妹の形
「それで、お兄ちゃん。何か言うことはある?」
「……いえ、何もありません」
俺は今、我が家のリビングで腰に手をあて、お怒りのポーズをとる妹の前で正座している。
小さな体つきに肩より少し上のあたりで切りそろえられたブラウン色の髪。大きな瞳と整った顔立ちは愛嬌があり、笑った時に覗く八重歯がそれを引き立てている。正直言ってとても可愛い。……そう、いつもなら。
一ノ瀬と別れた後、俺は今日どこにも立ち寄らずに真っすぐ帰宅した。サラリーマンの帰宅ラッシュと被ってしまい、電車の中でずっと立ちっぱなしだった俺は家に着くなり挨拶を済ませると、そのまま風呂に直行しようとして、まなみに捕まったのだ。
「……はあ。今日のシチューには私の好きなグリーンピース入っていないんだけどな~。明日の朝ごはんに使おう思って買っておいたベーコンも、どこいったんだろうね~」
そう言って笑うまなみの目は驚くほどに笑っていない。
「さ、さあ……どうしたんだろうな? そういえば近頃、巷じゃベーコン泥棒やグリーンピース泥棒なんてのが流行ってるらしいぞ。いや~、災難だったな。これに懲りたら今度からは家の戸締りをしっかりして、そいつらは金庫の中にでもしっかり保管しとこうな」
「………(ニッコリ)」
「すみませんでした!」
俺は妹に何のためらいもなく頭を下げる。正座していた俺が頭を下げるのだから、それはもうどこからどう見ても土下座である。まさか二日続けて可憐な乙女に土下座するとは思わなかった。……先生ももちろん可憐な乙女だ。異論は許さない(注:許されない)
「……まあ、別にもういいんだけどね。ただ今日の晩ご飯が少し美味しくなくなって、明日の朝ごはんのクオリティがズドーンっと下がって、私のテンションもズドガーンっと下がるだけだから」
「いや、それ全然許してくれてないじゃん」
さっきからまなみが言っているベーコンやグリーンピースとは今日、遅刻した俺がお昼に作ったチャーハンの具材だ。帰りにアイスと一緒に買ってこっそり戻しておくつもりだったのだが、一ノ瀬達と話していてすっかり忘れてしまっていた。
そして、そのことがバレて今に至るというわけだ。
知らない間にアイスが増えて食材も新しくなっていることに気づいたまなみが、
「お兄ちゃん、何か私に言うことあるでしょ?」
と愛のこもった目で尋ねてきて、
「さあ、何のことだか分からないな~」
と余裕たっぷりに微笑む俺。
「もう、素直じゃないな~。でも、そんなところが大好きだよ♪ 今夜はデザートにコーヒーゼリーもつけてあげるね」
そう言って照れたように頬をかくまなみ。そして兄妹の絆を確かめ合った俺たちはどちらからともなく笑い出す。我が家の温かさに、俺は少し早い夏の雅を感じるのだった。
――という俺の計画は見事に崩れ去り、一致しているのは始めの、
「お兄ちゃん、私に何か言うことあるよね?」
のくだりだけだ。しかも全く違う感情を伴った。
いや、俺も電車に乗るまでは覚えてたんだよ? 覚えてたんだけど、あまりの込み具合に途中で降りてスーパーによるのが面倒くさくなったのだ。でもしょうがないよね。だって通勤ラッシュの時間帯とか痴漢なんかの危険も増えるっていうし、あたし怖かったんだもん。……うん、全然関係ないな。むしろ容疑者は俺だ。
「……プッ………フフフ………アハハハハ」
俺がどうやって機嫌を直してもらおうかと思案にふけっていると、破顔一笑。まなみはこらえきれないとばかりに、突然、大声を上げて笑い出した。
「アハハハ、冗談だよ、冗談。私べつにそんなに怒ってないよ? というか、ベーコンとかグリーンピース勝手に食べちゃったくらいでそんなに怒るわけないじゃん。むしろ明日お兄ちゃんと買い出しに行ける理由ができて嬉しいくらいだよ」
「へ? おこってないのか?」
「当たり前じゃん。それともお兄ちゃんは、私がこんなことくらいで一々機嫌を悪くする束縛系の面倒くさい女だと思ってたの?」
「い、いや、そうじゃない! そうじゃないんだが……、ただ、さっきの目が本当に怖かったから、てっきり本気で怒ってるのかと」
「ああ、それは別の理由だよ。ちょっとお兄ちゃんから知らない女の匂いがしたから、不愉快だっただけ」
「え……。そ、それも冗談だよな?」
「さあ、どうかな~」
「ハ、ハハ………ハハハ」
その含みのある言い方に、俺はただかすれた声で笑うことしかできない。まなみがどういうつもりで言っているのか分からないが、その魅惑的な微笑にはさっきまでの怒った顔よりもよっぽど恐怖を感じた。いつもはアホで可愛い自慢の妹だが、今はどこか妙な色気までも感じる。
「フフッ……さてと。お兄ちゃんをからかうのも楽しいけど、そろそろお風呂入って来てね。お姉ちゃんもお母さんも今日は遅いって言ってたし、私は洗濯物畳んでるから」
ふと気を取り直すように言って、ニコッと笑うまなみ。
どうやら、これで今日の説教タイムは終いのようだ。
「あ、ああ分かった。悪いな。それじゃあ、お先に」
俺はそう言い残すと、正座を崩して立ち上がり、風呂場へと向かう。ちなみにまなみとの会話中ずっと正座していた俺が足の痺れを堪え、蟹股で歩いたことは言うまでもない。




