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神絵師、二〇二六年七月に死す  作者: 海内裏
序章:デジタル浮世の幕開け(一九九五-二〇〇二)

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序章:デジタル浮世の幕開け(一九九五-二〇〇二)

「どうせはかない世の中なら、浮かれて暮らそう」

かつてこの国の人々は、地獄のような天災や時代の激変に直面するたび、そう言って笑い飛ばした。つらく、はかない現実を、知恵と娯楽でひっくり返す。その圧倒的なエネルギーが、液晶画面の奥底でいま、再び目を覚まそうとしていた。


一九九五年、世界を塗り替える新しい基本ソフトの発売。それは、誰もが情報の発信者になれる新世界の幕開けだった。初期のインターネット空間は、無法地帯の熱狂に満ちていた。有象無象の素人が私的なホームページを乱立させ、剥き出しの欲望や過激な二次創作が混沌と煮たぎる。深夜、ダイヤルアップ接続の電子音とともに、毎夜数万人のユーザーがアングラな掲示板へと押し寄せた。アクセス過多でサーバーが落ちるたび、大衆は歓声をあげた。

だが、絶望がネット社会を襲う。ITバブルの崩壊だ。昨日まで時価総額数億円を誇ったベンチャーや、人気サイトのサーバーが、資金ショートによって一夜にして次々と燃え尽きていく。画面の向こうが一瞬で真っ黒な空白に染まる光景は、すべてを灰土にする大災害のようだった。

しかし、人間の娯楽への飢えは消えない。ネット民は、より強固な匿名掲示板や高速回線へと拠点を移していく。ただ暴れるだけのアングラは終わり、言葉の刃や技術で魅せる、洗練されたネット文化の時代へと脱皮を始めた。

その混沌のなかで、のちに歴史の特異点となる一枚の絵が、掲示板に投下された。

当時のネット回線は細く、頼りない。わずか数百キロバイトの画像データすら、開くのに数十秒の時間を要した時代だ。大衆に届かせるためには、画像を極限まで軽量化し、二百五十六色という貧弱な規格の中にすべてを込めねばならなかった。それはかつて江戸の絵師たちが、限られた「版木」の数で世界を表現した、あの制約の再現だった。

線のガタついた稚拙なドット絵しか存在しないはずのその環境で、アップロードされた画像は異彩を放っていた。

男が握っていたのは、まだ一般には普及していなかった、ごく一部のプロ用のペンタブレット。液晶画面のなかに一発で引き直された、完璧な肉筆の曲線。そして、二百五十六色という極限の制限のなかで、ドットの配置を計算し尽くし、キャラクターの唇と頬だけに鮮烈な「赤」を灯してみせた。

画像がノイズ混じりにロードされる数秒の静寂の後、モノクロの世界に一筋の色彩が吹き込まれた。その職人技に、ユーザーは指を止めた。画面から匂い立つような圧倒的な「色気」が、大衆の脳を直撃した。

『この絵を描いたのは、誰だ?』

殺到する書き込みのなか、その絵師は、ただ一言のハンドルネームを名乗った。「小むらさき」――のちに、デジタルイラストをそれ一枚で大衆を狂わせる独立した芸術へと進化させ、「イラストレーター」という概念そのものを創り出すことになる男。──菱川師宣の、これが現代における産声だった。

「小むらさき」の絵に惚れ込み、自らサーバーを立ち上げて彼を支えた若きパソコンオタクの青年は、画面の輝きを見つめながら震える声で呟いた。

「この四角い箱は、ただの通信機械じゃない。現代の『版木』だ。お前は、新しい時代の絵師になるんだ」

小むらさきは、不敵にニヤリと笑った。「名前なんてどうでもいい。ただ、この世界に生きる奴らが喜ぶなら、俺はどこにだって、何度だって描いてやるよ」

二〇〇二年。ブロードバンドという大波が家庭に押し寄せ、ネット発のカルチャーが完全に市民権を得た。若き十代の天才クリエイターたちが新しい玩具を手に入れたように突如出現し、ネット特有のパワフルで過激な表現ジャンルを確立していく。

だが、若さという武器を持たないその男は、すでに人生の酸いも甘いも噛み分けた、老練な職人の手つきでペンタブレットを握っていた。長年アナログで培ってきた圧倒的な「骨格と線の技術」で、新世代の天才たちを蹂躙していく。時代は、本物の職人を求めていた。

名もなきオタクたちを率い、世界初のデジタル絵師ギルド――サークル『菱川』が産声をあげる。

それは、これから始まるテクノロジーの進化と、それに伴う表現者たちの闘争――そして二十四年後、彼がデジタルにすべてを吸い尽くされて息絶える、あの二〇二六年七月へと続く、すべての始まりの鐘の音だった。

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