第二話
アイトリア家に婚約の許しを乞いに行くにあたり、ウーシェダはそれなりに勝算があった。
魔法塔の特級魔法師。その中でもウーシェダは当代屈指の実力者だ。魔法名家のアイトリア家当主なら、名前を耳にしたことがあっても不思議はない。
魔力なしの娘を、退学になる前にどこかに嫁がせたいと思っている父親から見て、ウーシェダはすこぶる優良物件のはずだ。
わかりやすく権威を見せる。
そのためにきれる札は惜しみなく使うつもりのウーシェダは、特級魔法師にしか許されない深紫色のローブを纏い、相応の魔力がある者にしか従わない騎竜を召喚した。
シフリーナを伴うには馬車の方が安心ではあるが、昨夜から少し沈んで見えた彼女が、魔法陣から姿を顕した竜に目を輝かせるのを見て、これはこれでよかったかもしれないと考える。
昨日はドレスを買った後、シフリーナと町の宿に泊まった。もちろん部屋は別々だ。
店を出て、そのままアイトリア家に向かってもよかったが、その前に彼女ときちんと打ち合わせておく必要があったからだ。
ウーシェダが彼女を見初めて求婚したこと。シフリーナから、父親の許可が得られなければ承諾できないと言われた、と話すつもりであること。
そして、一番重要なのは、彼女が独自の魔法理論を持っていることを、アイトリア家では伏せたままでいるということだ。
この話をした時、シフリーナは「お父様にもお兄様にも見せたことはあるんです」とどこか困ったような笑みを浮かべた。その表情から、取り合ってもらえなかったのが透け見えた。
「ならそのまま知らずにいてもらおう。俺は確実に君を魔法塔に連れて行きたい」
物見遊山でなく、魔法塔の住人にしたい。彼女にはその資格がある。
逃した魚どころか、それが鯨だったことを後から悔やめばいい。
「朝食もろくに食べてないが、本当に大丈夫か?」
宿屋の裏庭で、竜を前にはしゃぐシフリーナに声をかける。
そもそもシフリーナは、昨日学校を出てからランチもディナーもサンドイッチとポタージュしか口にしていない。
ドレスを買った後、カフェで休憩した時にも、ケーキや焼き菓子を勧めてみたが彼女はお茶だけしか口にしなかった。夕食はしっかり食べさせるつもりだったのに、シフリーナが選んだのはサンドイッチだ。
今朝もサラダやフレンチトースト、オムレツやマッシュポテトなどあれもこれもと並べてみたが、彼女が口にしたのはポタージュだけだった。
体調が悪いのかと心配したが、そうではないと言う。
退学を前提に実家に戻ることに、緊張しているのかもしれない。帰って懐かしい食卓につけば、それなりに調子が戻るだろうか。
ウーシェダは、婚約の許しを取り付けたら、シフリーナをいったんアイトリア家に残し、ひとりで魔法塔に戻るつもりでいた。久方ぶりの実家で彼女がゆっくりしている間に自邸を整えて、それからシフリーナを迎えに行き、自身の実家であるファート家に立ち寄る。そう考えていた。
その予定は、早々に覆ることとなる。
◇ ◇ ◇
アイトリア家に到着してドレス姿のシフリーナを地面に下ろすと、ウーシェダはようやく安堵の息を吐いた。
鱗の触り心地にはしゃぎ、空を飛ぶことに歓声をあげる彼女が地上を見下ろしては身を乗り出すから、そのたびに後ろから抱えているウーシェダは気が気ではなかったからだ。
そんなシフリーナも、アイトリアの邸が見えてくると大人しくなった。
魔法陣なしに騎竜を還して振り向くと、驚嘆の眼差しをこちらに向けるシフリーナの父──キアン・アイトリアがいた。
当主自ら外に出て客人を迎えるなど、そうそうしない。その事実ひとつとっても、婚約を反対されることはなさそうだとウーシェダは確かな手応えを感じていた。
予想通り、婚約の了承はすぐに得られ、当主の婚約承諾証も既に準備されていた。
ただ、二年ぶりに帰ってきた娘に対して、シフリーナの両親がほとんど言葉を掛けないのが気に掛かる。
シフリーナもまた帰還の挨拶をして以降は、行儀良くウーシェダの隣に座っているばかりで、これといった雑談もしない。唯一、シフリーナの兄であるトルエには柔らかな笑みを向け、トルエもまた不在の間の体調を気遣う言葉を掛けていた。
「お食事の準備ができました」
使用人が呼びに来て、全員がソファーから腰を上げる。
ウーシェダもシフリーナをエスコートして、先を歩くキアンたちよりも少しだけゆっくりと歩いて距離をとる。
「疲れたか?」
細く息を吐いた気配に、ウーシェダはそっと身を屈めてシフリーナの顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですよ」
あまり大丈夫そうには見えない顔色なのに、シフリーナはそう答えて口の端を引き上げた。
「食事ですよね。私もこのままご一緒していいんでしょうか」
「……? それってどういう……」
「いいに決まってるだろう」
答えたのは、少し前を歩いていたトルエだ。
「今日はいいんだよ、大丈夫」
「お母様やお兄様が怒られませんか?」
「大丈夫だよ。ウーシェダ殿もいるんだから」
トルエがそう言うと、シフリーナがこちらを見上げて来る。わけもわからず見つめ返すと、安堵の笑みを浮かべて前を向く。
訝しみながらもホールを抜けて食堂に足を踏み入れたウーシェダに、キアンは上座であるテーブルの一番奥の席を勧めてきた。
「ありがとうございます。とはいえ、婚約のお許しをいただいたばかりの私が、これからお父上とお呼びする方を差し置いてそのような……、どうぞキアン殿がお掛けください。私はこちらに失礼してもよろしいでしょうか」
ウーシェダがそう言うと、キアンは破顔してテーブルの長辺の端の席についた。その右手側にウーシェダが腰を下ろす。左手側にはトルエが、その隣にはシフリーナの母親であるナディアが座った。
ふと振り向くと、シフリーナが立ち尽くしている。
「シフル?」
どうしたのかと声を掛けると、シフリーナは困ったように視線を泳がす。
「何をしているんだ。早く座りなさい」
キアンの言葉に「はい」と返したシフリーナが、そっとトルエを窺い見た。
「シフルはウーシェダ殿の隣だよ」
トルエの言葉にホッとした顔をしたシフリーナが、ようやくウーシェダの隣の席についた。
ほどなくしてシャンパンが配され「二人の前途を祝して」とキアンがグラスを掲げる。
「シフル、君、酒は呑めるのか?」
「呑んだことはないですけど」
「……今日のところは、せいぜい口をつける程度にしておけ」
シフリーナは朝もろくに食べていない。そこにきて、初めての飲酒は少々心配だ。
ウーシェダがそう言うと、軽く顎をひいた彼女は唇を湿らす程度にグラスを傾けた。
「ウーシェダ殿を当家にお迎えして、こうして食事を共にできるとは」
そう口を開いたキアンは、同意を求めるようにトルエたちに視線を向けた。
スープに手をつけながら頷く彼らに、ウーシェダは愛想笑いで応える。
その後も話題は最近の魔法塔の様子や、塔の人事、この国の魔法情勢の話が続く。話すのはキアンとウーシェダばかりで、時折キアンが話を振った時にだけ、トルエや夫人がそれに答えた。
絵に描いたような家長制度の家なのだな、と思うウーシェダの隣で、シフリーナはひと言も話さない。しかも、スープは飲んでいたが、それ以降の皿には手もつけていなかった。
トルエだけは時折シフリーナに気遣わしげな視線を向けてはくるが、だからと言ってそれを尋ねるわけでもない。
「大丈夫か?」
ウーシェダが囁くと「はい」と笑みを浮かべて頷く。
「シフリーナ。祝いの席でなんだ。料理に手をつけていないじゃないか」
キアンの声に小さく肩を跳ねさせたシフリーナは、俯いて「申し訳ございません、お父様」と父親のほうを見ることもなく視線を落とす。
「その……お腹がいっぱいで」
そんなわけあるか、とウーシェダは思う。
朝はポタージュだけだった。学校なら、もう昼休みを過ぎた時刻だ。あれほど竜にはしゃぎつづけた彼女が、お腹がいっぱいなどあるはずもない。
けれど、シフリーナがそう言うのならば、ここはそういうことにしておきたいのだろう。膝の上で握りしめた小さな手にそっと掌を重ねたウーシェダは、キアンに半身を向けた。
「申し訳ありません、キアン殿。実は今朝はこうして挨拶に伺うのだからしっかり食べなくてはいけないと、私が彼女に勧めすぎてしまいまして」
「なるほど、そうでしたか」
「それなら仕方ないわね。無理することないわ。ね? あなた」
「シフリーナ。食べなくていいから、そこに座っていなさい」
「はい」
食事の間、キアンがシフリーナの名を呼んだのはその二回きりだった。
学校生活を尋ねるでなく、娘の短い髪についても、ふたりの馴れそめも訊かれない。
最初のうちはシフリーナを話題に入れようとしていたウーシェダは、すぐにそれを放棄した。シフリーナの話はすぐに流されてしまうからだ。
だからといってシフリーナに悲壮感はない。貴族の令嬢らしく、きちんと背筋を伸ばし、適度に話題に耳を傾けるような素振りで小さく頷いたり、笑みを浮かべたりしている。
ただ、家族の方がそれに意識を向けていないように見えた。
だから、食事が終わるとすぐにウーシェダは「シフルの部屋が見たいな。君の過ごした部屋を見てもいいか?」と尋ねた。ふたりきりになって、この歪な状況について確認したかったからだ。
普通なら、婚約した身とはいえ年頃の娘と男とが部屋でふたりきりになるなど、多少懸念を示しそうなものだが、誰もそれを咎めることもなく「シフリーナ。くれぐれも失礼のないように」とキアンが言いつけただけだった。
シフリーナの部屋は、淡い緑を基調とした部屋で、ベッドとドレッサー、それに小さなテーブルがあった。一脚しかなかった椅子は、すぐに使用人がもう一脚を持ってきた。
お茶が淹れられ、使用人はすぐに部屋を出て行く。ふたりの様子を見ているようにという指示すらないのか、むしろ邪魔をするなとでも言われているのかと勘ぐりたくなるほどの速やかさだ。
使用人が出て行くのを見計らい、ウーシェダはすぐにシフリーナに尋ねた。
「具合は悪くないか?」
「なんともないですよ?」
「酒に口をつけたせいで、食欲がなくなったということは?」
「それは……」
控えめなノックが響き、シフリーナがぱたぱたとドアへと駆け寄る。
現れたのはトルエだ。
「お兄様、ありがとうございます」
皿を渡された彼女が弾んだ声で言うと「お皿はいつものようにね」と抑えた声音で言った彼は、ウーシェダに軽く黙礼だけ残しすぐに部屋を出て行った。
皿の上には先ほど食卓に上ったロールパンをそのまま手で割って、具材を詰め込んだようなものが載せられていた。
シフリーナは皿をテーブルに置くと「食べてもいいですか?」とウーシェダに許可を取ってから食べ始めた。
小さなパンが三つほど。それをシフリーナは無言で食べる。やはりお腹はすいていたらしい。
食べ終わると、皿をドレッサーの引出にしまい「おいしかったです」と微笑むと、ウーシェダの向かいへと腰を下ろした。
あまりに慣れた仕草に、ウーシェダはもう何をどこから訊いていいものか、軽く混乱していた。
「食欲があったようでなによりだ」
「はい、お腹いっぱいです」
シフリーナは微笑んで、お茶に口をつけた。
「君、まさか……スープとサンドイッチしか食べられないのか?」
「まあ……そうですね。あ、パンに挟めば大抵のものは食べられますよ。好き嫌いはないほうだと思います」
そうじゃない、という言葉すら口にできず、ウーシェダはただ眉間に皺を寄せた。
「……ごめんなさい。行儀が悪かったですね」
「食べられたならいいんだ。君、いつも食卓では食事をせずに、こうしてトルエ殿が後から持ってきたものを食べているのか?」
トルエだけは、正しくシフリーナが満腹で食べられないわけではないことを把握していた。そして当然のように食事を持ってきた。
シフリーナはシフリーナで、皿を使用人に下げさせるでなく、隠すようにドレッサーにしまった。
兄妹揃ってそのやりとりに慣れすぎている。
「普段はそもそも食卓につかないので……私、魔力がないですし」
「……は?」
「魔力がないのに食事をするなんて、本当は駄目じゃないですか。でも食べないわけにもいかないので。なので、いつも兄が持ってきてくれて……」
「待て。今、魔力がないのに食事をするなんて、と言ったか?」
「はい。……あ、魔力がなくていい人はいいんですけど、私は……そうじゃないので」
眉を下げて笑うシフリーナを前に、ウーシェダは今度こそ言葉を失った。
魔法塔の権威を前に、わかりやすいほどの好意を示した父親。その父親の顔色を見る母や兄。
昨日今日の話ではない。シフリーナは入学してからは一度も帰宅していなかったと話していた。二年以上のブランクを経てなお『習慣』として染みつくほどに刷り込まれてきたことだ。
「シフリーナ」
「はい、ごめんなさい」
思いのほか低くなってしまった声に、シフリーナがすぐに謝罪する。それもまた彼女に染みついたものかと思うと、ウーシェダは今すぐあの父親を掴まえて言ってやりたいことが山ほど生まれた。
けれど、今優先すべきはそんなことではない。
「謝ることはないし、君はひとつも悪くない。これは相談なんだが……予定を変更していいだろうか?」
ウーシェダの申し出に、シフリーナは不思議そうに目を瞬かせた。
「君が嫌でなければ、このまますぐ、一緒に俺の実家に向かいたいんだが」
そう切り出すと、なぜかと問うこともなく、シフリーナは「わかりました」と頷いた。




