偽装だった婚約を、本物にしたいと思います。⑧
朝、出仕してすぐのこんな時間はシフリーナは図書館か書庫にいるはずだし、執務室を訪ねてくるのは、仕事を持ってくる者くらいのものだ。
だから、ノックの音にも、それに応えるオルセにもさして気に留めず、溜めてしまった書類を捌いていた。
「シフリーナ様、おはようございます」
オルセの声に急いで顔を向けたウーシェダは、思わず立ち上がってしまった。
「おはようございます。シェダ様も、おはようございます。今少しよろしいですか?」
「ああ、もちろん」
シフリーナは室内に足を踏み入れると、まっすぐにウーシェダの机の前までやって来た。
彼女に会うのは、あの会食の夜ぶりだ。
どこか思い詰めた顔で、口を開きかけては閉じ、目を伏せる。
「シフル?」
立ち話で済ませるような軽い話ではなさそうだ。
あの夜の話題を振り返れば、ウーシェダには胸騒ぎしかない。
「シェダ様。私、婚約をやめたいです」
「……。……は?」
ウーシェダの喉の奥から、間抜けな声が漏れた。
頭が真っ白になったウーシェダの前で、シフリーナは両手をぎゅうと握りしめたまま立ち尽くしている。
黙って向き合うふたりから少し離れた場所で、オルセが盛大な溜息を落とした。
「貴方たち、本当に面倒臭いですね。私は今日はもう失礼させていただきます。そういえば埋め合わせも貰ってないですし」
早々に部屋を出て行くオルセを、あっけに取られて見送るしかない。
「まあ……落ち着こう」
落ち着くべきは己の方だ。そこだけは自覚しながら、ウーシェダはシフリーナに、まだ新しいソファに座るよう促して、お茶の準備をする。
シフリーナに背を向けたまま、茶器を温め、茶葉を量り、ティーポットに湯を注ぐ。
無言のまま、決まり通りの手順をなぞることで、ウーシェダにほんの少しだけ落ち着きが戻る。
ソファに浅く腰掛けて、膝の上で両の掌を組み合わせるシフリーナの前にカップを置いて、ウーシェダは隣に腰掛ける。
壁際に置いた三人ほどが座れるソファは、シフリーナとの昼食のために用意したものだ。対面でないそれに「来客用の言い訳も取れないじゃないですか」と言うオルセに「ここに来客があったことなんてないだろ」と答えると「申請は来客用にしてあるんですよ。まあシフリーナ様も客と言えば客でしょうけど」と諦めたようにため息をついていた。
カップからは湯気が立ち上る。
いつもなら楽しそうに話し続けるシフリーナは黙り込んだままだ。
「婚約を、やめたいと言ったか?」
水を向けてやると、こちらを向いた彼女が小さく頷いた。
「はい、それが一番いい気がして」
勝手に決めるな。
何が一番いいだ。
ひとりで結論を出すんじゃない。
様々な思いが渦巻く。けれどウーシェダの口から零れたのは、ため息だけだった。
この三日間の苦労はなんだったのか、と思う。
出仕をせずにいたこの期間、ウーシェダは馬車馬のごとく働いていた。
シフリーナを邸に戻した場合の警備計画書。魔法塔にいる場合とのリスク比較。彼女の食事や睡眠についての健康管理の意見書。
邸の建物のドアや窓はもちろんのこと、敷地内にも侵入者にすぐに気づけるような魔法陣を配した。
取り組んだのは安全面だけではない。シフリーナの快適性についてもだ。
これまでは、最大でも二年しか滞在しない想定で、彼女が行動する範囲しか、魔力がなくても困らないように変えてはいなかった。それを、ダリアンくらいしか使わないような厨房の設備までをもすべて、魔力がなくても使えるように置き換えた。
邸の書庫は、吹き抜けの天井の高さまであるすべての本をシフリーナが手にできるよう、壁に沿って螺旋回廊や階段を配したし、彼女の部屋とウーシェダの書斎も本棚を増設した。
そして今日、改めて求婚し、婚約を本物にしたいと乞うつもりだった。
それなのに、婚約する前に婚約破棄を申し出られたのだから、ウーシェダのダメージたるや計り知れない。
「理由を、訊いても?」
理由など、あの会食の夜を思い返すだけで充分だ。それでもきちんと彼女の口から聞きたくて、ウーシェダは尋ねた。
ところが、返ってきた言葉は意外なものだった。
「まずは、この婚約をやめることが必要かと。そうして、出来れば婚約したいんです」
意味がわからず、ウーシェダは眉を寄せた。
会食の時のメルカトルの言葉が蘇る。
『ウーシェダじゃなくてもよくない?』
あの言葉通り、他の誰かと婚約するつもりだろうか。
「誰と婚約を?」
問う声は自分で驚くほどに、固く冷たい音がした。
気圧されたようにシフリーナが息を呑むのを感じて、ウーシェダは細く息を吐いた。
脅したいわけではない。それなのに、彼女がこの先を口にすることを許したくないほどに冷え冷えとした感情が胸に広がっていく。
自分で尋ねておいて、答えを聞きたくないなど理不尽だとわかっているのに、どうにも抑えられない。
「すみません」
「謝罪が聞きたいんじゃない。俺との婚約を解消して、誰と婚約するつもりだ」
「……シェダ様、です」
上目遣いのシフリーナは、どこかおどおどとして口にする。
ウーシェダは咄嗟に言われた意味がわからず、彼女の困ったような顔を見下ろしたまま二度ほど瞬いた。
「俺が、誰と?」
「私と、していただきたいんですけど」
「君との婚約を解消して、君と、婚約するのか?」
「……今度は、嘘でないのが、いいんですけど」
ウーシェダは息を呑んだ。
目を瞠って固まるウーシェダを前に、シフリーナがなおも言葉を続ける。
「その……面倒だと思われるとは思うんですけど。困らせてしまうことも多かったですし。あ、でも私、きっとシェダ様をお守りします! そのための魔法陣もっ」
ウーシェダは、シフリーナをぎゅうと抱き締めた。
「俺も、君と婚約したい」
腕の中に捕らえたまま、希うように囁く。
息を詰めたシフリーナに「結婚したい。してほしい。ずっと、傍にいたいんだ」と告げると、おずおずとウーシェダの背にシフリーナの腕がまわった。そのままきゅっとしがみつくように抱き返されて、呼吸が止まるほどの多幸感に包まれる。
「私も、シェダ様の傍にいたいです」
ふたりはそうしてソファの上で、言葉もなく抱き合っていた。
ややして「困りました」とシフリーナが囁く。
身を離して彼女の顔を覗き込むと、どこかとろりとした目で見上げてくる。
「ドキドキがおさまってきたら、眠くなってきてしまいました」
実は昨日は眠れなかったんです、と恥ずかしそうに笑う。
つまりはそれほど思い詰め、真剣に考えてくれたということだ。
「寝てもいいぞ?」
もう一度、そっと抱き締めて耳元で囁くと、くすぐったそうに身じろいだシフリーナは「よくないです」と見上げてくる。その表情があまりに可愛くて、顔を寄せていくとがちゃりと執務室のドアが開いた。
「そろそろ終わりました?」
帰ったかと思ったオルセが戻ってきたのだ。
途端にシフリーナが腕の中から離れて立ち上がった。
「帰ったんじゃなかったのか?」
「帰るつもりだったんですけどね。三日も仕事をほったらかした誰かさんのお陰でいろいろ滞ってるんですよ。明日の自分のためにも、丸一日仕事を休むなんて恐ろしいことできませんね」
涼しい顔でそう言ったオルセが、どこかから受け取ってきた書類をウーシェダの机に積み上げていく。
「あ、じゃあ私は戻ったほうが」
「お気になさらず。どうぞこちらにいらしてください。恐らくそのほうが早く仕事が片付きますから。そこらの本はお好きに読んでくださって構いませんよ」
書棚を指したオルセも、シフリーナの扱いにはすっかり慣れてきたらしい。それをなんとなく面白くないと思いつつ、ウーシェダはろくに婚約の余韻を味わう間もなく仕事へと引き戻された。
その後すぐウーシェダは長老への面会を求めた。
普通ならばいくら特級魔法師のウーシェダとて、七賢人をすっ飛ばして長老と直接話すなどそう叶うものではないから、いきなり面会を求めたりはしない。それでも今回シフリーナのことについて話を持って行くならば、メルカトルにするべきだろうと考えた。
案の定、メルカトルとの面会は取り付けられず、昼過ぎならばニケが話を聞けるとのことで、まずはそちらに話を持って行くこととなった。
午後。ニケの執務室に行くと、既に茶の準備が成されていた。
ソファの前のテーブルには、初日と同じように焼き菓子が並ぶ。初日と違うのは、そこに小さなサンドイッチも加わったことだ。
「それで。随分急だったけれど、どういうお話かしら?」
おっとりと微笑むニケを前に、物怖じすることなくシフリーナが口を開いた。
「ニケ様。私、シェダ様のお屋敷に帰りたいんです」
「そう。でもシフリーナ。ウーシェダの邸よりも、魔法塔にいたほうがたくさんの魔法に触れられるわ。貴女の好きな本だってたくさんあるし、ここなら私たちが貴女の研究にいつでも力を貸すことができる。ウーシェダの邸では、そうはいかないでしょう?」
「それは、そうなんですけど。ここには……シェダ様がいないので」
ウーシェダは思わずにやけそうになる口元を引き締めながら、まずは成り行きを見守った。
「ウーシェダならば、執務室に行けば会えるでしょう? それでは駄目なの?」
「会えるんですけど……シェダ様と食べるご飯はおいしいんです。私は、自分が食事をしていい存在なんだって、シェダ様と一緒にご飯を食べるようになってから、ようやくちゃんと思えるようになりました。シェダ様の傍は……息がしやすいんです」
「そう。息がしやすいのなら、それはもう仕方がないわね。帰宅を許します」
あまりにあっさりと下りた許可に、シフリーナと揃って「え?」と声を上げた。
「よろしいんですか?」
許可が下りて嬉しいはずなのに、ウーシェダは思わず確認してしまう。
まだ要望書も計画書も提案書も、なにひとつ示していない。それなのにニケが頷いたことに、ただただ驚きしかない。
「長老から、会食の後、貴方たち双方からの希望があれば、許可は出していいと言われていたのよ」
そう言ったニケは、摘まみ上げた焼き菓子を口に運んで、うっとりと微笑んだ。




