第二章、三人の絵師、三つの大欲「画面をぶち破るような『血の通った暴力』だろ!」
しかし、ネットの流行は一瞬だ。太陽が沈んだ暗がりの向こうから、師宣の「線の絶対主義」に反旗を翻す若き絵師たちが、牙を剥いて画面に躍り出てきた。
最初に殴り込みをかけてきたのは、一匹狼の鳥居清信だった。清信の家系は、画面の外の世界で大劇場の芝居看板を一手に引き受ける名門の看板絵師だった。父親が描き出す巨大な絵の力で家族の生活は完全に成り立っており、清信はその脈々と流れる職人の血と英才教育をそのまま液晶画面へと持ち込んだ男だった。
当時、新しく台頭してきた動画配信プラットフォームという新たな舞台では、わずか十四歳にして圧倒的な存在感を放つ若き天才が初投稿を果たし、大衆の熱狂を一身に集めていた。のちにその世界を統べる巨名を襲名することになるその少年が、画面の向こうで睨みを効かせ、極端に誇張された力強いパフォーマンスで視聴者を圧倒する。それまでの常識をぶち破る剥き出しのエネルギーに、誰よりも早く反応したのが清信だった。
清信は画面の向こうで少年が放つ、骨をきしませるような熱量をデジタルイラストに移植しようと試みた。ペンタブレットの板に傷をつけるような勢いでペンを叩きつけ、極端に太く、不自然にうねる凶暴なデジタル線画を刻みつけた。
「師宣のオヤジの線はよ、お上品で退屈なんだよ! ネットのガキどもが求めてるのは綺麗な姉ちゃんじゃねえ。画面をぶち破るような『血の通った暴力』だろ!」
清信が放った絵は、まるでうねるミミズのような線のエネルギーで満ちていた。清信はその狂気的な線を用いて、画面の中で暴れ回る過激な表現者たちの姿を次々と描き、新時代の最前線を力ずくで強奪していった。
その清信の荒々しさを、液晶画面の光越しに冷ややかに観察していたのが奥村政信だった。彼はのちに自ら版元を立ち上げて市場を支配することになる、冷徹なビジネスマンだった。実家が本や絵草紙の出版・流通に深く関わる商人の家系だった政信は、絵の高等教育こそ受けていない独学の徒であったが、血筋として「大衆に絵をどう届ければ売れるか」という商流を最初から見抜いていた。
政信は、清信の暴力的な線に対抗するため、大衆のより卑俗で、かつ親しみやすい欲望に狙いを定めた。それが、力士たちの肉体美と艶やかなパロディを融合させた一大問題作のデジタルリリースである。
「ウケなきゃ、どんなに良い絵を描いたってただの自己満足ですよ。師宣が消えたなら、その席、僕がもらっちゃいますね」
政信の武器は、大衆の欲望を嗅ぎ取る圧倒的な嗅覚だった。当時ネット上で大炎上していた大企業の内部告発ニュースや、画面の外の世界で起きた男女の心中事件のタイムラインを即座にキャッチ。それらを不謹慎なまでのパロディ画本のデータとして連続でネットにリリースした。
「炎上? 大いに結構。僕が売っているのは絵じゃない、大衆の『覗き見根性』ですから」
叩かれながらも、アクセス数を爆発的に稼ぎ出す政信は、ネットの「バズの法則」を完全にその手の中に収めていく。
この二人の爆発的な動のエネルギーとは対照的に、画面の向こうで静かに、しかし確実に現代の「萌え」の基礎を築き上げていたのが西川祐信だった。彼は流行り病のような狂騒には乗らず、ただひたすらに画面の中のキャラクターを「最も美しく、愛らしく見せるための黄金比」を研究し続けた。
当時、画面の外の世界では、布の上にまるで絵の具で描いたかのような自由で華麗な色彩が躍る伝統的な染め物の意匠が、人々の日常を鮮やかに塗り替えていた。それは古くからある技術でありながら、洗練を極めて今なおすべての女性たちの憧れであり続けていた。ネットの住人たちもまた、アバターと呼ばれる画面上の自分の分身に、きらびやかな衣装を着せて着飾る「デジタル着せ替え文化」に熱中し始めていた。
祐信はその流行を完全に捉えていた。「清信さんの線は強すぎる。政信さんの絵は毒が強すぎる。大衆が本当に日常の中で隣にいてほしいと願うのは、もっと柔らかく、自分好みの美しい衣装を纏った、守りたくなるような存在のはずです」
祐信は、デジタル特有の手ぶれ補正の数値を極限まで高く設定し、髪の毛の一本、華やかな衣服のシワの弛み一つにいたるまで、徹底的に記号化された「美の雛形」をネットの海へ投下した。それはのちに、あまたの絵師たちが模倣することになる、キャラクターたちの教科書となった。彼の描く、どこか幼さを残した少女たちの絵は、過激さに疲れたユーザーたちの心を急速に侵食し、日常の癒やしとして熱狂的な信者を生み出していった。




