第一章、カリスマの沈黙と、二つの遺産
「これ以上、この四角い画面で描くものはねえよ」
二〇〇三年。ネットが光ファイバーという高速の血管を手に入れ、劇的な進化を遂げようとしていたその矢先、菱川師宣はそう言い残してアカウントを消した。
伝説のギルド、サークル『菱川』を頂点に君臨させたカリスマの突然の永久沈黙。師宣の描く「振り返りざまの一枚の女の絵」をアイコンに設定し、神のように崇めていたネット民は色を失った。彼が去ったアパートの机には、使い古されたプロ用のペンタブレットだけが残されていた。プラスチックの板は、男が何万回と鋭い線を引いたせいで、まるで本物の彫刻版木のように深く削れ、指の跡が赤黒く染み付いていた。若くないその手が、命を削ってデジタルに線を刻んでいた証拠だった。
だが、師宣が消えた本当の理由は、ただの燃え尽きではなかった。彼が最後に手掛けた二つの大仕事が、ネット社会の構造そのものを狂わせ始めていたからだ。
一つは、西の巨大都市のネット掲示板で先行して爆発的な大流行を見せていた、大衆向けの通俗的な連載小説、いわゆる新たな時代の娯楽小説の金字塔を、師宣が独自の解釈で全編挿絵化した電子絵本である。それまでのネットに転がっていた、お堅い道徳観や文字ばかりの退屈な読み物――黎明期のテキスト表現を、師宣の絵は文字通り過去のものにした。ページをめくるたびに、画面の向こうから匂い立つような男女の交わりと大衆の赤裸々な欲望が、圧倒的な線の魅力で視覚化される。この電子絵本の爆発的なダウンロード数が、文字中心だったネットを「絵が主役の娯楽空間」へと完全に変貌させた。
そしてもう一つが、地図データと個人の位置情報を完全に連動させた、前代未聞のデジタル絵地図の制作だった。師宣は、ただの記号に過ぎなかった無機質なデジタル地図の上に、街道の景色、名物、行き交う人々の息遣いをすべて肉筆のタッチで描き込んだ。大衆は画面をスクロールしながら、まるで自分が旅をしているかのような錯覚に陥り、ネットと現実の距離が一気に縮まる快感に震えた。
「すべてを描ききっちまった。道具が便利になり、誰もが俺の真似をして旅に出る。これ以上、この四角い画面で俺の魂を削る理由はねえ」
師宣はそう呟き、膨大なフォロワーを捨てて夜の街へと消えた。道標を失った若い門帝たちは、時代の急激な高速化を前に、急速に市場から押し流されていった。




