族だけど一応男女だからさ、その、私もお姉ちゃんもそういうの気にする年頃だから、ね?」
「お、おう」
自分でそういうの気にする年頃なんて言う奴もなかなかいなさそうなものだが、まなみがそう言うのならそうなのだろう。いくら普段から気安く接していても、そういうところはまた別の問題なんだな。なんだか壁があるようで少しショックだ。だが、何も本人たちが気にするというのなら俺にできることはとっとと先に風呂を済ませて、浸かっていない温かくて綺麗なお湯を提供することくらいだ。ちなみに、俺は後に入ってくる皆が俺の浸かったお湯をわざわざ張り替えたりしなくていいように、いつもシャワーだけでお湯には浸かっていない。こういったさりげない気遣いが共同生活をより快適に過ごす秘訣だ。
「じゃあ、ありがたく一番風呂をいただくとするか。いつも悪いな」
「き、気にしなくていいよ。それよりさっきの話だけど、別に私たちはお兄ちゃんに下着見られたり着替え覗かれたり体洗ってるときに入ってこられたりするのが嫌とかそういうんじゃないからね! むしろ、バッチ来いと言うかウェルカムというか、こっちから行くぞって感じなんだけど、って違くて! だからね、そう、だからっ‼」
「わ、分かったから。大丈夫だまなみ。俺はお前達が嫌がるようなことは絶対にしないしできない。だから安心しろ、俺にそんな度胸や甲斐性はない!」
俺は胸を張って言う。……いやね、こういうことはしっかりと否定しておかないとさ。それが原因で不仲になったりしたら最悪だし。そう、だから別に俺がヘタレなわけじゃない。……多分、きっと、maybe。
「……このヘタレ」
「え、何か言ったか? まあいいや、それじゃあまた後でな」
俺はそう言い残すと正座を崩して立ち上がり、風呂場へと向かう。ちなみに、先ほどまでの会話も俺はずっとフローリングの上に正座したまま行っていたため、足が痺れてしばらく蟹股になりながら歩いたことは言うまでもない。




