第五話
ウーシェダが学校にいる間に、この本を読み終えたい。
シフリーナは、図書室でウーシェダに本を借りて以来、可能な限りの時間をすべて読書にあてていた。
本は厚いが、いつもなら食事と睡眠の時間を削れば、二日もあれば読める。
けれど、さすが魔法塔の蔵書。これまでシフリーナが読んできたどの本よりも、細かく、奥深い。記述内容の論拠を確認するために他の本で調べ、それからウーシェダの本に戻ることをくり返して、ようやく半分まで読み終えた。
今日は実技の時間もウーシェダ公認で読書に当てられたのはよかったが、調べたいことが出てきた。
夜まで待てばよかったが、どうしても待ちきれずにまだ生徒が出入りする時間に図書室に足を運んだことを、シフリーナは心底後悔した。
いつものように窓を開けて、そこに一番近い席で本を読んでいると「シフリーナ・アイトリア」と図書室には似つかわしくない大きな声で呼びかけられ、シフリーナは肩を跳ねさせて顔をあげた。
ひどく不機嫌な顔のギルデが大股でこちらに向かってくる。
何事かと室内の生徒の視線が集まる中、咄嗟に考える。
他の生徒の目がある分、安全ではある。けれど、全員が味方してくれるわけではない。むしろ、騒ぐなら出て行けという空気感になることまで想像がつく。
それに加えて、このまま腕でも掴まれてしまえばそれをふりほどくのは骨が折れるし、なにより彼の声音ひとつとっても絶対に碌な用件ではない。
判断したシフリーナは早い。
ウーシェダの本を抱えて、窓枠に足をかけ、思い切りよく飛び降りる。
「待てっ!」
シフリーナは一目散に逃げる。
小柄なシフリーナだから窓から出るのは簡単だが、ギルデなら多少まごつくはずだ。
諦めずに、しかも窓を潜って追ってくるくらいなら、ますますもって碌でもないに違いない。
振り返らずに全速力で森の中へと駆ける。回り込んで校舎に入り、教職員室を目指したとしても、たどり着く前に追いつかれるからだ。
シフリーナは、夏休みの間に目を付けていた何本かの樹の中で、一番近くて実際に登りやすかった樹を目指した。
シフリーナを追い回すのは、大抵貴族の、当主にはなれない次男以降だ。彼らは樹に登ってまで追いかけてくる気概はないだろう。そう考えてはいたが、さすがのシフリーナも、まさかそれが本当に役に立つとは思っていなかった。
追いすがるギルデの声を耳にしながら、シフリーナは本を服の中に押し込むと、樹のコブに手をかける。
登れるだけ高く。シフリーナは夢中で上を目指した。
「降りてこいっ! シフリーナ・アイトリアっ」
ギルデの声が響く頃には、下を見てみる気にもならない高さに達していた。校舎の二階よりも高そうだ。
その時。服に押し込んでいた本が、するりと裾から滑り落ちた。
「あっ」
咄嗟に手を伸ばしかけて、シフリーナの体が空中へと傾き、危うく落ちかける。右足をかけた枝が折れ、必死で幹にしがみついたが、頭の中は落ちた本のことでいっぱいだ。
この高さから落ちたら傷がついたのでは。破れていないだろうか。せっかく借りた魔法塔の本なのに。
一瞬、下で待ち構えるギルデの存在を忘れたシフリーナに、その存在を思い出させたのもまた彼の声だった。
「降りてこいっ! お前、僕に嘘を教えただろうっ」
強い口調で言われ、気もそぞろで考える。
ギルデに何か教えただろうか。質問された覚えも、教えた覚えもない。
せいぜい昼休みに、あの本には年齢制限がないはずだと答えたくらいではなかったか。
「こんな本を見せびらかして、……返事くらいしろよっ」
「はいっ」
声は上げたが、シフリーナとて樹にしがみつくのに必死だ。悠長におしゃべりするほどの余裕はない。
ところが、その返事もまた彼の気に障ったらしく「お前、僕のこと馬鹿にしてるんだろう!」とギルデが声を張った。
シフリーナは、魔力をふるい順当に学年を上げていく他の生徒を羨むことはあっても、馬鹿にしたことなどない。それはギルデに対しても同様だ。
なにがそこまで彼を怒らせているのかさっぱりわからないでいると「降りてこないと、この本を燃やすぞっ」という声が届き、シフリーナの背筋がさっと冷たくなる。
まだ半分読んでいない。ここからがきっとますます面白いのに。
だいたい、あれはウーシェダに借りた、魔法塔の本だ。
図書室の本ならぞんざいにしていいというわけではないけれど、きっと希少性が段違いだろう。
シフリーナは早く降りなくては、と思って、はたと気づく。
降りられない。
試しに登った時よりも随分上まで登ってしまったし、足場のひとつの枝が折れてしまっている。
落ちたらただでは済まない高さに、ますます身が竦んで動けない。
「できないと思ってるんだろう? 本の一冊くらい燃やしたってバレないんだ。燃やすからなっ」
宣言されても、シフリーナはただ「やめて」と呟いて、幹にぎゅうぎゅうとしがみつくのがやっとだ。
「なんだこれ……おかしいな……」
訝しむ声が上がり、怖々見下ろすと、ギルデが魔法陣を描いているらしい紙を置いているのが見える。
「おいっ、なんだこれっ、燃えないじゃないか!」
焦れたようにそう言われても、シフリーナには細かな状況までわかるはずもない。
ギルデが幾枚も魔法陣を置き、やがて周囲の落ち葉や枯れ草が燃えだした。
「うわっ、な、え? 燃え……え?」
慌てふためく声と共に、シフリーナのところまで煙があがってくる。
生木はすぐに燃えないが、枯れ草に燃え広がって大火事にでもなればそうもいかない。
こんな場所で丸焼きになるのは避けたいけれど、シフリーナ自身もどうにもできない。
ほどなくして、校舎でも非常ベルが鳴り出したのか、微かにベルの音が聞こえてくる。その間も煙はどんどん増えていく。
魔法陣はいくつも浮かぶ。水を湧かせることも降らせることも、風の魔法陣を応用して空気をなくすんでもいい。
けれど、いくらその知識があっても、シフリーナには起動できる魔力がない。
役に立たない。
泣きたい気持ちで幹にしがみついていると「何をしている!」という教師の声や、幾つもの足音がこちらに駆けてきた。
火はすぐに消し止められた。
幾つかの教師の声が、ギルデを詰問している。
本は無事だろうか。あんなに煙がでるほどの火ならば、かなり焼けてしまったのではないだろうか。
すぐにでも降りて確かめたいところだが、シフリーナは相変わらず身じろぐこともままならない。
野次馬に集まった生徒たちが教師たちに追い立てられて遠ざかる中「シフリーナ? 居るのか?」と声が掛かった。ウーシェダだ。
「い、居ます」
「もう大丈夫だから降りてこい」
「降りられないんですぅ」
この次登りやすい樹をチェックする時には、登っていい高さと降りやすさも検証しておくべきだと心に決めながら情けない声で答える。
「じゃあ、飛び降りろ」
はぁっ!?と声をあげたのは、残っていた教師たちだ。
「ば、ウーシェダ様、なんてこと言うんですかっ、駄目だぞっ、そこで大人しく……」
留める教師の声も耳に届いてはいたが、飛び降りろと言ったのは特級魔法師だ。
きっと魔法でどうにかしてくれるはずだ。
根拠はないが『魔法塔の特級魔法師』への信頼を糧に「わかりましたっ」と返したシフリーナは手を離すと同時に幹を蹴る。張り出した枝にぶつかるのを避けたかったからだ。
空中に投げ出された体は、すぐに水中のようにふわりと浮き上がった。
きっと風属性の魔法だ。特級魔法師ともなると、こんなことも魔法陣なしにできるのか。
シフリーナは、先ほどまでの焦燥や恐怖などすっかり忘れて、つかの間の浮遊感を満喫した。
地表に来た途端浮遊感は消え去り、シフリーナはそのまま尻餅をついた。
「飛んだ……飛びましたね!? すごい! 私、魔法で飛んだの初めてです!」
厳密には飛んだと言うよりも落ちてきたのだが、魔法に包まれた感覚は、現在の状況を忘れさせるには充分過ぎた。
けれど。
「またお前か」
教師の冷たい声にハッとして、シフリーナはすぐに口を噤んだ。
焦げた臭いが鼻をつく。
見れば、ウーシェダとあの夜図書室に来た教師──タリデッテが、シフリーナを見下ろしていた。
その向こうにいるギルデは、ひどくきまずそうな表情を浮かべたまま、項垂れている。
またと言われても、この場合自分にどんな落ち度があるのだろう。
シフリーナはそうは思いつつも、反論を口にはしなかった。
「何があった? 人が登っている樹の下で、たき火をしたなんて話でもないだろう?」
ウーシェダの声に「こいつが悪いんだ!」とギルデが声をあげた。
「こいつが僕に嘘をついて、僕のことを馬鹿にするからっ!」
「いかなる理由があろうとも、校内で許可なく魔法陣を発動するなど言語道断だ」
タリデッテがそう言うと、ギルデは歯がみしつつも口を閉ざした。
「シフリーナ。何があったか説明しろ」
ウーシェダに促されて、シフリーナが口を開く。
「図書室にいたら、彼が来て。何か怒っていそうだったので、すぐに窓から逃げたら追いかけられました。そのまま木の上に逃げたんですけど、本を落としてしまって……あっ! 本っ」
きょろきょろと視線をめぐらせて立ち上がりかけたシフリーナの足首に痛みが走る。気づかなかったが、足を痛めているらしい。
「これか?」
ウーシェダの手の中には、あの本があった。
「本っ、無事ですか!? 燃えてませんか?」
「魔法塔の蔵書には保護魔法がかかっている。君ら生徒の魔法程度でどうこうなるわけないだろ」
「よかった……」
安堵の息を吐き出すシフリーナに「それで? ギルデが本を燃やそうとした、ってことか? なぜ?」とウーシェダが先を促す。
「私が、降りてこないと燃やすって。でも、私自分では降りられなくなってしまって」
「ふっ、仔猫か」
吹き出したウーシェダに「ウーシェダ様、笑いごとではありませんよ」とタリデッテがひどく不機嫌な声で窘めた。
「ギルデ。シフリーナが嘘をついたと言ったな? どんな嘘だ?」
「それは……」
口ごもるギルデに視線が集まる。
座り込んだままのシフリーナも必死で記憶をさらうが、いくら考えても彼に嘘など言った覚えがない。
「当ててやろうか。あのプリントのことだろう?」
ウーシェダが指摘すると、ギルデがぎくりと肩を震わせた。
「お前はシフリーナがロミーナに教えてやっているのを、近くで聞いていたんだろう? でも碌に意味など理解できないまま、結果だけ聞き盗んで提出した。だから、俺が尋ねても、その論拠をひとつも説明できなかった」
「こいつが嘘を言うからっ」
反論しようとしたギルデに、ウーシェダがひどく冷たい目を向けた。
「ロミーナは正解だった。同じ説明を聞いていたんじゃないのか?」
「ロミーナにだけ後から本当のことを教えたんだろう!?」
「そうなのか? シフリーナ」
視線を向けられたシフリーナは、ふるふると首をふる。
話の流れを考えれば、あの三年生用に配られた課題プリントの話だろう。
ロミーナのプリントには実際に書きながら説明したが、それ以上の何かを彼女に伝えてはいない。
ただ、どこまで話していいのかがシフリーナにはわからない。
代わりに書いたとまで言ってしまっては、ロミーナが困ったことになりそうだと思ったからだ。
「ロミーナはシフリーナに教わったと言っていたぞ?」
「……はい。食堂でプリントを見せてもらって、その時に少し。でもそこで話した以外ではミーナとプリントのことは話していないし、……ギルデ様に何か質問された覚えもありません」
シフリーナの言葉にウーシェダは頷くと、ギルデに向き直った。
「聞きかじりの情報でそのまま解答せず、少なくともロミーナはその後に自分でシフリーナの教えてくれた意味を考えてから、提出した。お前はどうだ?」
「……」
「魔法師に一番求められるのは、魔力じゃない。倫理観だ。力だけある無秩序な人間を、魔法塔はけっして魔法師とは認めない。まだ学生でよかったな。これが正式な所属魔法師なら、人が登っているのを承知で、その樹の下で自分では制御できないほどの炎を起こすなんて、魔法師でいられなくなっても不思議じゃない」
「──っ、僕は、別に……」
「まあ、魔法師でなくとも逃げる女を追いかけまわして脅すだなんて、人としてもどうかと思うがな」
言うだけ言うと、ウーシェダはシフリーナの近くまで来て膝を突いた。
「ウーシェダ様、そちらはお任せしても?」
「ええ。こちらで見ます」
「お願いします。……ギルデ。来なさい」
タリデッテに低い声で言われたギルデは、引かれていく牛のように項垂れながらとぼとぼと老教師の後に続いた。
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