偽装だった婚約を、本物にしたいと思います。③
「それは、どういう意味でしょうか」
固い声でウーシェダが尋ねた。
「とりあえず場所を変えて、お茶でもしながら話しましょう」
ニケに誘われ、いったん廊下に出た四人はすぐ隣の彼女の執務室へと移動した。
窓際の大きな机、その前には向かい合わせにソファが並ぶ。壁一面の本棚には軽く見ただけでも見かけたことすらない本が並び、シフリーナの意識はついそちらへと向いてしまう。
ソファに腰掛けると、すぐにお茶が出され、テーブルいっぱいに焼き菓子が並んだ。
「どうぞ。遠慮なさらないでね」
ニケに勧められて頷くものの、シフリーナはまだ菓子を食べられない。
昨日初めて、ダリアンが薄いスポンジ生地でクリームを挟んだサンドイッチを作ってくれて、お茶の時間に食べてみた。
パン以外で挟むサンドイッチは少し不思議な気がしたけれど、バニラの香りのするそれはとてもおいしくて、しかもそれを食べるシフリーナのことを皆が笑顔で見つめるものだから、気恥ずかしく、けれどとても楽しい気持ちで食べることができた。
「甘い物はお嫌いかしら?」
「あ、いえ。……はい」
こんな場で食べられる物について語るのも憚られたシフリーナは、曖昧に頷いてティーカップに口をつけた。
「先ほどのお話ですが。ご説明いただいても?」
「そのままの意味よ。当分このままシフリーナさんは魔法塔でお預かりするわ」
何が起きているのか、今ひとつ状況が飲み込めないシフリーナは、まずは会話に耳を傾けることにした。
向かいに座るアグリは腕を組み「ま、そうなるわな」と息を吐いた。
「お前だってわかってるんだろ? シフリーナ嬢の今の状況はあまりに危うい」
アグリがそう言うと「しかし、だからと言って」とすかさずウーシェダが不服の声をあげた。
「ウーシェダ・ファート。まあ落ち着きなさいな。ずっと帰さないと言っているわけではないのだから」
ニケはそう言って小さなマドレーヌを摘まみ口に入れた。
彼女の目がぱっと輝く。
甘い物が好きなんだな、と思いながらシフリーナも口を挟んだ。
「帰ってはいけないんですか?」
「シフリーナ嬢はあの魔法陣を見たのが初めてだと言っていただろう?」
答えたのはアグリだ。
「はい」
「ウーシェダですらそうだったはずだ。違うか?」
「……ええ」
特級魔法師である彼が見たことのない魔法陣。それはシフリーナにはとても意外なことだった。
多くの知識に触れ、シフリーナが行き詰まって質問すれば、わかりやすくかみ砕いて教えてくれる。そのウーシェダですら、見たことのない魔法陣がある。
『魔法』という奥深さを思い、こんな状況だというのにシフリーナは少しワクワクしてしまった。
「シェダ様でも見たことのない魔法陣があるなんて、すごく意外です」
「ウーシェダだけではないわ。あれは、基本的に直接の担当にでもならない限りは、目にすることが許されない魔法陣なの」
「え……」
許されないものを見てしまった。それが問題なんだろうか。
困ってウーシェダの方を見ると、彼は唇を引き結び、相変わらず固い表情のままだ。
「見たことが悪いと言っているわけではないの。ただ、あの魔法陣をいつでも誰でも見られるようにしておくことで、研究されてしまったら困るでしょう?」
罪を犯した魔法師を拘束するためのものだと聞いた。そういう魔法師を護送したり、拘束しておくための魔法陣。たしかにそんなものが当たり前に世に出回り、今回のように悪用されることがあってはならないし、対処方法を研究されてしまえば魔法陣そのものが意味をなさなくなる。
「私が……魔力もないのに魔法陣を使えなくする方法を、見つけてしまったから、ですか?」
「まあ、端的に言えばそうだ」
「でも、あんな誰でも思いつくようなのを……」
シフリーナがそう言った途端、三人の視線が集まった。
「……え?」
なにか失言をしただろうか。
カップを置いて「申し訳ございません。私、何か失礼なことを言ってしまいました、ね。すみません」と小さくなって謝罪するシフリーナに、ウーシェダの手が伸びてくる。
「そうじゃない、シフル。君は悪くないから、謝ることはない」
軽く背中を叩いてくれたウーシェダに、アグリが困惑を浮かべて問う。
「ウーシェダ。これはどういう……?」
「まず前提として、魔力のない彼女は、自身で魔法陣を起動することはできません。彼女は様々な魔法陣を考案していましたが、それらをすべて空想だと思っていたんです」
「空想って……おい……。いや、試したことくらいはあっただろ。家族とか、学校とか魔法師はいくらだって……」
「アグリ様は既存理論から外れた魔法陣を、それも魔力ナシの人間が差しだしてきたらどう考えますか?」
「……」
「俺が講師として学校に行った時、教師たちは実技のできない彼女を持て余すばかりでした。実際彼女は三度目の一年生でした」
「つまりシフリーナさんは、ご自身がどれだけすごいことをしているのか、理解できない環境だった、ということでいいかしら?」
シフリーナは会話の行方に耳を傾けながら、まるで他人の話を聞かされているような気がしてきていた。
七賢人が「すごい」という、それほどのことをしただろうか。
確かに、魔力もないのに魔法陣を無効化することに成功したのは、すごいことのような気もする。けれど、それができたのは、犯人たちが魔力のないシフリーナを警戒しなかったからに過ぎない。
「仰る通りです。この旨は報告書にも記載したはずですが?」
「ええ。だから、貴方が婚約者可愛さに出仕を渋っているわけではないということは、それなりには理解していたつもりだったの。でも、ここまでとは……」
沈黙が落ちる。深刻な顔で視線を落とす三人に、シフリーナも何を言っていいものかもわからず一緒に黙り込んだままでいた。
「……なおさら帰せないじゃないか」
沈黙を破ったのはアグリだった。
「本人が自分の特別さを理解してない以上、話していいことの線引きすらできないってことだろ? 今後、こんな調子で既存の魔法陣をどんどん無効化されてみろ。理論院は面白がるかもしれないが、実務院は大混乱だ」
「……私、そんなことしません」
無闇に必要な魔法陣を描き変えてまわるような人間に思われているんだろうか。
そう考えたシフリーナは、しょんぼりとした声でささやかに抗議した。
「アグリ、言葉に気をつけなさい。シフリーナさん、私たちはもちろん貴女のことをそんなふうには考えていないわ。むしろ、だからこそ、心配しています」
「心配……」
「ええ。貴女の魔法理論の理解は素晴らしいわ。ましてや、既存理論を取り込みながら、書き換えることができるほどの者は、この魔法塔にもいないの。まずはそこを理解して」
ニケの翡翠色の瞳を見つめる。諭すような眼差しに、シフリーナは「はい」と顎を引いた。
本当は、そこまでのことだとは、今この瞬間にも思えない。それでも、まずはそこを受け止めないことには、事態が動かないことは理解できた。
「私たちは貴女の人となりをまだ充分には理解できていないし、貴女の理論も把握できていません。それに、シフリーナさんがもしも悪意ある人間に連れ去られるようなことがあれば、起こりうる被害は到底想定できないわ。だから、体制を整えるまで少しの間、魔法塔からは出ないでほしいの」
「……長老も、ご了承済みなんですか?」
ウーシェダが固い声で尋ねると、ニケはすぐに頷いた。
「今回の件は私に一任されています」
「帰っては……いけないんですね」
目を伏せたシフリーナは、もやもやとした気持ちを抱えたまま呟いた。
魔法塔は、憧れていた場所だ。けれど、魔力なしの自分が入ることなど許されないはずの場所でもあった。ただ、まさかそこに閉じ込められるようになるとは思いもよらず、やっぱり事態がよく飲み込めない感じも残る。
「別に牢に入れようって話じゃない。客室で、護衛をつけて、まあどこでもご自由にとはいかないが……なあ?」
アグリが同意を求めると、ニケも「もちろんです」と請け負った。
「ウーシェダが出仕している間は、彼の執務室に行けば会うことはできるわ。それと……そうね、退屈しないように図書館くらいなら」
「えっ!?」
シフリーナはすかさずニケを見る。驚いたように見開かれた翡翠色が、すぐに和やかに細められた。
ウーシェダが盛大な溜息を落とし、眉間に手を当てている。
どうしたのかと目線をやると「君、今、図書館に入れるなら塔に残ってもいいと思ってるだろう?」とひどく嫌そうな顔で言われてしまう。
「シェダ様、すごい。どうしてわかったんですか」
ふふと笑ったニケは、更に魅力的な提示をする。
「他の魔法師が立ち入らない朝の決まった時間なら、図書館の利用を許可します。それと、このフロアにある私たちの専用書庫はいつでも好きに利用していいわ。だから、しばらくの間、ここに残ってもらえるかしら?」
「はいっ」
シフリーナの返事に、ウーシェダだけが再び深い溜め息を落とした。




