第三話
白銀の竜が強く翼をはためかせると、みるみる地上が遠ざかった。
本日二度目の騎竜だ。
部屋で予定変更を決めた後、ウーシェダはすぐにキアンに「魔法塔からの急な呼び出しがあった」と申し訳なさそうに謝罪してアイトリア家を辞した。
来た時と同じようにウーシェダが背後から支えてくれて、竜に跨がる。目指すはウーシェダの生家、プラハール国のファート邸だ。
来る時はひとっ飛びという感覚だったが、ここからプラハール国までは馬車なら丸一日はかかる。竜ならば半日もかからないと言っていたが、それでもそれなりの距離だ。
今度は少し時間が長いから、とクッションのきいた鞍をつけてくれたお陰で、来た時よりも体が安定する。それでもウーシェダは、シフリーナが誤って落ちることがないように、しっかりと腹に腕を回して支えてくれる。
そのウーシェダは、部屋で話して以来、ずっとどこか声が硬い。
謝ることはないし、君はひとつも悪くない。ウーシェダはそう言ってくれたけれど、やはり何か不機嫌にさせてしまうことをやらかしてしまったのかもしれない。
一緒に食卓についたことだろうか。それとも、部屋で食事をしたのが無作法だっただろうか。
あれこれ考えていると「シフル? どうかしたか?」と背中越しに声が掛けられた。
「朝と違って随分おとなしいじゃないか。疲れたか? 一度降りてどこかで休憩してもいいぞ?」
「あ、いえ……その」
「うん?」
「ごめんなさい」
「それは、何に対する謝罪だ?」
「えーと……その、シェダ様が怒っていらっしゃるような気がして。きっと私が何か失礼なことをしたんですよね? 申し訳ありませんでした」
振り向いても、こう密着していては彼の表情も見えない。
腹に回されたウーシェダの腕に、少しだけ力がこもった気がした。
「シフル。君は……、いや、君に腹を立てていたわけじゃないし、いいんだ。さっきも言った通り謝る必要もない」
それならウーシェダは何に腹を立てていたのか。シフリーナは腑に落ちないまま、空の彼方を見遣る。
家族に会ったのは二年以上ぶりだが、父母はあまり変わりなかった。トルエは少し大人びたような気もするけれど、キアンの不興を買わない方に気を張っていたせいか、あまりじっくり見つめたりもできなかった。
シフリーナはいつも父の期待に届かない。そのせいで、母や兄に気を遣わせてしまうのが申し訳ないから、邸を出られることには安堵しかない。
その安堵と空を飛ぶ開放感とで、心も少しだけ浮上してくる。
「シフル。確認しておきたいんだが。君は何なら食べられる?」
「パンに挟めばなんでも大丈夫だと思いますよ?」
「菓子ならどうだ? ケーキとかチョコとか」
「それもパンに挟めば」
試したことはないですけど、と付け足すと、一瞬押し黙ったウーシェダは、なるほど、と答えた。
「飲み物はどうだ?」
「飲み物は特になんでも……あ、お酒以外で」
先ほど舐めただけでおいしいとも感じなかったそれをあげると、背中越しに振動が響く。笑われたらしい。
「まずかったか?」
「……はい」
「覚えておく。スープに入っている具材は食べられるんだよな?」
「そうですね。それは大丈夫です」
「当面はそれでいくか……」
「はい?」
「いいや、なんでもない」
再び背中越しに振動が響く。何が面白かったのかわからないと思いながら、シフリーナは硬質で冷たい白銀の鱗を指先で撫でた。
「ところで、荷物はあれだけでよかったのか?」
シフリーナの部屋を出る前に、ウーシェダは持って行きたい荷物は纏めるようにと指示した。
シフリーナの部屋にあった衣類は二年前の物で、身丈が合わない。
少し考えて、シフリーナは引出にしまってあった紙の束をわさわさと取り出した。積み上げていくと膝丈にもなったそれは、書き溜めていた魔法陣だ。
取っておいても何の役にも立たないから、入学で家を出る時にほとんどを燃やしてしまった。それでも、まだ続きを加筆できそうなものや、自分で面白いと思ったものだけは残していたのだ。
「あんなにあったのに?」
ウーシェダが魔法で収納していくのを不思議な気持ちで眺めたのを思い返しながら口を開くと「そういう意味じゃない」と返った。
「もっとこう……、ああ、君なら気に入っていた本とかあったんじゃないのか?」
「それはありましたけど、あれは家の物ですから」
家を出る自分が、家の物をやたらと持ち出していいはずがない。そう思って答えたのに、返ってきたのはため息だ。
「俺の家になかったら買おうな」
「そこまでしていただかずとも」
学校の図書室よりも多いという蔵書なら、あの一冊がなくとも困るわけではない。そう思って言ったシフリーナの言葉に、ウーシェダは「買うぞ」と断固とした声音で応じた。
◇ ◇ ◇
空が夕焼けに染まる前には、目的のファート邸に着いた。竜が庭に降り立つと、慌てたようにドアから男がひとり駆けてきた。
「坊ちゃん。どうなさったんですか」
シフリーナを抱え下ろしてくれるウーシェダの背後で、男が声をあげた。
「坊ちゃん……」とシフリーナが呟くと、ウーシェダが嫌そうに顔をしかめるので、思わず笑いがこみ上げてくる。
「こら、笑うな。悪いな、バルド。ちょっと予定変更があった。父上たちはいるか? それと坊ちゃんはやめてくれ」
「はい、今日はアルマー様とリモネ様もお見えです」
「ならちょうどよかった。シフル。執事のバルドだ。こっちは俺の婚約者のシフリーナ嬢だ」
「は、初めまして。シフリーナ・アイトリアです」
「ようこそお越しくださいました」
ウーシェダに続いてエントランスを潜ると、ホールにはウーシェダの家族らしい四人が立っていた。
父親らしい男と、もうひとりの男性はウーシェダと同じプラチナブロンドの髪色で、すっと通った鼻筋など、ウーシェダによく似た面差しだ。
「あらあらあら、もう、今日来るなんて聞いてないわよ」
最初に声をあげたのはウーシェダの母親らしき女性だ。彼と同じ蒼い目を丸くしている。
「と、突然の訪問、大変申し訳なく」
「大丈夫だ、シフル。悪い、母上。ちょっと予定が変更になった」
「シフル、さん?」
「シフリーナ・アイトリアです」
シフリーナが名乗ると、ウーシェダの家族も目を細めて次々と名乗る。
父のラーゴ、母のイシュカ、兄がアルマーで、兄嫁がリモネ。
シフリーナが忘れないように小さく口の中で唱えていると、ウーシェダに「気負いすぎだ」と頭を撫でられた。
「まだ夕食には少し間があるわ。あちらでお茶にしましょう」
「母上」
ウーシェダがイシュカに何事か囁くと、彼女は小さく頷いた。
シフリーナは言わなくてはいけないことを幾度も頭の中で反芻する。
アイトリア家の承諾は得られたが、ウーシェダの家族に反対されれば婚約はできない。
けれど、例えそれが偽装とはいえ、黙ったまま婚約を進めるわけにはいかない。
ソファーに腰を下ろし、全員にお茶が行き渡ったタイミングで、シフリーナは「あの」と声をあげた。
全員の視線が集まる中で、シフリーナは言葉を続けた。
「実はっ、私、魔力がないんですっ」
部屋の中がシンと静まりかえる。
ああ、やはり駄目だろうか。それはそうだろう。相手は特級魔法師だ。魔力なしなど釣り合うはずもない。
「……」
「……ごめんなさいね、シフリーナさん。それで?」
「それでって……え?」
「ふふっ、それを言ったら、ここにいるみんな、この子以外は『魔力なし』よ?」
「えぇぇ!?」
「お前、言ってなかったのか?」
呆れたようなアルマーに、ウーシェダが苦笑を返す。
「あまり重要じゃないからな」
「そりゃそうだ」
笑い合う兄弟を前に、シフリーナはぽかんとしてしまう。
アイトリア家では、魔力の有無こそが重要だった。それなのに。
しかも、家族の中で唯一の魔力ナシだったシフリーナとは反対に、ウーシェダは唯一の魔力持ちだった。それもひどく不思議な感じだ。
シフリーナの告白などなかったかのように、和やかな歓談が続く。
最初はひたすら緊張していたシフリーナも、徐々に肩の力が抜けてぽつぽつと話に加わる。
「え、それじゃあ、リモネ様とウーシェダ様が同じお年なんですか……というかウーシェダ様は今おいくつなんですか?」
「やだ、シェダ。そんなことも話してないの?」
兄弟の幼馴染みだというリモネと同じように、他の家族もウーシェダに呆れた目を向けた。
「年齢も関係ないだろ。ちなみに二十八だ」
そこからは家族が皆、ふたりの馴れそめを聞きたがり、昨日ウーシェダと打ち合わせた通りに、講師で訪れた彼がシフリーナを見初めたのだと話した。
「ま、講師が生徒に手を出すだなんて」
「まだ出してない」
「お黙りなさい。シフリーナさん、何かあれば私が叱ってあげるから言いなさいね」
イシュカの言葉に思わず当主であるラーゴの様子を窺うと、彼ものんびりと笑っている。ラーゴはシフリーナの視線に気づくと「私も叱ってあげるよ」と微笑んだ。
その後の夕食は、いつの間にウーシェダが伝えたのか、スープと共に様々な種類のサンドイッチが食卓に並んだ。どれも一口サイズの小さなもので、具材が様々なのかカラフルに見える。
隣に座るイシュカは「お口に合うといいのだけれど」と微笑んだ。
「付き合わせてしまったようで申し訳ないです」
「あら、パーティみたいで楽しくていいじゃない」
向かいに座るリモネも微笑む。
ウーシェダが兄と軽口をたたき合っている間に、イシュカは「シェダより向こうの左側のお皿のものは食べないでね」と囁くので、シフリーナはこくこくと頷いた。
その囁きの意味がわかったのは、食事が始まって間もなくのことだ。
反対隣に座ったウーシェダがふいに動きを止めたかと思うと、手近なワインをゴクゴクと飲み干し、シフリーナの分の果実水にまで手を伸ばした。
「シェダ様?」
「あら、ひいたのね」
おっとりと笑うイシュカに、軽くむせたウーシェダが抗議の目を向ける。
何が起きたのかわからないシフリーナはふたりを交互に見て、おろおろとするばかりだ。
「ひいたのね、じゃありません!」
「せっかくのパーティだから、ひとつだけ唐辛子を入れてみたの。ふふ、ジャムみたいだったでしょ?」
どうやらイシュカがサンドイッチにひとつだけ辛いものを仕込んでいたらしい。
「お前がいない間は俺がよくやられてたからな。持つべきものは弟だ」などとアルマーが言うと、食卓が笑いに包まれる。
こんなに楽しい食事はいつぶりだろう。シフリーナは皆の笑顔を見渡しながら、笑みを浮かべて、サンドイッチをもうひとつ口に運んだ。
その日はそのままファート邸に泊まることとなった。
「シェダ、お風呂のお湯を準備してあげて。それと夜着のサイズも直してあげてね」
この家では、特級魔法師もまるで便利屋のようだ。何かを言いつけられるたびに、少し億劫そうに「はいはい」と返事をしながらウーシェダが魔法を振るう。
アイトリア家では使用人も魔力があるから、皆なにかにつけ魔法で作業する。
けれどファート家ではお皿は空中を飛んで回収されていかないし、それができないことで嗤われたり怒られたりしない。
唯一、イシュカがきつめの口調で言ったのは、寝室についてだ。
「一緒の部屋なんて許しませんよ! シェダ」
イシュカが腰に手を当てて言うと、彼は「当たり前でしょう」と苦笑をうかべた。
その日ベッドに入ったシフリーナは、あっという間に眠りに落ちた。
翌日。寝坊して飛び起きたシフリーナが階下に降りると、食堂でイシュカとウーシェダがお茶を飲みながら歓談していた。
婚約の挨拶に来て、翌朝寝坊するなど失礼極まりない。そう思って謝罪するシフリーナに、二人は鷹揚に笑うばかりだ。
「もっと寝ていてもよかったのよ。慣れない移動で疲れたでしょう?」
「申し訳ありません」
「もう何日か泊まって行ってくれたら、一緒にお買い物だって行けたのに」
「それはリモネとどうぞ」
すげなく言ったウーシェダにイシュカが口を尖らせる。
「リモネとも行くわよ。でもシフリーナさんとも行きたいじゃない」
「またにしてください。俺だって塔のほうには仕事が山積みですよ」
軽やかな会話が行き交う朝の食卓。シフリーナに出されたのは、一口サイズの肉や野菜が入ったスープと、昨夜と同じ小さめのサイズのサンドイッチだ。
塩気のあるスープと、甘いミルクジャムのサンドイッチ。
たくさん寝たせいか、いつもより食が進み、出された分は全部食べることができた。
「だいたい魔法塔でも彼女を早めに紹介してまわらないと」
「それもそうね。シフリーナさん、落ち着いたらまた遊びにいらっしゃいな。あなたひとりでも遠慮なく。ね?」
「私、ひとりでも……ですか?」
「もちろん。いつでも。この子が悪さしたら逃げてきなさい。みんなでこの子を叱ってあげるから」
「だから、なんで俺が叱られる想定なんだよ」
嫌そうに顔を顰めるウーシェダに、シフリーナは笑いながら頷いた。
「食べたら出るぞ。ああ、急がなくてもここからなら魔法塔はすぐだ」
魔法塔はすぐ。その言葉にシフリーナの胸は、いよいよだ、と高鳴った。




