第六話
ギルデとタリデッテが立ち去ったのを確認したウーシェダは、念のためもう一度周囲に鎮火の魔法をかけた。
それからシフリーナに視線をやって「さて、君はとりあえず保健室だな」と声を掛けた。
先ほどいったん立ち上がろうとした彼女は、顔をしかめて再び座り込んだ。恐らく足を痛めているのだろう。
ウーシェダが治癒魔法で治すという手もあるが、病気やケガは可能な限りその人間の自己治癒力に委ね、休養や薬の助力で治すべきだというのが一般的な考えだ。そうしないと、その人間に備わっている自己治癒力が低下し、長い目で見た時、かえって健康を損ないかねないからだ。
ウーシェダはシフリーナを横抱きに抱き上げて、思わずまじまじと腕の中の彼女を見下ろした。
異様に軽い。
女性を抱える機会などそうあるわけではないが、それにしても軽すぎやしないか。
「あの、先生。保健室は大丈夫です。私自分でできるので」
「自分でできるって、傷があれば洗って消毒がいるし、足を痛めているなら湿布を……」
「この森、薬草が豊富なんです。必要なものを摘んで帰るので、わりといつもそれで間に合ってますし」
「保健室に行けば済むだろう。わざわざ薬草を摘むまでもない」
「保健室は危ないので。私、本当に大丈夫なので」
どこか必死な様子のシフリーナに、ウーシェダは眉間に皺を寄せた。
「保健室の何が危ない?」
「保健室は窓は多いけれど小さいので、窓から逃げられません。しかもベッドがあるんです。ですから……」
夜の図書室で会った時も、窓が開け放たれていた。あの時、逃げようと窓に向かった彼女の様子に、ウーシェダはすぐに窓を閉ざした。
先ほどの話でもそうだ。
彼女は窓から逃げ出したと言ってはいなかったか。
「待て。こんなことが年中あるのか?」
「ここまでのことにはそうそうならないですよ。ちゃんと逃げていますし、登りやすい樹も確認済みです。ただ、今日は高く登りすぎたのと、燃やされてしまったので。次はもうちょっと工夫してみます」
眉を下げて反省を口にするシフリーナに、ウーシェダは肺が空になるほどに息を吐いた。
図書室では、非常識な時間にひとりであんな場所を訪れる彼女なりに防犯を考え、窓を開け放っているのだろうと思っていた。昼間、他の生徒がいる時間に図書室を訪れれば、魔力なしの彼女にとやかくいう生徒もいるのだろう、そんな煩わしさを避けているのだろうと、その程度に考えていた。
事態は思いのほか深刻だ。
彼女は、昼間に図書室に行けないほどに、保健室を危険な場所だと考えるほどに、日常的に貞操の危機にさらされているのではないか。
「前にタリデッテ先生が、君が男子にモテていると言っていたな。それは、そういうことか?」
「まあ……次の当主は兄だって何度も言っているんですけど、どうもうまく伝わらないみたいで」
魔法名家の娘。今後この国で魔法師になる時、婿入りで当主になどなれなくても、縁続きというだけでなにかと便利なことが多い。そう考える者がいることは容易に想像がつく。
しかも相手は魔力なしだ。婚姻後も、夫となる者の優位が確約されているも同然だろう。
「とりあえず保健室だ。俺がいるのに危険があると思うか?」
「それは……まあ……」
「……まさか、教師までか?」
「……ごく一部です」
困ったように笑うシフリーナに、ウーシェダは再びため息を落とした。
「俺はアイトリア家に興味はないし、生徒に手を出すほど困っていない」
そう言ったウーシェダに、ひとつ瞬いたシフリーナは「確かに。それもそうですよね」と頷くと、ほどけるように微笑んだ。
保健室に着くと、担当教諭は席を外しており、用事があれば教員控え室に呼びにくるようにとの札が掛かっていた。
この程度のケガならば、ウーシェダでも看てやるくらいはできる。
ロックされた入口を魔法で解錠したウーシェダは、室内に足を踏み入れ、シフリーナを椅子の上にそっと下ろす。
ケガは掌や腕、脚の擦り傷、それと右足の捻挫といったところか。
丹念に確認したウーシェダが、まずは傷口の消毒に取りかかると、それまで大人しくしていたシフリーナがおずおずと尋ねた。
「先生、その……本ですが、もう貸してはもらえません、よね?」
「別にまだ返さなくていいぞ?」
小さな傷のひとつずつに消毒液を振りかけながら答えると「よかったです」と安堵の滲む声が返った。
「あの、実はあの本、まだ半分くらいしか読んでないんですけど」
「ああ」
「一個だけわからないところがあって」
「……一個だけ?」
手を止めて、シフリーナの顔を見る。
あの本を半分読んで、わからないところがひとつだけ。
目の前にいるのは、一年生が三度目の学生だ。
三年生に課したプリントの件、それからあのピンクの鯨やナイフの件も確認するつもりではあったが、あの本を読みこなしているとしたら、認識を改める必要がある。
まさか、と思いつつ、ウーシェダは「どこがわからない?」と尋ねた。
「はい。属性の親和性についての項目なんですが。風と水に親和性があって、水と火は対立属性ですよね? でも、風と火の親和性の根拠部分と、風と水の親和性の根拠部分を、風を媒介にして繋げたら、火と水の親和性も成立させられると思ったんですけど。それがどこにも書いてなくて。最後まで読んだらわかりますか?」
とんでもないことを言い出した、と思った。
さもありそうな、けれど大前提として成立しない話だ。有り得ないから、誰もそれを試さない。厳密に言えば、試しても成立させることができなかった話だ。
しかし、脳裏に過るのはピンクの鯨の魔法陣だ。あれは、既存の理論ではありえない魔法陣で、正直まともに起動しないとウーシェダは思っていた。結果は、あの日大勢に目撃された通りだ。
あの魔法陣の主を知る人物どころか、まさか目の前のこの生徒こそがそうなのではないか。
ウーシェダはそっと唇を舐めてから、慎重に問いを口にした。
「質問に質問で返して悪いんだが。……なんで鯨がピンクなんだ?」
「ピンクだったら綺麗だろうなって……あ゛……」
しまった、とでも言うように顔色を変えたシフリーナを前に、ウーシェダは言葉を失った。
「君が、あの魔法陣を描いたのか」
どうにか搾り出すように尋ねると、シフリーナは少し視線を彷徨わせた後、諦めたように目を伏せて頷いた。
「……私も、訊いてもいいですか?」
「なんだ」
「なんであんなデタラメな魔法陣から、私が思った通りのことができたんですか? 特級魔法師ともなると、そういうこともできちゃうんでしょうか」
「は? デタラメ? あれはデタラメに描いたのか?」
「……私だって、魔法陣の基礎くらいはわかります。あれはデタラメで、あんな風にできるはずないんです」
「だが、ああいう意図で描いたんだろう?」
「それは、もちろん。ああいう風にしたらどうにかなるんじゃないかとは思いました。でもそんなの空想でしかないってわかってるんです。だから、あの日、私が思い描いた通りの鯨が跳ねて、本当に嬉しかったんです。どうしてあんな魔法陣から、それが読み取れたんですか?」
ウーシェダは、ようやく事態を認識した。
つまり、シフリーナは、自分の魔法陣は誤りだと思っているのだ。
「シフリーナ。結論から言う。あの魔法陣に誤りはなかった」
「え? 冗談ですよ、ね?」
「冗談なわけあるか。俺はずっとあの魔法陣の主を探していた。まさか一年生だとは思わなかったがな」
茶化すように笑って見せても、シフリーナはどこか放心したように宙を見ている。
それはそうだろう。落第をくり返し、周囲に魔力なしと言われ続け、確立していた魔法理論も自身で魔力を流して確かめることもできずにいたのだ。
「あとでじっくり、どういう論拠であれを描いたのか聞かせてほしい」
「本当に……あれが?」
「ああ。教えを請いたいくらいだ」
シフリーナは両手を頬に当てると「本当に?」と同じことをくり返す。
ウーシェダは苦笑を浮かべると「……話したいことは山ほどあるが、まずは先に手当を終えてしまおう」と告げて、消毒を再開した。
頬に当てられた手を引き寄せて、傷口を消毒していく。やけに細い足首に湿布薬を貼り付けて、丁寧に包帯を巻き付ける間も、ウーシェダの頭は忙しく、この後すべきことを次々と挙げ連ねていた。
「他に痛むところはないか?」
「はい、ありがとうございました」
「防音魔法をかけて話をしたいんだが、どこなら俺とふたりでも安心して話せる?」
「防音魔法……」
「端的に言って、君をこのままこの学校に置いておくことができない。あまりに危険だ。今後のことを相談したい」
「あ、そういう……ありがとうございます。でも、これまでもどうにか無事でしたし」
苦笑するシフリーナに「そうじゃないんだ」とウーシェダは遮った。
確かにシフリーナの身の安全も心配だ。聞いた範囲だけでも、既に楽観視できるレベルは超えている。それなのに学校側が、シフリーナがモテているなどと悠長に捉えているのは早急に認識を改めてもらわなくてはいけないところだ。
それに加えてシフリーナの独自理論だ。これが魔力のある生徒ならば、有望な生徒だと魔法塔に推薦すれば話は済んだ。特級魔法師すら思いつかない理論を持ち、それが既に魔法陣として起動できる段階にある。その事実だけでも、彼女はすぐに魔法塔入りが許されるレベルだ。
しかし、シフリーナは魔力なしだ。このままでは、魔法塔が保護する大義名分すらない。
ウーシェダの真剣な眼差しに、シフリーナも何か感じるところがあったのだろう。
「お話するなら、どこでもいいです。だって、特級魔法師の先生相手では、窓があっても結局逃げられないのは実証済みなので」
おどけて笑ったシフリーナと共に、ウーシェダは講師室へと移動する。
防音魔法を敷き、けれどシフリーナのために出入り口の近くに椅子を置いてやり、ウーシェダは三年生に課したプリント、鯨の魔法陣、それからナイフの魔法陣について丁寧に聴取した。
シフリーナはそういう話ができるのが楽しくてたまらないとでも言うように目を輝かせていたが、聞けば聞くほどウーシェダは背筋に冷たいものが走る感触を覚えた。
魔力のない、しかも授業では一年生の内容しか教えられてはいない生徒だ。入学前も、家庭教師はつけられていたものの、魔力なしの彼女には基礎以上の知識は与えられなかった。
それを、魔法への好奇心と独学だけで、これだけの理論を組み上げた。
魔力のない者に一定以上の魔法の理解はできない。そんなウーシェダの認識を、根底から覆された。
「……シフリーナ。魔法塔に来たくはないか?」
「それはもちろん行きたいですけど。私にはその資格がないので」
魔法塔に行けるのは魔力がある者のみ。
これだけの才能を前にすれば、魔力があるかないかなど些末なことにすら思えてくる。だが、その些末なことこそが、現行ルールの大前提だ。
但し、例外がある。
「資格を作れる、と言ったら?」
「作るって、そんなことできるんですか?」
「先に確認しておくが、恋人はいるか? 想う相手でもいい」
「いません」
「だったら……俺と婚約しないか?」
「婚約? え、先生、どうかしちゃいましたか? あ、私が聞き間違えたんでしょうか」
「俺の婚約者として、魔法塔に来ないか? もちろん表面上のみ、言うなれば偽装だ」
とんでもない話を持ちかけている自覚はあった。けれど、そうでもしなければ、現在の決まりを飛び越えることはできない。
「偽装って、そんな……」
「俺の邸の蔵書は、学校の図書室より多い」
「お受けしますっ!」
「決まりだな」
魔法塔の図書館への出入りをチラつかせるまでもなく、小さな見た目の大きな鯨は、勢いよく釣り針へと食いついた。
ウーシェダは、してやったり、と笑みを浮かべた。




