偽装だった婚約を、本物にしたいと思います。⑤
魔法塔でシフリーナにあてがわれた部屋は、ウーシェダの邸のそれよりも幾分広い。
この部屋と同じフロアにある書庫の出入りは自由。フロアを出ていいのは、図書館かウーシェダの執務室に行く時のみ。行き来はフロアの入口に立つ守衛の魔法師を伴うように言いつけられた。
明かりやシャワーに魔法がいるのはウーシェダの邸と同じだったけれど、本も紙も時間も潤沢にあり、魔法塔での生活はシフリーナにとってなんの不便もない。
ただ、魔法学校を出て以来、常に生活を共にしていたウーシェダがいないのは、ほんの少しだけ心細かった。
そんな心細さも、見たことのない本を読めば紛れはしたけれど、わからない言葉を見つけた時に、つい「シェダ様」と呼びかけてしまい、居合わせたアグリに笑われて決まり悪い思いをした。
図書館への出入りは、朝の清掃時間のひとときのみ。そう言われていたシフリーナは、最初の朝、まだ薄暗いうちから起き出した。図書館に入るのを許される時間までは書庫に行き、明け切らない窓辺で文字に目をこらした。
初めて足を踏み入れた図書館は、シフリーナの知るどこよりも広く、到底読み切れそうにないほどの本が並ぶ。
魔法が使えないと高い棚の本を取る手段がないところも、ウーシェダの邸と同じだ。それでも、そもそも棚が多すぎて、手に届く範囲の本ですら一年かけても読み切れそうにない。
誰もいない図書館は、夜の学校の図書室を思い出させる静謐さだ。コツンコツンとシフリーナの足音だけが響く。
棚に並ぶ本のほとんどは見たことのないタイトルだ。どれもこれもに興味を惹かれながら、ゆっくりと棚の間を歩く。
ふと一冊の本に目が留まり、シフリーナは足を止めた。
この棚は、鏡面魔法の本が集められているらしい。
ペーパーナイフに描いた魔法陣は、鏡面魔法の変型版だ。
本来光が鏡に反射するように、相手の魔法を跳ね返すのが鏡面魔法。シフリーナのそれは、跳ね返す前にいったん取り込み、作用を変異させてから跳ね返す仕組みだ。
変異させずにただ無効化させる。そんなことはできないだろうか。
もしもそれができていたら、あの時、ウーシェダの魔力が奪われるのを防げたかもしれない。
鼻の奥に血の臭いが蘇った気がして息を詰めたシフリーナは、ぎゅっと目を閉じてから、息を吐いて目を開ける。
一冊ずつタイトルを辿る。
『鏡面原理と相互属性』
『反射と強度の原理』
『属性変成の可能性』
どれも気になるタイトルだ。
持てる範囲なら持ち出していいと言われているから、とりあえずこの三冊を借りていこうか。
シフリーナはつま先立ちで、手を伸ばす。
「これかな?」
「ひゃっ!」
背後から手が伸びてきて、シフリーナは声を上げて飛びすさった。
「ごめんごめん。そんなに驚くと思わなかった。先に声を掛ければよかったね」
そう言って笑った男は「これで合ってるかな?」とシフリーナが取ろうとしていた本を手渡してくれた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
シフリーナよりも頭ひとつ以上長身の男だ。それだけ背が高いのに、ほっそりとしている体躯のせいか、それとも笑みを湛えた雰囲気のせいか、圧迫感を感じさせない。
ウーシェダよりは年上だろうが、シフリーナの父ほどではなさそうだ。
寝癖だらけにも見える短い濃紺の髪をかき上げた彼は、灰青の目を柔らかに細めて首を傾げた。
「この時間にここにいるってことは、聞いてた子かな」
ニケが「担当には連携しておくから、立て札は気にせずに入っていいわよ」と言っていたのを思い出す。
恐らくは彼が、この時間に図書館を掃除する担当なのだろう。
「はい。ニケ様よりお許しをいただいてお邪魔しております」
「そっか。君が……」
「あ、すみません。お掃除ですよね。この辺りをやりますか? 邪魔ですよね、すぐにどくので」
「掃除?」
「あ、お掃除の担当の方、ですよね?」
「ああ、うん、そうそう、僕が担当。でも邪魔じゃないから大丈夫だよ」
そう言って男が指を弾くと、床に波紋が広がった。光は白いさざ波のように床を走り、本棚という本棚を撫でて行く。
「わぁ……」
天井まで這い上がったそれは、シフリーナの真上で弾け、青銀の光となって降り注ぐ。咄嗟に受け止めようと、思わず掌を差しだしてみたけれど、なんの感触もないまま光は静かに消えてしまった。
「すごい……すごいですねっ! 流星群が落ちてきたみたいでした!」
「……なるほど、聞いてた以上だね」
「はい?」
「ううん。……僕はメル」
「あ、シフリーナと申します」
「うん、シフリーナ。またね」
「はい、お掃除お疲れ様でした」
シフリーナがペコリと頭を下げると、メルはくすくすと笑いながら去って行った。
その後は、ほぼ一日中書庫で過ごした。
本を読み、思いついた魔法陣をメモ書きしていると、七賢人のエレオマとティナックが連れ立って書庫にやって来た。
初めは緊張したシフリーナも、描きかけていた魔法陣をふたりに説明するうちに詰まっていた記述を思いついた。
この方向で仕上げるために、先に読んでおくといい本をいくつか教えてもらい、書庫にないものは明日図書館で借りてこようと心に決める。
エレオマたちが去ると、少ししてニケが様子を見にやって来た。
「ウーシェダには会いに行かなくていいの?」
シフリーナはペンを止めて顔をあげた。
ウーシェダの執務室には行ってもいいと言われている。本当は、朝、図書館から戻る時に、挨拶だけしに行こうかと考えた。けれど、仕事をしている彼のところに、特別な用事もないのに行くのは邪魔だろうとやめておいた。
「シェダ様もお忙しいでしょうし。用がないのにお邪魔するのも申し訳ないです」
「用、ねぇ。婚約者なんだもの。会いたいというだけで、充分なのではなくて?」
「……そういう、ものですか?」
「そういうものよ。遠慮することはないわよ。ああ、そうそう。シフリーナさんの使うものは魔法石で操作できるように変えておいたわ」
「ありがとうございます!」
ニケは「この後は会議なの」と足早に出て行った。
誰も彼も忙しそうだ。きっとウーシェダもそうだろう。
シフリーナが本当の婚約者ならば、挨拶だけをしに行ってもいいのかもしれない。けれど、この婚約は偽装だ。弁えなくてはいけない。
用事が出来たら会いに行こう。そう考えていたシフリーナに、夜になってから、その日世話係をしてくれた魔法師が用事を持ってきてくれた。
「明日の昼食はご一緒にとのことでした」
一緒に食事をするならば、特別な用事でなくとも、雑談でも問題はない。
話したいことは、たくさんある気がした。
ベッドに入ってから、ウーシェダに話したいことをひとつずつ思い浮かべる。昼食の時間だけで足りるだろうか。
その夜は、そうして眠りについた。
魔法塔での生活、四日目の朝。
「え? それじゃあ昼ご飯の時しか会ってないの?」
書棚の間で清掃魔法を終えたメルが、目を丸くする。
「はい。お仕事の邪魔をするのは申し訳ないですし」
「邪魔、されたいんじゃないかなぁ」
シフリーナは「邪魔をされて嬉しい人なんていなくないですか?」と小首を傾げる。
「だってさ、『シェダ様』は君と離れたくないから、あんまり出仕しなかったんでしょ?」
シフリーナは瞬いて考える。
七賢人たちは、ウーシェダがあまり出仕しなかったのは、シフリーナの研究を手伝うためだったと知っている。けれど、メルはそうではない。
言っていい事と駄目な事。線引きを考えながら口を開く。
「そう、でした、か?」
「ねえ。……婚約は、偽装だったりする?」
「──! まさか。偽装じゃないですよ! 私たちはちゃんと間違いなく、正真正銘本物の婚約者です、よ?」
シフリーナが力説すると、わかったわかったとメルは笑うばかりだ。
とりあえず、この話題は変えてしまいたい。
「そ、そういえば、メルさん。メルさんは長老様に会ったことあります、か?」
「あるけど。なんで?」
「長老様って、怖いですか?」
今夜は会食だ。七賢人だけでなく、長老とも会うことになっている。
七賢人とは一応一通り言葉を交わしたが、長老とは今夜が初めての顔合わせなのだ。
「怖くは、ないんじゃないかな」
「どんな方なんでしょう……ご高齢ですよね」
「ご高齢……」
「あ、そうでもないんですか?」
「いや、うん、そうだね。えーと……白い髭が立派な感じで」
「威厳がありそうですね」
「うんうん、そんな感じ。腰がね、曲がってて」
「腰が……やっぱり……」
七賢人もアブエラとエレオマはどちらの曾孫が可愛いかで張り合っていたくらいだから、それなりに歳だろう。長老ともなれば、更にその上をいくはずだ。
「おいくつくらいなんですかねぇ」
「確か……二百歳は超えてるって聞いたよ」
「二百っ!?」
驚くシフリーナに、メルが楽しそうに目を細める。
「あのぉ……長老様って、人間ですか?」
シフリーナの問いかけに大笑いしだしたメルは「今夜自分の目で確かめてご覧よ」とひらひらと手を振って行ってしまう。
「私、今夜会うって言いましたっけ?」




