第一話
魔法塔のあるヴァンリンドゥの国境は、天候に関係なく、いつも深い霧に包まれている。
かつて大魔法師が、迫害されていた魔法師たちを守るために開いた国──それがヴァンリンドゥだ。
霧を超えて入国できるのは、魔法師か魔法師が伴いたいと望み、体の一部を触れ合わせた者のみ。それがどんな仕組みの魔法なのかは、魔法師たちの叡智をもってしても未だ謎のままだ。
竜に跨がり、ウーシェダの腕に支えられたシフリーナは、白く閉ざされた視界が晴れた瞬間、ため息とも感嘆ともつかない声を漏らした。
眼下には淡いオレンジや茶色の屋根の家が建ち並ぶ。中央にそびえ立つ巨大な城が、この国の中枢、魔法塔だ。
見慣れたそれも、シフリーナには初めてのもので、身を乗り出して見ようとするからウーシェダは気が気でない。
敢えて城の周囲を大きく一周する。
「どうだ? 初めての魔法塔は」
ウーシェダが声をかけても、シフリーナは食い入るように城を見つめるばかりだ。
やがて、ぽつりと「塔じゃないんですね」と呟いた。
その台詞に、ウーシェダもクッと笑いを漏らす。
「大抵の魔法師がそう言う。城の左右が塔のように高く張り出しているだろう? あれが名前の所以らしい」
「言われてみれば、そこは塔に見えます」
「左の塔が魔法理論の検証と開発をする研究部門、右が討伐や各国派遣なんかの実務の部門だ。……降りるぞ」
ウーシェダは竜に指示をして、魔法塔の屋上へと向かう。
「え、え、私も行っていいんですか?」
ヴァンリンドゥに住めるのは、魔法師とその婚約者や配偶者のみ。魔法師の子どもでも、魔力がなければ十九歳でこの国を出なくてはならないし、婚約者も基本的には二年が上限だ。
魔法塔に至っては、原則として足を踏み入れることが許されるのは登録魔法師のみ。つまりは、本来であればシフリーナは魔法塔には入れないのだ。
「今日は理由があるからな」
騎竜はウーシェダの所有ではない。魔法塔の共有騎獣だ。塔に返さなくてはいけない。
もっとも返すだけならば別にわざわざ塔に連れ帰らずとも、逆召喚魔法でも事足りる。ただ、直接返しに行けば、大手を振ってシフリーナを伴うことができるのだ。
屋上に降り立つと、逆召喚で戻されてきた騎獣たちを、担当の魔法師たちが一頭一頭確認しては獣舎へ送る魔法陣へと誘導していた。
ウーシェダが竜で降り立つと、すぐに青年が駆け寄ってきた。
「お帰りなさいませ。ウーシェダ様」
「悪いが、後は頼む」
「かしこまりました」
ウーシェダはシフリーナを竜から抱き下ろすと、後のことはその男に託し、さてどうするか、と思案する。
その間も、シフリーナは次々と逆召喚されてくる獣や、担当たちが獣舎に送るための魔法陣に見入っていた。
「可愛いですね」
「手は出すなよ。懐いている生き物じゃない」
ここに送られてくる獣は、騎獣ばかりだから大きさもそれなりだ。
「でも、あの竜はおとなしかったですよね?」
「腹が満ちてたからな」
「腹……そういえばあの竜は何を食べるんですか」
「魔力だ」
ウーシェダが答えると、軽く目を瞠ったシフリーナは「魔力……」とオウム返しに呟いた。
「魔法石も喰うが、直接魔力を送ってやるほうが手っ取り早い」
「ここにいる子たち、みんなそうですか?」
「まあ、全部じゃないが、概ねそうだな。行くぞ」
魔法塔に入る正当な権利を有さないシフリーナに、内部の隅々まで案内してやるというわけにもいかない。
ここから降りて行きがてら歩くルートを思い描き、ウーシェダは左の塔側に足を向けた。
「本当なら塔の図書館も見せてやりたいところだが、さすがにそこまでは入れな……」
隣にいるはずのシフリーナに話しかけて、後方で足を止めていることに気づく。開け放たれたドアの前で、部屋の中を見つめていた。
「どうした?」
「あれは、何をやってるんですか?」
室内では十人ほどの若い魔法師たちが、黒板の魔法陣を熱心に写していた。
「見習いの研修だな」
「なんで水をくみ上げて撒くだけの魔法陣を、あんなに真剣に写してるんですか?」
事も無げに言ったシフリーナは不思議そうに首を傾げた。
見習いとしてやってきた魔法師で、あの魔法陣を一目見て何をどうするためのものか、瞬時に読み解ける者はそうそういない。水属性、それを集めるところまで読めれば及第点だ。
「薬草園の管理担当だろうな」
次に表示された魔法陣は、温度と湿度の調整のためのものだ。皆一様に黙々と書き写している。
「随分簡単な内容をやってるんだな、とか思ってるか」
「いえ……ちょっとだけ」
首を振りかけたシフリーナは、小さく笑った。
それはそうだろう、と思う。あの鯨の魔法陣は、複数の属性の相互干渉を絶妙に加味しながら組まれていた。しかも、既存魔法理論の枠を超えてだ。
そんな彼女からすれば、魔法塔入りを正式に許されている彼らが取り組む内容にしては簡単すぎて、いっそ不思議に思っているかもしれない。
「行くぞ」
「はい」
返事はいいのだが、少し進んでは足を止めて部屋を覗き、窓の向こうに魔法陣が揺らめけば引き寄せられるように窓辺に行ってしまうシフリーナに合わせていると、一向に階下にたどり着かない。
急ぐわけでもないが、さすがに時間が掛かりすぎだ。
かといって、せっかくの機会を満喫している彼女の気持ちもわかるから、ウーシェダはただただ苦笑を浮かべるしかなかった。
「シェダ。いつの間に帰ってきたんだ」
廊下の向こうから声が掛かる。やって来たのは、本来魔法学校に講師として赴くはずだったカディルだ。
「たった今だ」
ウーシェダもけっして背が低い方ではないが、それよりも更に目線の高いカディルを見上げる。
窓の外を見ていたシフリーナも、すぐに隣までやって来た。
「この子が噂の子か」
「シフリーナ・アイトリアと申します」
彼女が丁寧に膝を折る。その仕草には、先ほどまで幼子のように落ち着きなくキョロキョロとしていた面影は微塵もなかった。
「カディル・ローザだ」
「おい、噂ってなんだ」
「魔法学校での出来事を、魔法塔が把握してないと思うか?」
「どう聞いてる?」
「あのウーシェダ・ファートが生徒に手を出して責任をとった、とな」
笑み含んだ声に、それが茶化しているだけだとわかったウーシェダは「おい」と不服を表明する。
「冗談だ。でも、婚約者を連れ帰るという話は、もう長老たちの耳にも入ってるぞ」
「まあ、近いうちに報告には行くつもりだ。今日は騎竜を返しに来ただけだから、このまま邸に帰るつもりだ」
「オルセがお前が帰って来ないとぼやいてたぞ」
オルセはウーシェダの秘書兼部下だ。
講師代行中、ウーシェダの決裁が必要なもの以外は彼に取り仕切るよう指示してあった。ここを出る時には二、三日で戻るつもりでいたし、オルセにしてもそのつもりで引き受けただろうから、とんだ見込み違いといったところか。
「元を正せば、お前が原因だろう」
「オレのお陰で可愛い婚約者を連れ帰ったんだろうが。……なんてな、嘘だ。助かった。おかげでリリについていられた。オレの天使にもな」
「無事に生まれてなによりだ。おめでとう」
「ありがとう。見るか? 見たいだろ? もうな、天使か妖精だぞ」
言うが早いかやに下がった顔で、カディルが空中に指を滑らす。
途端に白い光が泡のように弾けて赤子を抱くリリの姿が映し出された。
「わぁ……綺麗です」
「そうだろう、そうだろう」
頷くカディルは、シフリーナの『綺麗』の向く先が妻子ではなく魔法だとは露ほどにも思わなかったに違いない。
カディルと別れた後も、魔法塔の外に出るまでに随分と時間を要し、シフリーナを自邸に連れ帰る頃には昼時に差し掛かっていた。
ウーシェダの邸は魔法塔からほど近い。そうは言っても徒歩で移動すればそこそこの距離なのだが、目に映るものすべてが物珍しいシフリーナからすれば、それすらも気にならなかったらしい。
出迎えたのは、邸での食事を取り仕切るダリアン・モンテと、家事を取り仕切るマーサ・モンテだ。
夫婦である二人は、少し恰幅のいい体型や丸みを帯びた鼻も人懐こい目もよく似ており、さながら兄妹のようだ。
そして当然、魔法師でもある。
ウーシェダは、マーサに「シフリーナを部屋に案内してくれ」と頼んだ。
「では、私の方は急いで昼の支度に取り掛かります」
厨房へ向かおうとするダリアンを、「その前に伝えておかなければならないことがあるんだ」と呼び止めた。
シフリーナがマーサに案内されて部屋を出て行くのを見送ってから、言葉を続けた。
「実は、あの子はサンドイッチとスープしか食べられない」
ウーシェダがそう言うと、ダリアンは眉を顰めた。
「ご病気で食事制限がある、というお話でしょうか」
「いや、……まあちょっと特殊な環境で育ったと思ってくれればいい。おそらくは心理的に食べられないんだと思う。とりあえずは、無理はさせたくない」
恐らくは長い時間を掛けて、あの歪な家庭で育まれたものだ。シフリーナが何をどう考えてサンドイッチしか食べないのか、食べられないのかはおいおい確かめていく必要があるかもしれないが、まず守るべきは彼女の健康だ。
骨張っているとまではいかないが、彼女の体は随分と細い。
魔法学校でも、なにかにつけパンに挟んで食べてはいたのだろうが、あの体つきでは、ろくに食べていない日があっても不思議ではない。
「好き嫌いはありますかね?」
「パンに挟めば、なんでも食べられると言っていた」
「お菓子ならどうですか?」
「それも、パンに挟めば食えるらしい」
ウーシェダの言葉に目を丸くしたダリアンは「重症ですな」と呟いた。
「まあ、本人はまったくもって自覚がないがな」
「オープンサンドはどうですかね? ロールサンドや……例えば、クレープとか」
あれこれ考えを巡らせているであろうダリアンが、ぽつぽつとサンドイッチに近しいメニューを上げていく。
「正直まだ把握できていないんだ。試すのはおいおいとして、当面はサンドイッチとスープにしてくれないか? それと、スープの具材なら食える」
「それならお出しできるものの幅が広がります。料理人の腕が鳴りますな」
自身の腕を叩いて請け負ったダリアンに、「俺も同じメニューでいい」と伝えたウーシェダは「それと」と、ガラスの瓶を差しだした。
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