アイリスの店
あれからそう日数が経たないうちにクリスフォード様は二度に渡ってスピナー公爵令嬢を屋敷に招いた。何故か私を招待した日に被せて。
陛下まで巻き込んで交わした誓約をよくもまあアッサリと破れたものだ。その愚かさに心底呆れる。
スピナー公爵令嬢との二度にわたる逢瀬をわざわざ私の目に晒してくれたので、誓約通り婚約破棄の手続きを父主導のもと進めてもらった。
これでようやく自由の身。
もう目の前で婚約者が別の女性と仲睦まじく戯れている様を見なくて済む。嬉しくてたまらない。
「お嬢様! ようやくあの屑男の阿呆面を見なくて済むんです! 気分を変えて街へ出かけませんか?」
「いいわね。そうだ、久しぶりにアイリスに会いに行こうかしら?」
サリーからの嬉しい提案を私は喜んで受け入れた。
そういえば外出も久しぶりだ。ずっとあの婚約者のことで心を悩ませていたから外に出ることが億劫になっていたから。
悩みが消えると体まで軽くなったように感じる。
弾む気持ちで身支度を整え、街へと繰り出した。
*
「ん? 何だか物々しい雰囲気が漂っていますね?」
「あら、ほんとうね。前来た時よりも警備兵の数が増えているわ……」
王都の中心街にあるブティック『アイリス』。国内で最も繁盛していると評判の商会が営むこの店には流行の最先端を行くドレスや装飾品を求めて王都に暮らす貴族や商人はもちろん、遠方から訪れた客までもが足を運ぶ。店員たちの行き届いた接客と豊富な品揃えも評判で、今や王都を代表する店のひとつとして広く知られていた。
普段なら、出入り口に立っている警備の者は一人だけだ。それなのに今日は三人もいる。何かを警戒しているかのような物々しい雰囲気だった。
店内に足を踏み入れると、警備の者たちが探るような視線をこちらに向けてきた。まるで何かを疑われているかのようで、どうにも落ち着かない。いったい何があったのだろうと、私たちは困惑しながら顔を見合わせた。そのとき、背後から愛らしい声がかかる
「……お嬢様? それにサリーも。 お久しぶりです!」
ピンクブロンドの髪を結い上げた可憐な美少女が華やかな笑みを浮かべてこちらに駆け寄ってきた。
彼女の名はアイリス、この店のオーナーだ。
「アイリス! 久しぶりね。……ねえ、なんだか様子がおかしいけど、何かあったの?」
「あ……ご迷惑をおかけして申し訳ございません。実は先日、店に変なお客様が来たものでして……」
「変なお客?」
「ええ、そうなんです。店に入って私を見るなり『ああっ! 貴女、ヒロインね?』と訳の分からない台詞を叫び、ぎゃあぎゃあと騒ぎ初めまして……」
「え? なに、その人! 気でも触れているのかしら……?」
「ええ、そうとしか思えないほどおかしな人でした。その後も『誰狙いなの? もしかして逆ハー狙い? なんてふしだらなの!』と訳の分からない言葉で怒り出して……。幸い他のお客様がいなかったからよかったものの、今度また来たら困るということで警備員を増やしたんです」
「危険人物じゃない!」
「ええ、おっしゃるとおりで。でも、多分……あのお客様、王太子殿下の婚約者様なんじゃないかと……」
「え? それって……」
そう尋ねようとした瞬間、勢いよく店のドアを開ける音が響く。
思わずそちらを向くと、そこには渦中の人物であり、もう二度とお目にかかりたくなかった黒髪の令嬢が立っていた。
「あら、レオナさん。どうしてここに?」
私の婚約が破棄される原因となった令嬢、カサンドラ・スピナーが数人の男を家臣のように引き連れてそこに立っていた。その中にはもちろん元婚約者のクリスフォード様もいる。
「レオナ? ……君、その尻軽女と知り合いなのか?」
「は……? 尻軽? ……誰のことです?」
この空間に存在する人間の中で、尻軽という名に相応しいのは間違いなくスピナー公爵令嬢のみ。
だというのに、何故か彼はアイリスがそうだと言わんばかりに睨みつけてくる。
「そのピンク髪の女のことだ! そいつは王太子殿下をたぶらかす悪女なんだぞ?」
クリスフォード様のこの言葉に、アイリスは形のいい眉を上げて激高した。
「王太子殿下をたぶらかすですって!? 私は一度も殿下にお目にかかったことはありません! 謂れのない中傷を吐くなんて何のつもりですか!」
「嘘をつくな! 確かに我々とはこれが初対面だが、すでに殿下は篭絡したのだろう!?」
「はあ? ですから! 殿下にお会いしたこともないと言ったじゃないですか!」
アイリスがそう叫ぶと同時に警備の者たちが動き、彼等を拘束する。
何か騒ぎを起こせば拘束する、と事前に決めてあったのだろうか。その動きはやけに早い。
「何をする無礼者っ!? おい、レオナ、君も何とか言ってくれ!」
「…………はい。では言わせてもらいます。恥ずかしい真似はよしてくださいませロバス公爵子息」
「は……? いや違う! 私にではなくこいつらにだ! それに何だその他人行儀な呼び方は!」
「いえ、貴方であっています。それと他人行儀も何も、婚約が破棄されるのですから、他人でしょう? わたくしのことも名前で呼ぶのはお止め下さい。それと、アイリスに対する事実無根の中傷は今すぐおやめください。」
「は? 婚約破棄? 何を言っている……」
「何、とはこちらの台詞です。御父上から聞いていないのですか? わたくしとの婚約継続の条件に背く行為をなさったのです。婚約はとっくに破棄されておりますよ」
「婚約継続の条件……? あっ…………」
聞いていないか、もしくは聞いていても忘れてしまっただけかと思ったが、どうやら後者のようだ。家同士の決め事を忘れるなど私には信じられない。そういうところでもこの人とは価値観が合わないのだと改めて思う。
「レ、レオナ……。あの……」
「この場で問答する気はございません。それと、か弱きご婦人を罵倒するなど紳士として恥ずべきことです。このことはしっかり抗議させて頂きますわ」
「はあ!? その女とのことは君には関係ないだろう?」
「関係あります。アイリスは元々当家の侍女を務めておりましたし、当家は彼女の後見も担っております。それに、単純に不愉快ですわ。こんな複数で彼女を取り囲み、罵倒するなど……どういうおつもりですか?」
スピナー公爵令嬢に侍るもう一人の男性には見覚えがある。
確か宰相の次男だったか三男だったか……。
彼もクリスフォード様同様にスピナー公爵令嬢の取巻きなのだろう。
「ご令嬢、君はこの女がどれだけ悪辣かを知らないからそう言えるんだ。そいつは分不相応にも殿下を篭絡し、この国を支配しようとしているんだぞ?」
「貴方こそ何をおっしゃっているのですか? 殿下を篭絡? 彼女は先ほど殿下に会ったこともないと言っていましたよ。会ったこともない殿下をどうやって篭絡するのです?」
この話が通じない所はクリスフォード様と同じだ。
スピナー公爵令嬢に心酔する令息は皆こんな風になってしまうのだろうか?
それに悪辣というのはこうやって複数の令息を篭絡するスピナー公爵令嬢の方では?
「彼女はとんでもない悪女なの、騙されないでレオナさん! 彼女はこれから学園に入学し、そこで殿下を含む様々な高位貴族の令息を誑かすのよ!」
アイリスを指さし、スピナー公爵令嬢が意味不明な言葉を叫ぶ。
その異常な様子に私は言いようのない気味の悪さを感じた。
「学園に入学、ですか……? アイリス、その予定があるの?」
「いやいや、あるわけないです! 店の経営で忙しいのに、学園で勉強している暇なんてありません!」
「そうよね。それにたしか……既婚者は入学できないはずだから、そもそも入れないわよね」
何故かは分からないが、学園に入学する資格があるのは独身者のみ。
それは学園の規約にもしっかり盛り込まれているらしい。なので、既婚者のアイリスが学園に入学することはない。なのに「これから誑かす」などという妄言をよく言えたものだ。
以前この店に来た時もスピナー公爵令嬢は言いがかりをつけていたらしいが、どうして彼女はそこまでアイリスを目の敵にするのだろうか。




