第三話
シフリーナはいつものように、そっと扉を押し開け、真っ暗な図書室に人の気配がないことを確認してから身を滑り込ませた。
寮の消灯推奨時刻を過ぎれば、図書室を訪れる生徒はひとりもいない。だから、シフリーナはこの時間ならば誰の目を気にすることもなく、ゆっくりと読書を楽しめる。
養成校の新学期は、夏の終わりに始まる。長期の夏期休暇中は生徒は皆帰宅する。残っているのは、保守と夜間の宿直をする少数の職員くらいのもので、それすら通いの交代制だ。
その間、シフリーナは寮に残り、ひたすら図書館に籠もる。
帰ってくるなと言われていたせいではあるけれど、授業もない夏休みの間はのびのびと読書を楽しむことができるからだ。ついでに言えば年末年始の休みも同様だ。
もっとも、その期間は食堂も昼食の用意しかしないため、一日一食で生き延びる必要がある。それでも、調理員が気に掛けて夜食用のパンをくれるし、たっぷりの読書時間と天秤に掛ければどうこう考えるほどの問題でもなかった。
入学して最初の年は休み時間や放課後は図書館で過ごすことが多かった。けれど、シフリーナの魔力ナシが知れ渡ってからはそうもいかなくなった。
魔力もないくせに魔法を学ぶのか。
魔力ゼロで魔法師養成校に入るなどどうかしている。
陰口ならば気にならない。本に集中していれば、周囲の音など聞こえない。問題は面と向かって話しかけてくる生徒だ。用事ではなく、揶揄いや文句を言いにくる生徒のせいで、読書は中断され、貴重な時間が削られていく。
なにしろ図書室には教師の目がない。大声で話すことさえしなければ、誰も目くじらをたてない。そして、その教師の目のなさが身の危険に直結してからは、シフリーナは昼間に図書室に来ることをやめたのだ。
後ろ手に扉を閉ざしてから、ほぉと息を吐く。
窓辺に寄って、音を立てないようにそっと窓を押し上げる。
図書室は一階だ。何かがあれば、窓から飛び出してすぐに逃げ出すこともできるように退路の確保は必須だ。とはいえ、入ってくる外気は冷たさを孕み、そろそろ図書室通いにはショールを持ってきた方がよさそうだ。
ポケットから灯の魔法石を取り出すと、柔らかな光が、彼女の手元を照らす。
魔力のある生徒なら図書室の明かりをつけることもできるが、シフリーナにはそれができない。もっとも、明かりを付ければすぐに誰かが様子を見に来てしまうから、いずれにしても部屋の明かりはつけられない。
初めて夜にひとりで訪れた時には少しだけ怖かったけれど、今となってはすっかり慣れてしまった。
シフリーナは昨日借りて帰った本を棚に戻すと、今夜借りていく本と、ここで読んでいく本を選ぶべく、魔法石で照らし、背表紙を指で辿りながら吟味する。
「泥棒に入ったってわけではなさそうだな」
掛けられた男の声に、シフリーナは肩を跳ねさせて視線を投げる。
入口に誰かが立っている。
ただ、残念ながら魔法石の明るさに慣れた目では、そこに人影があることしかわからなかった。
見回りの教師ならばランプを手にしているはずだし、それ以外の人間がこんな時間にここを訪れることはない。
ドアの前には声の主がいる。逃げるなら窓からだろう。
シフリーナは横目に窓までの距離を測る。その間にも男がゆっくりとこちらに近づいてくる。
生徒ではないはずだ。声は聞いたことがあるような気はするが、教師だったとて、それはシフリーナの安心材料にはならないのだ。
「こんな時間に女ひとりでいるなんて、いくら学校の中だからって襲われても文句は言えないな?」
バクバクと心臓が鳴る。
こういう危険を避けるためにわざわざこんな時間に来ているのだ、という反論が過るが、今はそれどころではない。
伸びてきた手から逃れて身を翻した途端、魔法石を取り落としてしまったが、それよりも早く逃げなくてはいけない。
「おいっ」
向こうからこちらはしっかり見えているのだろうか。
とにかく今は手が届く距離から離れ、窓から逃げ出さなくてはいけない。
「こらっ」
指先が肩に掛かりかけた気がして、強く振り払う。
「う、動かないでっ」
至近距離では窓を潜る間に掴まってしまう。シフリーナは振り向いて、ポケットに忍ばせていたペーパーナイフを取り出した。
少し大ぶりのそれは、暗がりならば普通のナイフに見えるはずだ。
「魔法を使える相手に、魔力ナシが刃物なんて意味がないって誰も教えてくれなかったのか?」
魔法でナイフを取りあげる。拘束する。そういう可能性はもちろんシフリーナも考えている。
だからこそ、このナイフに必死で魔法陣を描き込んだのだ。
細い刀身にインクで描き込むのは骨が折れたが、実際問題役に立つかはわからない。
なにしろシフリーナは、それを自身で検証することはできないし、こんな場所に魔法陣を描いて持ち歩いているなどと知られれば反省文で済ませられるかもあやしいから、誰かに試してもらうわけにもいかなかった。
男が小さく指を動かす。きっと魔法だ。
シフリーナはぐっと力を込めて、刀身を相手の正面に向けて構えた。
途端に、パチンと音をたてて、室内が目映く照らし出される。
魔法陣がシフリーナの思った通りに発動した。胸に歓喜が湧き上がる。けれど今はそれどころではない。
逃げなくては。
相手が光に怯んでいる隙にシフリーナが窓に向かって駆け出す。けれど、無情にも窓は目の前で閉ざされた。
男がゆっくり歩み寄ってくる。
「こ、来ないでっ!」
「悪い悪い。ここまで脅かすつもりはなかった」
そう言って男が指を弾くと、図書室の中がパッと明るくなる。
そこにいたのはウーシェダだった。
シフリーナは一瞬肩の力を抜きかけて、すぐに思いとどまった。
こんな時間に、こんな場所にいるなんて、あやしいことにはかわりない。自身のことを棚上げして、ウーシェダを睨み付けるように見つめて、出入り口のドアまでの距離を測る。
途端にウーシェダがクスクスと笑い出した。
「猫なら毛が逆立ってそうだな。何もするつもりはないから、いったんそのペーパーナイフをしまったらどうだ?」
ペーパーナイフとバレているらしい。
降参を示すように両手を掲げて見せたウーシェダは、シフリーナから距離を取るように後ろに下がると、手近な椅子を引き寄せて腰を下ろした。
窓は開かないし、背を向けてドアまで走るのも怖い。なにしろ相手は特級魔法師だ。
「そこまでまっとうな警戒心があるクセに、よくもまあこんな時間にひとりでこんな場所に来たな」
面白そうに目を細めるウーシェダに、何か言葉を返すべきか迷っていると、ふいに入口のドアが勢いよく開いた。
「誰だ!? こんな時間に」
大声に、再び肩を跳ねさせたシフリーナは、今度は見知った教師を認め、これはまずいと思う。
生活態度に厳しい上に、シフリーナの特例入学を特によく思っていないであろう教師だ。
「ああ、申し訳ありません。実技に参加できない生徒に、明日の授業の資料集めを手伝わせていました」
ウーシェダがそう言って教師とシフリーナとの間に立った。
「こんな時間にですか?」
「こんな時間でないと生徒が多いでしょう? どんな実技をさせられるか事前にわかってしまっては、テストになりませんからね。テストに参加できない生徒に、せめて手伝いくらいさせようかと思いまして。な?」
肩越しに振り返って同意を求めるウーシェダに、シフリーナはこくこくと頷いて見せた。
「……テストを受けることすらできない生徒が在籍しているなど、魔法師養成校の名折れですよ。君ももう諦めて、どこかに嫁ぐべきじゃないかね? お父上も心配していらした。誰かいないのかね。男子生徒の間で随分モテているそうじゃないか」
モテているわけではない。
あわよくばアイトリア家に名を連ねたいという生徒が、既成事実を作ればどうにかなるのではと勘違いしているに過ぎない。おかげでシフリーナは、死角の多い場所や、教師の目の届かない場所には近づかないように、無駄に労力をはらう羽目になっているのだ。
けれど、今教師に反論しようものなら、無駄に怒らせて反省文を書くことになるのは、過去実証済みだ。
だからシフリーナは目を伏せて、ただただ嵐が過ぎるのを待つのだ。
「君、もう十九だろう? その年で魔法が発現した例は確かにあるが、歴史を紐解いてもたった一例だ。そういうのはね、奇跡っていうんだよ。滅多に起こらないから奇跡って言うんだ」
「……」
「こんな時間に、いくら教師とはいえ令嬢が男とふたりきりなど、お父上が知ったらなんとおっしゃるか」
まったく嘆かわしい、などと首を振る教師にうんざりしていると、ウーシェダが口を開いた。
「この話、まだ続きますかね?」
「は?」
「これでも忙しい時間の合間を縫ってこの学校に派遣されているわけですが。その話は、貴重な授業準備よりも優先されるべき話なのかとお尋ねしています」
ウーシェダの言葉に、教師の顔がみるみる赤くなっていく。
これが生徒相手なら、怒鳴り散らしているに違いない。
けれども相手は特級魔法師。しかも、魔法塔からの特別派遣の教師だ。かろうじて働いているらしい理性で、教師は口の端を引き上げつつも、目はまったく笑っていなかった。
「これはこれは、とんだお邪魔をしたようで。……ウーシェダ様は、いかがですか? まだ独身でしたよね。魔力はなくとも、我が国の魔法名家の令嬢を娶れば、ますます箔が付くのでは?」
「それは、俺が後ろ盾がないと困るような魔法師に見える、というお話でしょうか?」
ウーシェダの声音はとても穏やかだ。
けれど、どんな顔でそう言っているのか、背後にいるシフリーナには見えなかったが、教師はさっと顔色を変えて「いや、まさか、そんなつもりでは。とりあえずもう消灯は過ぎているので、早めにお願いしますよ」と早口で言うと、そそくさと図書室を出て行った。
「なんだありゃ。いつもあんな調子か?」
呆れた顔で振り返ったウーシェダは、教師の出て行ったドアを指差した。
「まあ、……あの先生が特別ああなだけです」
苦笑で返したシフリーナは「お手伝い、何をすればいいですか?」と尋ねる。
魔力ナシで実技ができない。それは事実だ。
先ほどの言葉が方便か確かめるためではあったが「嘘に決まってるだろ」と今度はウーシェダが苦笑した。
「そうですか」
安堵と落胆が半々で頷いたシフリーナは「では、失礼いたします」とぺこりと頭を下げる。
「君の話は終わってない。こんな時間にここに居たのはまあ察しがついたが、さっきのナイフ、あれはなんだ」
「なんだ……とは?」
ナイフに刻んだ魔法陣のことを言われているのはわかりつつも、シフリーナは全力でわからないという顔をして首を傾げて見せた。
学生が決まった紙以外に魔法陣を描いた。しかもそれを持ち歩き、故意でないとはいえ発動させてしまった。先ほどの教師の耳に入れば、即刻退学にされかねない。
「とぼけるな。俺の魔法に反応して発動する仕組みか? 何が起きた?」
シフリーナがナイフに刻んだのは、他者の魔法をそのまま跳ね返す鏡の防御陣に近い。
ただし、そのまま跳ね返して相手にケガをさせることがないように、いくつか想定した魔法に対して、光ったり大きな音が出たりするように書き換えたものだ。要は逃げる隙を作れればいいというコンセプトで考えたものだが、相手が立て直すのが早いと逃げ道をすぐに塞がれてしまうというのが今夜のことでよくわかったから、まだまだ工夫の余地がありそうだ。
もちろんそんなことを言えるはずもないシフリーナは「さあ? 私は魔力がないので……」と首を振って見せた。
「それもそうだな。なら、さっきのナイフを見せてみろ」
魔法陣はもう消えているし、現物を見たところで何もわかるはずもない。
それを確信しているシフリーナは、素直にウーシェダにナイフを差しだした。
魔法の発動により、刀身に描いた魔法陣は消えている。それを矯めつ眇めつ眺めたウーシェダは、空中に指先を滑らせた。
途端に蒼い蝶が現れて、彼の周囲を舞う。
なんのための蝶だろうか。刀身を見つめる彼が、シフリーナに見せるために蝶を出したわけでもないだろう。
優美に舞う蒼い蝶は、彼の瞳と同じ色だ。
じっと見つめるシフリーナの視線の先で、ウーシェダが「同じか……」と呟くと、蝶はすぐに霧散してしまった。
「これを描いたのは誰だ? このナイフは誰に貰った?」
「忘れました。家から持ってきたのかも」
とぼけて口にすると「なるほど、ならば家に問い合わせても?」とすかさずウーシェダが返す。
それは困る。ものすごく困る。
おそらくシフリーナの父親とて、いよいよ娘の魔法の発現を諦めつつあるのだ。事実、今回の夏休みは帰って来ればと母から便りが来た。魔法が発現するまでは家の門を潜るなと言った父に逆らって、母がそんな便りを書くはずがない。
退学処分になって戻られるよりも、自主退学で嫁にでも行ってくれた方が家名に傷がつかない。
おそらくはそういう意図だった。
今寝た子を起こすような、否、既に起きかけている子を揺さぶるような何かがあれば、即刻学校を辞めさせられてしまうことだってありうる。
「あ、いえ、拾った? いや、あれ? えーと、すみません! 忘れました! たぶん学校に来てからでした、家ではないです。絶対!」
「……なるほど?」
喉の奥で笑ったウーシェダは「ま、いいさ。まだ時間はあるからな」と息を吐いた。
「それで? 目当ての本はあったのか? さすがに見つけてしまった以上はこのままここで読書をしていけとは言えない。借りたい本があるならとっとと選べ。部屋まで送っていく」
「はいっ」
シフリーナは大急ぎで、今日読もうと思っていた本の棚へと向かう。
室内が明るいおかげで、それはすぐに見つかった。
「ほぉ……それがわかるのか?」
「わかりたいから読んでみます」
シフリーナがそう答えると、ウーシェダは愉しそうに目を細めた。
「いい心がけだな。魔法が好きか?」
「はい、大好きです」
「魔力がないのが残念だな」
嫌みも哀れみの色もないまっすぐな言葉に、シフリーナは「そうですね」と頷いた。
「でも、好きなので。学べる間は学びたいなって」
シフリーナがこうして好きなだけ魔法書を読めるのは、この学校にいる間くらいだろう。一般貴族に嫁げば邸に魔法書などあるわけもないし、運良く魔法師に嫁いだとて、魔力なしの嫁が自由に魔法書を読める確率など限りなく低い。
「なんの役にも立たないのにか?」
「役に立てないと、駄目でしょうか」
「ん?」
シフリーナはゆるりと首を振る。
料理は学べば実践できる。絵だって描ける。けれど、それをするには材料や道具がいる。食材や絵筆は買えば手に入るが、魔力だけはそうはいかない。持っていなければ、どうしようもないのだ。
それでも、好きなのだから仕方ない。憧れて、思い描いて、どこまでも空想止まりでも、より深く知りたい気持ちを止めることができない。
「先ほどは庇ってくださってありがとうございました。退学になったら、本も読めなくなってしまうので」
微笑んで礼を言うシフリーナに、少しだけ考えたウーシェダが「これは魔法塔から持ってきた本なんだが」と空中に指をすべらせて一冊の本を取り出した。
背表紙の文字も掠れて読めないほどに、古びた本だ。
「読みたいか?」
特級魔法師が読むような魔法塔の本。シフリーナの興味を惹かないはずがない。
こくこくと頷くと、ウーシェダは「なら、そのナイフの魔法陣を誰が描いたか教えてくれ」と言いながら本を差しだしてくる。
シフリーナは伸ばしかけた手を引っ込めると「……わかりません」と首を振った。
垂涎ものの本ではあるが、そのために学校を退学にでもなれば目も当てられない。ウーシェダがそれを咎めることがなくとも、他の教師の耳に入れば何がどう転ぶかわからない。
ここは諦めるしかなさそうだと目を伏せたシフリーナの前で、ウーシェダはゆるりと息を吐いた。
「そういえば、今日のプリントは実習とセットで単位になる」
「それは、そうでしょうね」
つまりは魔力なしのシフリーナは、また単位を取れないのだ。
「全問正解でも、魔法陣を起動できなければ成績はつかない」
追い討ちをかけるような言葉に、諦めと共に頷くと「とはいえ、全問正解だった。しかもあれは……」と言いかけたウーシェダは「いや」と首を振る。
意味がわからず顔をあげると、先ほどの本が差しだされ、シフリーナは条件反射のように受け取った。
「単位はやれないが、ご褒美だ。貸してやろう」
「ありがとうございますっ!」
満面の笑みで礼を言うと、ウーシェダは軽く目を瞠って、すぐに笑みを浮かべた。
分厚い本を、そっと撫でてみる。一刻も早く自室に帰って本が読みたい。
この本が原因で後にとんでもないことが起きるなど、この時のシフリーナは──そして、ウーシェダも、知るよしもなかった。




