第五話
シフリーナをこの邸に迎えてから三週間が過ぎた。
魔法塔とウーシェダの邸とを行き来させているオルセには申し訳ない限りだが、これまでの理論体系とは異なるシフリーナの魔法陣に触れる時間を多くとれる今の日々は『魔法』が『仕事』になって久しいウーシェダにとって、新鮮で楽しい。
今、ふたりは一日の大半を書庫で過ごしている。
シフリーナが、いっそ書庫で寝起きがしたいと言い出したのは先週のことだ。
効率を考えれば悪くない考えにも思えたけれど、それについてマーサに伝えると「婚約者をデートにも連れて行かない上に、ますます書庫から出さないようにしてどうするんですか」とウーシェダが小言を言われる羽目となった。
たしかに、魔法塔に出仕するウーシェダと違い、シフリーナは邸を出ない。
自室で起きたら、夜まで食事を摂る時以外はひたすら書庫で過ごしている。
いくら本人がそれでよくても体には悪そうで、朝食前のひととき、ふたりで庭を散歩するという習慣が最近加わった。
同時に、書庫に元々あった机や椅子とは別に、シフリーナが気軽に寝そべることができるように大きめのソファーとその高さに合わせた小さなテーブルも置くこととなった。
今もシフリーナはソファーに寄りかかり、熱心に本のページをめくっては時々何かを紙に書き付けていた。
「今は何を?」
仕事を届けてくれたオルセがシフリーナに視線を向けたまま、ウーシェダの向かいに腰掛けた。
「行政関連、特に役所にある魔法陣を学んでいる」
「なるほど。それはいいですね」
役所で来訪者向けに設置されている魔法陣は、来訪者の魔力の強弱に関係なく起動する必要がある。さすがに魔力なしではどうにもならないが、少ない魔力でも目的を達成できるようによく考えられたものだ。
シフリーナはこれまで、何をどう組めば自身の目的を達成できるか、という一点のみで理論を組み上げてきた。
既存の魔法理論の範囲内とはいえ、効率性を追求した場合、魔法陣の記述がどう変化するのかを知ることは大いに役に立つはずだ。
「出がけにニケ様に行き会いました。七賢人の皆様は、いつシェダ様が婚約者を見せてくれるのかと最近会議のたびにその話になるそうです」
ニケは七賢人のひとりだ。
見た目はおっとりとした温和な女性だが、実のところ仕事に対して恐ろしく厳しい。
仕事ぶりをどうこう言われるほど疎かにはしていないつもりだが、彼女の言葉を額面通りに受け取っていいものかは少々悩むところだ。
「議題に事欠くほど暇だから、というわけでもないだろうな」
ウーシェダが苦笑すると、オルセは呆れたように息を吐いた。
「皆、貴方の前で殊更に言わないだけで、魔法塔のもっぱらの興味は、なぜ貴方が出仕を渋るほどにシフリーナ様を溺愛するに至ったか、ですよ。シフリーナ様が絶世の美女なのではという話も出ています」
「シフルは美人というよりも可愛らしいタイプだろう」
ソファーに視線を投げて言ったウーシェダに「はあ」とオルセの生返事が返る。
「それで、魔力なしの件は? 広まっているか?」
「ええ。だから尚更、魔力の有無など気にならないほど美人なのだろうという派閥と、魔力がないところが可愛いのだろうという派閥で分かれています」
どんな派閥だよ、とウーシェダは思わず吹き出した。
「熊は何体ほどになりましたか?」
「同じ魔力量で四体まで動かせるところまではきたな」
「同じ、ですか。欲を言えば、あの半分まで下げられないと、中級魔法師でも起動は難しいでしょうね」
「そもそもが魔力量を一切考慮せずに積み上げてきた理論だからな。仮にシフルに魔力があれば、初期段階でこれは起動しないものだと諦めていた可能性もある」
「それはあり得ますね。あの魔法陣を塔の見習いたち、なんなら魔法師や中級魔法師に見せても、恐らくは自身の力不足で起動できないとは考えないでしょうしね」
「まあ、今は俺やオリが、起動して試してやることができるからな」
「塔には、どの段階で報告をお考えですか?」
シフリーナの魔法陣は、理論としては既に成立している。たとえば今日にでも塔に持って行けば、審査にかけられるだろう。そして、審査を通ることも充分想定の範囲だ。
問題は、それを考案したのが魔力を持たない者だというところだ。
魔法塔は、魔力を持たない魔法師など想定していない。ましてや、魔力を持たない者が、魔法について新しい理論を考案できるなどウーシェダとて考えてみたこともない。
それに加えて、学校でのシフリーナの様子だ。魔力がある者だけが入学を許された場所で、魔力のない彼女がどんな日々を送ったか。
どれほど素晴らしい理論を携えていても、それを周囲がどう受け取るかは今の段階では想像もつかない。
研究だけならばこの邸でもできるし、シフリーナも楽しそうにそれに打ち込んでいる。だから尚更、ウーシェダはこの先を決断できずにいた。
「なんにせよ、七賢人に一度話を通す必要はあるだろうな。そこから長老だ」
こういう時、使うべきは権力と決定権を持つ者だ。上層部を味方に引き込み、シフリーナの安全を確約する。話はそこからだ。
「では来週あたり、内々での面談を打診しておきましょうか?」
「そうだな。できれば全員揃っている場がいい」
「皆さんシフリーナ様に会いたくてたまらずに待ち構えていますからね。当然、全員お揃いになられる想定になります」
オルセの言葉に、ウーシェダは嫌そうに顔をしかめつつも「悪いがそれで頼む」と言って、再び楽しそうに本を読むシフリーナへと視線を移した。
その日の昼食。
オルセも一緒にと誘ったが、彼は食事を共にすることなく魔法塔へと帰って行った。
今日も食卓に並ぶのはサンドイッチとスープだ。
今日は好きなものを挟んで食べる趣向らしく、目の前には肉や海鮮、野菜や果物、様々なクリームやジャムが並べられている。ここ最近、邸では目にすることもなかったパスタも、パンに挟みやすいように少し短めに切り揃えられて皿に並んでいた。
ダリアンが、残してもいい、くれぐれも無理をしないようにとシフリーナに言い含めるのを見ながら、ウーシェダも食材に手を伸ばす。
邸に来た当初よりも多少は食べる量が増えたシフリーナだが、それでもまだまだ食が細い。そのうえ、ウーシェダが出仕している日の昼は、何度呼びに行ってもなかなか書庫から出てこないため、きちんと食べてもらうのは一苦労だとマーサがこぼしていた。
そのシフリーナは、食事を始めて間もなく、ちらちらとこちらに視線を寄越す。
「どうかしたか?」と水を向けてやると、彼女は言いにくそうに口を開いた。
「シェダ様はサンドイッチがお好きですか?」
「別に嫌いではないな」
「その……シェダ様は魔力があるのだから、サンドイッチ以外も召し上がっていいんじゃないでしょうか」
確かに、この三週間、邸での食事はずっとサンドイッチだ。パスタとて、今日久しぶりに見たくらいだ。
ならばこの食事にウーシェダが不満を感じているかといえば、そんなこともない。ダリアンの腕前は確かなもので、パンも具材もそれなりのバリエーションで供されているし、そもそもウーシェダはそこまで食に拘りはない。
なにより、今のシフリーナに大切なのは、同じ食卓で、同じものを食べるということだろう。そう考えて、ダリアンにもそのように指示をしたのだ。
シフリーナの言葉に軽く眉をあげたウーシェダは、少し考えてから口を開いた。
「俺は今の食事にこれといって不満はないが、魔力の有無で食べていいものが制限されるという考えについては、どうかと思うぞ」
アイトリア家がおかしいのだと暗に告げると、シフリーナは困ったように目を伏せた。
「でも、私は食べる資格がないんです」
「魔力がない者は食べるなとでも?」
「魔法が使えるまで食べてはいけない、と」
「なんてことを! 食べなきゃ死んでしまうじゃないですか!」と声をあげたマーサに、シフリーナが苦笑する。
「そうなんです。だから、いつも兄がこっそり部屋まで持ってきてくれて」
ウーシェダはアイトリア邸で見た、兄妹の手慣れたやり取りを思い起こす。
「それがいつもサンドイッチだったのか」
「そうじゃないとお皿が増えてしまうので」
ウーシェダはもうため息しかでない。
おそらく、サンドイッチを口にしているだけマシなのだろう。本当なら、食べることそのものを忌避するようになっていても不思議ではない。
考え込むウーシェダに、シフリーナが遠慮がちに口を開いた。
「本当は……私も頭ではわかっているんです。魔力がなくても、食事をしてはいけないなんてことはないって。でも、なんとなく食べてはいけないと思えてしまって」
「無理をすることはない。ただ、魔力があるかどうかなんて、その人間のほんの一面でしかない」
そう言いつつも、シフリーナの育ってきた環境が魔力の有無こそを重視していたこともよくわかっていた。幼い頃から刷り込まれてきた価値観は、そう簡単に変わるはずもない。
掛ける言葉を見つけられず「俺は……君と一緒に食事をするのは楽しい」と言ったウーシェダに、そっと顔を上げたシフリーナが微笑んだ。
「私も楽しいです。それに、ここでの食事は、とてもおいしいです」
シフリーナの言葉に、ダリアンが「まだまだお出ししたいレシピはたくさんありますからね。期待なさっていてください」と言うと、「楽しみです!」と返る。
一足飛びにどうにかできることではない。ただ、シフリーナが食事を楽しみ、おいしいと感じているのなら、今はそれでいいのだろう。
ダリアンと楽しげに言葉を交わすシフリーナの笑顔を見つめながら、ウーシェダも知らず笑みを浮かべていた。
午前中にオルセが持ってきた仕事は、この書類で最後だ。
ふと空気が揺れた気がして、ウーシェダは手を止めた。
暗い窓の向こう。雨粒が、窓ガラスを叩き始めている。
書庫は、魔力のないシフリーナに合わせて、ある程度の温度を保てるように魔法石を置くようにしている。それでも、夜、こうして雨が降り出せば多少は冷える。
「シフル、今日はもう……」
切り上げないか、と言いかけたウーシェダは、その光景に苦笑してしまう。
シフリーナは眠っていた。肘掛けにもたれ、自身の腕を枕にすやすやと寝息をたてていた。
サイドテーブルに置かれた紙面は、魔法陣と添え書きで埋まっている。
先日、ふたりで役所を訪れた時、一瞬しか見られなかったと言っていたあの魔法陣を、本の中から見つけたらしい。
記述の分解、それから、再構築の検討をくり返したらしく、いくつかのパターンを書きかけてはやめたのが見て取れた。
「……シフル?」
控えめに呼びかけてみたものの、眠りが深いのか身じろぐ気配すらない。
この邸に初めて連れてきた日、バルコニーで眉を下げて「いざという時、逃げるのが難しそうです」と言っていたのが思い出される。
そのシフリーナが、こうしてうたた寝できるほどに安心できているならば、それは喜ばしいことだ。
ウーシェダは彼女を部屋に運ぶべく、そっと抱き上げる。
ん、と身じろいだ腕の中のシフリーナは、それでも目を覚ますことはなかった。
「信頼しすぎだろ……」
ウーシェダの呟きも、今のシフリーナの耳には届かず、ただ健やかな寝息が返るばかりだった。




