魔法が使えない令嬢ですが、最高峰魔法師の妻になって理論師として難事件に挑みます。⑯
「僕がやろっか?」
メルカトルの発言に、シフリーナは瞬きをして「メルさんが?」と尋ねた。
「うん。結構ややこしそうだし、そのほうがよさそうじゃない?」
「シェダ様で大丈夫ですよね?」
メルカトルのどこか面白がるような声音を不思議に感じながら、シフリーナはすぐ近くに立つウーシェダを見上げた。
そういえばずっと立ったままだった、と気づいたシフリーナが座ろうと椅子を引くと、かくりと膝から力が抜けた。
すかさずウーシェダの腕が腰に回り、椅子に座らせられた。
「ありがとうございます」
「いいや。……メルカトル様、私がやります。よろしいですね?」
「もちろん。自信がないなら代わってあげようかなって思っただけだから」
揶揄うようなメルカトルの言葉は軽やかで、はなからウーシェダができないと思っていたわけではなかったようだ。
「最初に上面の魔法陣を描いて、そこにこの四角の魔法陣を巻き付けてください。それを接合させてから、ここにかぶせるように置いてほしいです」
ウーシェダが二つの魔法陣が描かれた紙を見下ろす。
その上で指を滑らすと、蒼く光る二つの魔法陣が浮き上がった。
長方形の魔法陣が布のように揺れて、円形の魔法陣に巻き付いていく。
かなり慎重に進めてくれているのだろう。その動きはゆっくりと確かめるような速度だ。
シフリーナは腰を浮かせて、その接合箇所を確認する。
「……どうだ?」
「ばっちりです!」
シフリーナが頷くと、魔法陣は空中をじわじわと移動して、黒い紙面の真上で止まる。やがてゆるゆると下降したそれが、僅かに右に左にと回転して位置を調整した後、魔法陣へと接合した。
蒼い光は徐々に金色へと変化して、黒塗りの魔法陣も同じ色に光り出す。
「くっつきました……。消えるまでそのままでお願いします」
シフリーナは息を詰めて見守る。
描いた魔法陣に間違いはないはずだ。
不安な気持ちで見つめる視線の先で、魔法陣はさらさらと砂がこぼれるように落ち、やがてすっかり消え去った。
「消えた……。消えました! やった! さすがシェダ様です!」
嬉しさのあまり椅子から立ち上がったシフリーナは、ウーシェダにぎゅうと抱きついた。
すぐに首をめぐらせてソファーの女を見遣る。そこには既にアグリが膝をつき、状態を確認していた。
「魔力は戻せたはずですが、それ以外はそのままなので保健室、じゃなかった、救護室でいったん診てもらったほうがいいかもしれません」
「わかった。連れて行こう」
アグリはそう言って女を抱き上げる。
シフリーナは急いで入り口に向かい、扉を開けた。
アグリが出て行く間際、抱えられた女と目が合う。
「ありがとう」
か細い女の声に、シフリーナは間に合った安堵を噛みしめながら、ゆるりと首を振った。
「さすが特級理論師と特級魔法師だよね。感謝を込めて、僕がお茶をいれてあげよう」
「俺が入れます」
「いいよいいよ、あれはちょっととんでもない作業だったよね。ウーシェダもお疲れ様」
そう言って笑ったメルカトルは、四人分のお茶を用意する。
ルエラの前にもカップを配したメルカトルは、指を弾いて彼女の拘束を解いた。
「さすがに逃げようがないってことはわかるでしょ? とはいえ、聴取も済んでないのに徹夜に巻き込んだとなれば審理局あたりに怒られそうだからさ。いったんお茶でチャラにしてほしいな」
窓の外は徐々に明るくなっていく。もう少しすれば日が昇り、あの窓から朝日が差し込むはずだ。
「とりあえずさ、シフリーナに感謝したら? 危うく更に罪が増えるところだったんだから」
メルカトルが促すと、ルエラは「ありがとう。助けてくれて」と囁いた。
理知的な黒い瞳は伏せられたまま、こちらを向かない。
シフリーナは何を言っていいのかわからないまま「いえ」とだけ小さく呟いた。
作業机の上に残った丸い紙。インクに塗りつぶされ真っ黒だった紙面からは魔法陣が消失し、その跡が白抜きで残されていた。
「シフリーナ、訊いてもいい? なんで準備していたほうの魔法陣を使わないで、新しく描いたの? 僕としては準備できてるって聞いてたからさ」
「まあ、お陰で面白いものが見られたからいいんだけど」と言ってメルカトルはカップに口をつけた。
「すみません。時間がかかってしまって」
「それはいいよ。……いや、いいどころじゃない。あれだけのものを組み上げたんだ。早いくらいだよ」
「多少考えていたことではあったので。一カ所、正しく読めているか自信がない場所があったんです。だから、そこを回避しながら終息させる方法を準備していたんですが、それだと魔法陣に取り込まれた魔力を、恐らくは戻せなかったので。もしかしたら、魔力が二度と使えなくなるリスクがあるんじゃないかと思って」
魔力が二度と使えなくなるリスク。その言葉に反応したようで、ルエラの視線がこちらに向いた。シフリーナはその真っ黒な瞳を見つめ返しながら「魔法師が、二度と魔力が使えなくなるリスクです」と重ねて言った。
「それは怖いね。そう考えた根拠は?」
「魔法師が魔力を使い果たしても、死ぬことはないって聞きました。使い果たす前に倒れるって。そうですよね?」
ウーシェダのほうを向いて確認すると「そうだな」と頷く。
「でも、今回のケースは死んでしまう。魔法師の方が既にあの状態だったので、魔力はすべて魔法陣に移動済みだったと思います」
「そうだね。そこが僕らにもよくわからない。魔力を使い果たして寝込むことはあっても、そのせいで死ぬなんて聞いたことがないからね」
「魔法陣に吸われるのと、魔法で魔力を使い果たしたのが同じなら、そのうち魔力が回復したかもしれません。でも、そうじゃなかったら……例えば、魔法陣に吸われた魔力になにかしら回復不能の部分が含まれていたら……なくした魔力が二度と戻らない可能性があるって考えたんです」
「なるほど。つまり、わからないけどそういうリスクがあるから回避したって話だね?」
シフリーナが頷くと、メルカトルは自身の顎を指先で撫でて考える。
「ルエラさんに確認して魔法陣の設計意図がはっきりしたので、より安全な策を取りました。そのせいで時間が掛かってしまったのは申し訳なかったんですけど、魔法陣に滞留していた魔力は、すべてあの方に戻せたはずです」
シフリーナはカップを持ち上げようとして、自身の指先が僅かに震えていることに気づいた。そんなに強くペンを握っていただろうか。無意識だったのでわからないものの、カップを持つのは難しそうで、そのまま幾度か掌を閉じたり開いたりしてみる。
「大丈夫か?」
隣から伸びてきたウーシェダの手がシフリーナの手を取り、優しく揉んでくれる。「大丈夫です」と返したシフリーナは、利き手でない左手でカップを持ち上げた。
「僕らはさ、あの魔法陣は魔法師見習いが昇格試験に受かるために魔力を無理矢理引き上げる魔法陣だと思っていたんだよ。そうじゃなかったの? シフリーナがルエラに確認したのってあれでしょ、『魔力を作ろうとした魔法陣』で『魔法師になるためのものか』ってやつでしょ?」
メルカトルは不可解そうに眉を寄せて、ルエラとシフリーナとを交互に見た。
ルエラはカップに視線を落としたまま口を開かない。
シフリーナはお茶で口を湿らせてからメルカトルに答えた。
「そうです。そこが確かめられたから、新しい魔法陣を描くことにしました。魔力に変えたかったのかなと予測まではできましたが、確証がなかったので」
「そこがわからないんだよね。魔法陣で吸い上げて滞留させていたのが、魔力と生命力だっけ? その生命力で魔力を増やしたかったってこと?」
「そもそも、あの魔法陣の設計思想は、魔力を吸い上げるつもりなんてなかったんですよね? 私たちのような魔力なしが、生命力を魔力に変えて、魔法師になる、そうするためのものだった」
「……そうよ」
黙って会話を聞いていたルエラが、ようやく口を開いた。
「何が理論師よ。今更遅いのよ。これまで魔力なしには見向きもしなかったくせに。だから魔法師になろうと思ったの。そうでなきゃ、いくら魔法理論ができたって塔に入ることもできなかった。魔法師と結婚してようやくこの国に住むことが許されるなんて、そんなおまけみたいなのはもううんざりだったっ」
ルエラが堰を切ったように怒気を強めていった。
「優しいことを言ったって、魔法師はいつも一段上から物を言うのよ。自分たちより劣る魔力なしにしては凄いねって褒められる、それがどれほど屈辱的なことかなんて、あんたたちにはわからないでしょう!」
ルエラは理性的で物静かだと思っていた。その彼女が目をつり上げ、語気を強めてメルカトルに正面から物を言う姿に、シフリーナは圧倒されてしまう。
同時に、ルエラの言い分もわかるところはあった。
つい先日、健康診断で言われた言葉を思い返す。
『魔力もないのに魔法塔で過ごすのは、大変ではないですか?』
そこにあったのは、間違いなく善意であり気遣いだった。見下してやろうとか、傷つけてやろうなどという悪意ではなかった。
それでも、魔力があるのが当たり前で、それがないシフリーナを哀れむ色はあった。
シフリーナがいたのは、生まれたときからずっとそういう場所だった。魔力があるのが正しくて、当たり前で、魔力がないのは家柄に合わない。魔力がないのがおかしい。それが当たり前だった。
けれど、おそらくルエラは違ったのだ。魔法師に憧れて、理論に興味があったのはきっとシフリーナと一緒だった。だからこそ、彼女はここまでの魔法陣を組めたのだろう。
そしてだからこそ、降り積もったそれが、こんなにも語気を強めずにはいられないほどの痛みになったのかもしれない。
「理論師制度が今までなかったのは、魔法塔の視野が狭かったせいだ。そこは謝る。本当に申し訳ないと思う。……でも、だからって君のしたことは、許される範疇を超えている。自分で止める術もない魔法陣を人に渡して、しかも死人まで出てなお、君は自ら名乗り出ることをしなかった」
メルカトルの言葉に、ルエラはグッと息を詰めた。そうして深く息を吐いた後に、弱々しい声で「あと少しだったのよ」と言った。
「ようやく魔力が作れるところに手が届いたの。後は、魔力がなくてもあの魔法陣を起動できさえすればきっと」
「できて、ませんでした」
シフリーナが口を開いた。
「魔力への変換はできていません」
「嘘。だって属性の付与だって……」
「そうしたかったという意図は読み取れました。でもあの回路を通り抜けた魔力も生命力も、ただ通過しただけです。生命力は生命力のまま、だからあの魔法陣に取り込まれるばかりで、術者に戻らずに、吸い取られ続けた術者が衰弱死してしまったんです」
「そ、んな……」
「そもそも、ルエラさんの意図で言えば、ルエラさん自身が魔法陣を起動できなかった時点で失敗だとわかっていたのではないですか? ……なんで、それを人に渡したんですか」
理論師は、自分で魔法が使えない。魔力を体感できない。だからこそ、より慎重であるべきなのだ。
起動しないで描くだけの魔法陣なら、それは空想だ。誰にも迷惑はかけない。けれど、自分で起動できない魔法陣を誰かに起動してもらうなら、幾重にもリスクを検討して、いつでも止められる手立ては準備しておくべきだ。
「言ったわよ。私は試してないから、本当にはどうなるかわからないって。それでもいいって言ったから渡したの。その後には感謝もされたわ。ありがとうって。お陰で昇格できたって感謝されたのよ」
「……じゃあ、その後どうなるかわかっていながら、更に書き換えた魔法陣を人に渡したのはなんでですか? いくら束ね方を緩やかにしたって、結果は同じだってわかってたはずです。せめてあの段階で、なんで止める手立てを加筆した魔法陣にしなかったんですか」
あの書き換えを行った段階で、既に死者が出ていたのではないだろうか。厳密な時系列はわからない。けれど、書き換えようとした何かしらの理由があったはずだ。
書き換え後、属性は三種類に絞られていた。水属性、光属性、闇属性。どれも治癒魔法に関わる属性だ。
魔力を作りたいという設計思想。そこに気づいた時、ルエラの顔が過った。
それでも、まさか、と思った。薬草師としての彼女を尊敬していたからだ。患者の状態をよく見て、自身の調合薬を過信もせず、相談者の秘密を守ろうとする。人の病や怪我に寄り添う彼女が、責任感の強いルエラが、こんなことをするはずがない。ここは魔法国だ。魔法理論に詳しい人も、魔法陣が描ける人もいくらでもいる。そう思った。
「私は……薬草師としてのあなたを尊敬しています。私は自分が生きていくのに必要な分の薬草しか知らないけれど、ルエラさんはたくさんの人を救う知識を持ってます。私の魔法理論は、今日はたまたま人を救うことが出来たかもしれないけれど、今はまだ、どうしたら人の役に立てるか、よくわからないです。ただ、自分で起動できない魔法陣のリスクを、起動する人に正しく伝えずに全部負わせるのは間違っているってことだけはわかります」
「……できなかったのよ。どうしたら止まるようにできるのか、わからなかった。どうなるかわからないってちゃんと言ったのに、それでもいいって言ったのはあの人たちよ。それを後から止めてくれって言われたって」
「どうなるかわからなかった? 違うよね。少なくとも君は二種類目を描いた時には知ってたはずだ。これを使ったら死ぬってちゃんと説明したの?」
メルカトルの言葉は、これまで聞いたこともないほどに冴え冴えと冷たく響いた。
「君の夫は魔法師見習いだよね。しかも九年目だ。なんで真っ先に、自分の家族で試さなかったの?」
ルエラは唇を噛んで俯くと、それきり何も答えなかった。
窓からは朝日が射し込み始める。
長かった夜が、ようやく明けた。




