偽装だった婚約を、本物にしたいと思います。④
「お見えになりませんね」
オルセの言葉に、ウーシェダのペン先が滑る。魔法耐性のあるインクは、魔法で修正することも叶わない。
オルセのせいにできることでもなく、ウーシェダは滲むインクを前に息を吐いた。
「この時間は図書館だろ。朝の清掃で立ち入り禁止となる間だけ、好きに使っていいと言われているらしいからな」
魔法塔は昼夜問わず動き続けている。特に実務院は魔法塔の警備も担っており、夜勤者が多い。そのため、食堂にしろ図書館にしろ、一日のひとときを除き、閉まることはない。
図書館は、日の出からのわずかな時間、閉館して清掃や蔵書の確認が行われる。ただ、そんなことは魔法を使えば造作もないことで、長老や七賢人たちの専用利用時間としているのが本当のところだ。人との面会をある程度制限されているシフリーナは、その時間を図書館の利用時間としてあてがわれているに違いない。
ならばそれが終わればすぐに執務室を訪ねてくるかといえば、恐らくそうはならない。十中八九、図書館の後は、あのフロアの書庫に入り浸るに違いないのだ。
シフリーナが魔法塔で生活を始めて、三日目。
どうにかして連れ帰ることはできなかったのかというマーサの小言も、せっかく食べられる物が少し増えてきたのにというダリアンの嘆きももっともだとウーシェダは思う。
では当のシフリーナはどうかといえば、ウーシェダの執務室に顔を出すこともない。
それはそうだろう、と思う。ここは彼女が憧れ続けた場所だ。ましてや、制限付きとはいえ図書館の利用が許された。
それに加え、書庫だ。そちらは図書館と違い、時間の制限もない。許可したニケにすればそのフロアの客室で寝起きするシフリーナの利便性を考慮したにすぎないかもしれないが、ウーシェダとて足を踏み入れたことのない長老や七賢人のための特別な書庫だ。
目を輝かせた彼女がそこに籠もり続けるなど、想定の範囲というものだ。
ほんの少し前まで、目を覚ます度にウーシェダの名を呼んでは姿を探し、無事を確認しては安堵の表情を浮かべていたのに。
起きる度に夢か現実かを確かめる様に胸を痛めていたけれど、こうなると雛鳥のように付いて回っていた姿が懐かしくすらある。
今は、彼女の姿が見えず心配しているのはウーシェダの方だけだろう。
昨夕は、彼女の世話係が泣きついてきた。
まず、ウーシェダの邸に初めて来た日と同じように、シフリーナが寒い部屋で毛布にくるまって一晩を過ごしたのに気づいたのだという。幸い明かりはつけてあったから、逆に消すことができなかったようだが、シフリーナは「大丈夫でした」と言ったという。
はたと気づいてシャワーはどうしたかと尋ねれば、「さすがに寒かったので、髪は洗ったけれど、体は拭くだけにしておきました」と微笑まれて係の者は頭を抱えた。
それに加えて食事だ。
まず、朝の食事を部屋に運んでも、彼女は既に書庫にいる。「後で食べます」と言って図書館に向かうのでそうかと思ってそのままにしておき、後から昼食を持って行くと、朝食は手をつけられないまま残っていたそうだ。
辛うじて手をつけられた夕食も随分と残されていたとのことで、このままでは間違いなく体を壊してしまうと訴える世話係は涙目だった。
ウーシェダは、彼女の食事は朝夕問わずサンドイッチとスープにすること、昼食はこちらで用意するので、昼時になったら引き摺ってでもこの執務室に連れてくるようにと言い含めた。
「図書館なら、会いに行けばよろしいのでは?」
「別に。昼には来るだろ」
図書館に行けばシフリーナに会える。ウーシェダが行けば、護衛も中に入れてくれるだろう。
けれど、それもなんだか悔しいのだ。
まだ三日だ。丸一日会えなかったのは昨日だけだ。それなのに、昨日は廊下を人が通る気配があればついドアに視線をやり、夜まで執務室に残っていた。今朝は今朝で、早々に支度を調えて出仕した。
そうだろうなと思いつつも、予想通りにシフリーナがウーシェダそっちのけで魔法塔を満喫している。
少しくらいは会いたいと思ってくれないものかと、いっそ恨めしく思えてくる。
「早くも噂になってますよ。貴方があんまり出仕しないから、とうとう七賢人が婚約者を取りあげることに決め、抗議のために貴方が髪を切ったと」
「なんだそれは」
例の事件は、公的には伏せられたままだ。オルセを含むごく一部の人間を除いては、いつも通りにウーシェダが出仕を渋ったとしか思っていない。
あの件が明るみになれば、実務院──拘束管理局の失態が広く知られるだけでなく、シフリーナの能力までもが広く知られてしまう可能性がある。
先々のことを考えるとこのままというわけにもいかないが、まずは事態を、そしてシフリーナの能力を把握するのが先決だというのが長老を含めた七賢人たちの言い分だろう。
わからないこともない、と同意する気持ちもなくはないが、何も塔に閉じ込めなくてもいいだろうに、とウーシェダは思う。
もっとも、当のシフリーナが率先して閉じ込められているのだから、今の時点では口を挟む余地もなかった。
「理想的なのでは?」
「なにがだ」
「彼女の能力が上の知るところとなり、最高の場所で研究が続けられる。あれだけの能力です。この先、魔力がないことを理由に、この国を出て行けともならないでしょう。シェダ様が望んでいた展開なのでは?」
「それは……」
その通りだった。もう彼女の能力を埋もれさせる心配はないだろう。
七賢人たちの庇護の下、存分に魔法に触れて研究ができる。申し分ない結果だ。
誤算は、ウーシェダがこの婚約を本物にしたくなってしまったことくらいだ。
「私としては、今の状況は喜ばしいですね。シフリーナ嬢が塔に居れば、貴方がこうして真面目に出仕してくださるのですから」
訳知り顔で微笑む男を軽く睨んでも、ウーシェダが何を言えるはずもなく、ただ黙って再びペンを走らせた。
昼になり、シフリーナが執務室を訪ねてきた。
「貴方がここまでわかりやすい方だとは思いませんでした」と笑ったオルセは、自分は食堂で食べたいから、とシフリーナと入れ替わるように部屋を出て行った。
「お仕事大丈夫ですか?」
「ああ。もう急ぎの分は全部終わっている」
「早いですね」
笑うシフリーナに、オルセの席を勧めた。
考えてみればこの部屋にはニケの執務室のようにソファもない。早々に置かせてもらおうと考えながら、シフリーナの前に、ダリアンに持たされた昼食を広げてやる。
「わ、いっぱいありますね」
「三人分だからな」
オルセの分もあったものの、食堂で食べたいというのを引き留めるほどでもない。
「あ、こないだのおやつサンドイッチもありますね。これおいしかったです」
サンドイッチに見立てただけの実質ケーキだ。それでもこの形態だと安心して手が伸ばせるようで、シフリーナは嬉々として口に運んだ。
やっと会えた、と思うウーシェダの心中など知るよしもないシフリーナは、魔法塔の蔵書がいかに心弾むものかということを話し続ける。
書庫で本を片手に魔法陣を描いていると、七賢人たちが様子を見に来るのだという。
三日目にして五人の七賢人と言葉を交わしたと笑うシフリーナは「お勧めの本を教えてもらったので、午後はそれを読むつもりです」とどこまでも楽しげだ。
「君ろくに食べてないんだって? 睡眠はとっているんだろうな?」
「睡眠……、ちゃんと、ベッドには入っていますよ?」
「ちゃんと寝ているのかと聞いている」
「……それなりに?」
目を逸らして答えるシフリーナに、これはベッドでも本を読み続けていると察したウーシェダは、ある程度で強制消灯をするよう世話係に伝えるべきかと考えた。
「おいしいですね。ダリアンの作るご飯、大好きです」
時折食堂を利用しているウーシェダは、魔法塔で出される食事がそう悪くないものだと知っている。ましてや七賢人が世話係や護衛をつけるよう命じている客人の食事だ。それなりのものが出されているだろう。
それでも、これまでシフリーナが何をより多く食べるか、また残すのかなどをつぶさに観察してはメニューを考えているダリアンに敵わないのは仕方ないことではある。
大好きと言ってもらえることを少しだけ羨みながら、ウーシェダは「伝えておく」と頷いた。
「君が塔にいる間は、昼は一緒に食べよう。そうでなくとも、何かあればいつでも執務室に来るといい」
何もなくても来ていいのだが、どう考えてもシフリーナにとって魅力的なのは図書館や書庫だ。何もなければ来るはずもない。
それでも、こう言っておかなければ、困った時にもきっと来ない。
「いいんですか? シェダ様はお仕事中なのに」
「それを言ったら邸の書庫でも、君の横で、俺は仕事をしていなかったか?」
「確かに。そうでしたね」
頷いたシフリーナは「そういえば、明日の夜は長老様と七賢人の皆さんと全員で夕飯を食べるみたいです」と眉を下げた。
「緊張して、きっと食事どころじゃないです」
あの忙しい面々が、ましてや長老までもが全員揃うなど、会議ですらなかなかないと聞いている。
ウーシェダは驚きながらも「なら明日の昼も、しっかり食べておく必要があるな?」と笑いかける。
「そうですね。夜の分まで食べておきます」
シフリーナは、彼女には到底無理であろうことを言って頷いた。




