6.
獲物を目前にして奪われた狼は、怒りの形相でシウスの背中を襲う。
瞬時に紺碧のサマーコートが翻り、両足首の魔力が肥大化。悪魔じみた双翼が、怪物の勢いを相殺すべく交差した。
――分厚い岩盤が粉々に打ち砕かれるような衝撃音。
しかし、シウスは文字通り動じない。背後を振り向くこともせず、足元より伸びる羽根だけで、敵の攻撃をあっさり防御していた。
その事実に自尊心を傷つけられたのか、怪物はさらに片目を血走らせる。
「グオオォォォ――!」
「……やかましい。少し黙ってろ」
大音量の咆哮は、ひどく耳障りだった。感情を含まぬ低い声での呟きに刃のような鋭さが見え隠れする。
巨体との戦いは、<アーマード・ヒュドラ>で経験済みだ。如何な異形が相手でも、恐怖を覚えることはない。
シウスは抱きかかえたままの白い少女を、そっと地に下ろした。
エリアボスよりも、ノイエの容態の方が心配なのである。
「傷の具合は?」
「大丈夫です。現実ならば、弓を引けなくなるところでしたが……」
ノイエは苦笑いをしつつ、思考操作でHPポットを使用する。
仮想空間なので当然だが、痛みもなく、右肩の穴はすぐに塞がった。
とはいえ、エリアボスが目と鼻の先にいるというのに、まるで無関心な青年には呆れてしまう。空を飛んで現れたことといい、人間離れした抜刀術といい、相変わらず型破りなことばかりする。
これだけ絶好調ならば、アバターの問題は解決したはずだ。
戦力の大幅増は、確定したも同然である。
「ときに、敵の情報は必要ですか?」
ノイエは、双翼の守りを突破しようと必死な狼の頭を指差す。
表情一つ動かさないシウスとの対比は、実にシュールだ。彼方の仲間も異様な光景にどよめいている。
青年は、ユウナギから連絡を受けたハルに、サルデニアの異常を教えてもらっただけで、ろくに状況を把握していない。在り難い申し出に、即座に頷くと、少女は長い銀髪を弄びながら話し始めた。
「その生首は、<ヴァーリ山脈>のエリアボスが、何らかの要因で変異したものと思われます。北欧神話において、ヴァーリという名の神は二柱登場しますが、おそらく、ロキとシギュンの子を示しているのでしょう」
シウスは説明に聞き入る。神話知識でノイエの右に出る者は、そうそういない。それは、彼とて例外ではないのである。
「ヴァーリはロキへの戒めの一環として、狼に姿を変えられます。
これだけ聞くと、そのボスがヴァーリそのものに思えますが……」
シウスの肩越しに怪物を眺め、ノイエはかぶりを振った。
「それでは、法則性が崩れます。蛇を意味する<アスプ古代遺跡>のボスがヒュドラなのに、<ヴァーリ山脈>のボスがヴァーリでは不自然です」
「まあ、確かに。エポナは馬の守護神ですから、ボスがユニコーンで納得ですけど……<クルト湿原地帯>のクルトって何ですか?」
よもやクルトンの亜種かと、シウスが眉間にしわを寄せる。
スープの浮き実と<ボマー・ストラス>の関連性は、全く見出せない。
的外れな思索を汲み取り、ノイエはくすりと笑みをこぼす。
「クルトはインド神話に記述される聖鳥・ガルーダの別名です。
ストラスは鳥の姿をした、ソロモン七十二柱の悪魔ですね」
(……そりゃ食べ物じゃないわなぁ)
シウスは解説に得心するも、ある事実に思い至り、首だけで振り向く。
どす黒い魔力を血飛沫のように噴出する異形の獣は、注意深く観察しても、正体を看破できない。犬や狼の魔物は、いくつも存在するのだ。
(多頭のケルベロスとオルトロスを除くとしても、ガルムにフェンリル、ティンダロスの猟犬。ソロモン七十二柱なら、マルコシアスにグラシャラボラス――無理だ。候補の数が多すぎる……)
「このボスは十中八九、フェンリルでしょう」
シウスの内心を悟ったノイエが、妙にきっぱりと断言した。
不思議に思い、すぐさま根拠を問う。
「何故、そう言い切れるんです? フェンリルがロキの子だから?」
「それも理由の一つですが、決め手は能力です。プレイヤーを捕食し、HPを吸収する――これは、オーディンを飲み込んだラグナロクの再現と推察されますので」
「…………!」
それを聞いて、やっとシウスは<ギガントマキア>のメンバー、ひいてはオズマの姿が認められない理由を知る。拠点ごと食らい尽くされてしまえば、VRMMO初心者だろうがベテランだろうが、関係なく即死なのだ。
生存者がいないのは、<テレポート>を封じられたためか。
元より嫌な予感はしていたが、全速力で飛んで来て正解だった。
(<トランス・ダーキニー>の能力と似てるな。多人数で戦う場合、こいつのほうが厄介そうだが……)
いい加減、異形の唸り声が鬱陶しくなり、シウスは思考操作で大剣を抜き放ち、下段に構えた。左足を軸に旋回し、遠心力のみならず、双翼の推進力を込めた切り上げを、眼前の狼に見舞う。
「<レイジングソード>」
――静かな宣告とは裏腹に、山麓に轟音が奏でられた。
両手剣の斬撃と同時に地表はめくれ上がり、怪物の巨体はきりもみ回転しながら大地を一直線に削り取る。
さしもの異形も体勢を立て直すまで、しばらくの時間を要した。
ただ一振りでこの威力。尋常でないパワーに、ノイエは目を丸くする。
遠巻きに見物しているプレイヤー達は、完全に引いていた。ゼフィラは頭を抱えているし、キルケは腹部を押さえて真っ青になっている。
エーギルはツボに嵌まったのか、一人で大笑いだ。
「ヴィーザルですか、あなたは……」
「いや、素手でフェンリルを引き千切ったりはできませんよ。
上級職の性能あってのことですし」
シウスはさらりと言ってのけるが、上級職は公に確認されていない。
転職の解禁を告げるメールにも、詳細な条件は載っていなかった。
「上級職への転職条件を見つけたのですか?」
「えっと、ノイエさんも上級転職章、持ってるでしょう?
<イヴァン海中宮殿>でドロップしたじゃないですか」
「はい?」
予想外の返答に、ノイエの口から間抜けな声が漏れた。
シウスは構わず言葉を続ける。
「俺の場合――<堕剣士>への転職は、<剣士>LV40以上とエリアボスの討伐経験も必要でした。ノイエさんとゼフィラさんも、上級職になれると思いますよ。LVは1に戻っちゃいますけど」
「……なるほど。合流が遅れたのは、レベリングのためですか」
ノイエは納得と共にメニュー画面を開き、<パーティー>に触れる。
メンバーの編成を行えば、実際に、彼は<剣士>でなくなっていた。
『ノイエ <狩人> LV47
ゼフィラ <占術師> LV45
キルケ <魔法使い> LV36
シウス <堕剣士> LV22』
少女の推測通り、シウスは素材集めも兼ねて、<エポナ大森林>に籠って蜘蛛型のモブ・ヴェノムスパイダーを狩り続けていた。入手した魔力糸をハルに加工してもらったのが、現在装備している<破毒の衣>である。
「――話に花を咲かせるのも良いが、今は戦闘中ぞ。そろそろ構えよ」
忠告は、近寄って来た<占術師>のそれだ。
ゼフィラは深紅の瞳に多大な呆れを含ませて、片手を腰に当てる。
シウスとノイエは一度顔を見合わせて、敵に視線をやった。
他のプレイヤー達は、首より下が存在しない狼と交戦している。
休憩はもう終わりだ。二人も戦線に加わらなければならない。
「なんだか、三人揃って戦うのが懐かしいですよ」
「はい。ドッペルゲンガー以来ですね」
「パーティー戦となれば、ユーニスタ以来かの。では、参るとしよう」
白と黒の少女が駆け出すと同時に、シウスは両足首から伸びる羽根状の魔力で空を翔る。
空気抵抗をまるで感じさせない、風と同化するかの如き加速。
重力に逆らい向かう先は、怪物の真上だ。
「<ソードブーメラン>!」
大剣を振り被り、一息に投擲する。
縦方向にスピンのかかった2メートル級の刃は、ギロチンのように狼を切り裂く。尤も、既に体はついていないが。
「シウス君! そのまま飛翔を妨害してくれ!
地上戦に持ち込めば、十分勝負ができる!」
「了解!」
手元に回帰する大剣を上手く掴み、ヤマセの要望に応じる。
飛行能力を持つ味方を得て、地上の前衛陣は攻勢を強めた。
「空中に逃げられても、彼が撃墜してくれる」と、ある意味開き直ったのである。
異形の獣は再び魔力の弾丸を生成し、むやみやたらに発射する。天と地の連携が原因で狙いは甘くなるが、数を撃てば当たるものだ。
「うおっ!?」
「ちっ! なりふり構わなくなって来たな……!」
複数の爆音が生じ、数名のプレイヤーが吹き飛ばされる。
それに対して、後衛陣の一人が錫杖を掲げ、スキルを発動させた。
「<ヒールサークル>!」
地面に描かれた幾何学模様の魔法陣より、暖かな光が天へ立ち上る。
ユウナギの範囲魔法が、ダメージを受けたプレイヤーを完治させた。
回復スキルは敵の専売特許ではない。飛行能力と治癒能力――狼の頭が保有する二つのアドバンテージは、もはや失われた。
追い打ちをかけるように、黒衣の少女は水晶球を掌に浮かべる。
極限まで収束した魔力は渦巻く電撃に変わり、解放の時を今か今かと待ちわびていた。
「魔弾の射手っ!」
「――<ヘビースナイプ>!」
ゼフィラの合図で、ノイエは狙い澄ました一矢を放つ。
ひゅう、と矢羽が大気を裂き、射は前衛陣をすり抜けるようにして、怪物の眉間に着弾した。狼の頭はスキルの特性で強制的に仰け反る。
瞬間、シウスの周囲で青白い稲妻が走った。
大技の前兆を肌で感じ、蝙蝠に似た羽根で、その場を緊急離脱する。
彼同様、前衛陣も慌てて退避を完了させた。
そして、力強い言霊が山麓に木霊する。
「<ケラウノスコール>!」
怪物の真上に召喚された無数の稲妻が、勢いを増して降り注ぐ。
大出力の神雷は、光の速さを以て異形の獣を貫通した。
ゼウスの裁断を思わせる魔法が大地を焼き焦がし、クレーターを穿つ。
異形の獣は捕食したプレイヤーのHPを吸収して対抗するが、次々に体を直撃する神雷に、大量の生命力を奪われていく。
――しかし、エリアボスは倒れない。アバターを排出しつつ、HPバーを徐々に回復させる。
「あれでも駄目なの……!?」
驚異的な耐久力に、キルケが三角帽子を拾うのも忘れて呻いた。
このままでは、攻撃と回復の無限ループが続くだけである。
「――そいつはどうかな」
否定の意を返し、口角をつり上げたエーギルが、上方を顎で示す。
空を足場にして立つのは、かの<堕剣士>に相違なかった。
紺碧の影は、禍々しい双翼で羽ばたき、<小狐丸>の鯉口を切る。狼の頭までは、3秒とかからなかった。
「<サタニックブレード・ウロボロス>!」
敵対者の名を冠した神速の剣閃――全身全霊の居合は、遺伝子にも似た双蛇の螺旋を纏う。嵐の如き乱舞に、異形の獣は堪らず回復を試みるが、シウスはそれを無視して刀を振るい続ける。
薄っぺらいガラスのように、拮抗は一瞬にして破れ、怪物のHPバーは、じりじりと減少を始めた。
「なっ――回復が追い付いていない!?」
「軍師の攻撃が勝っておる……!」
白と黒の少女の驚嘆を余所に、青年はさらに速度を上げた。
目にも止まらぬ抜刀術が、エリアボスのHPをがりがりと削っていく。
「うおおおぉぉぉぉ!」
「オオオォォォ……!」
互いに雄叫びを上げるも、その性質は全く異なっていた。
シウスの声は、純粋な殺意。怪物の声は、無自覚な恐怖。
精神面の勝敗は、やがて肉体面に表れる。プレイヤーを吸収することでストックしたHPを使い切り、狼の頭が崩れ落ちる。
なおも止まらぬ居合の嵐に、己のHPさえ底をついた。
「――――消えろ!」
怖気のする声でシウスが言う。サマーコートが翻り、<小狐丸>が最後の弧を宙に描けば、異形の獣は泥人形のように弾け飛び、淡い粒子と化して溶け消えた。




