第四話
アイトリア邸でも魔力がないと動かせないものはあったけれど、使用人や客が魔力を持たないことを想定した仕様だったため、生活に支障が出るということはなかった。
学校でも、温水の供給などある程度は学校側が一括管理しており、生徒が授業以外で個別に魔法を要する場面はそう多くなかった。
ところが、ヴァンリンドゥでは、魔力がある前提でなにもかもが存在する。
ウーシェダ邸では、照明に始まり、鍵の開け閉め、空調、風呂の温水調整などですら魔力がないと動かせなかった。すぐに魔法石を使って動かすなどの代替手段を用意して貰えたが、役所に手続きに行くと聞いたシフリーナは、今度は何に魔力を要するのかと期待と心配半々だった。
そして今、石版の前で立ち尽くしている。
今日は朝食を済ませるとウーシェダと共に、ヴァンリンドゥの役所へと足を運んだ。
この国に、魔法師の婚約者として居住するための『特例家族資格届』の手続きを行うためだ。
書類に名前などを記入するまではよかったが、案内された先には群青色の大きな石版があり、そこに手を置くようにと言われて戸惑う。
先ほどの書類にも、魔力の有無について丸を付ける欄があり、魔力がないことは提示済みだ。
「あの、……私、魔力ないんですけど、大丈夫ですか?」
恐る恐る尋ねると、役所の人間が説明する前に、背後で小さく笑う気配がした。
「大丈夫だ。俺も一緒にやるから問題ない」
ウーシェダがそう言って、背後から石版に掌を置く。シフリーナもそれに倣って、おっかなびっくり掌をつけた。
ひんやりとした石版が徐々に熱を帯びる。やがて、シャンと鈴のような音が鳴り、一瞬だけ魔法陣が浮き上がってすぐに消えた。
「はい。お手続きは以上で終了となります。お疲れ様でした」
係の人に促されて掌を離すと「行くぞ」とウーシェダがシフリーナの手をひいて歩き出した。
「これで登録できたんですか?」
「ああ。これで君も、晴れて正式にヴァンリンドゥの住人だ」
ウーシェダの言葉に、じわじわと嬉しさが湧いてくる。
同時に、先ほど一瞬しか見られなかった魔法陣が気に掛かった。
「シェダ様、さっきの魔法陣、一瞬しか見られませんでした」
小さく訴えると、ウーシェダがクッと笑いを漏らす。
「うちの書庫に、載ってる本があったはずだ。読んでみるといい」
安堵したシフリーナが頷いて見せると、ウーシェダがゆっくりと歩き出す。
今日は午後から来客がある。必要な買い物だけ済ませたらすぐに帰らなくてはならないと詫びられたが、魔法塔の魔法師と話ができるというだけで、シフリーナは楽しみで仕方なかった。
その男が邸にやってきたのは、ウーシェダとシフリーナが昼食を済ませて少しした頃のことだった。
ウーシェダよりはほんの少しだけ背の低い彼は、オルセ・ベリーゼと名乗った。
赤銅色の短い髪に、同じ色の目。シフリーナのひとつふたつ歳上かと思いきや、ウーシェダと同じ二十八歳だと聞いて驚いてしまった。
ウーシェダに促され、三人で書庫へと移動する。
この邸の書庫の広さ自体は学校の図書室と大差ない。ただ、吹き抜けになっている高い天井まで本で埋め尽くされており、それもまた魔法が使える想定の造りだ。
昨日帰ってきたウーシェダに、上の方の棚の背表紙が見えないから本のリストがあると助かるかも知れないと伝えると、いっそ全部の棚を巡れるような螺旋回廊を設置したらいいだろうかと言い出したので、シフリーナは全力で止めた。
大がかりすぎて申し訳なかったし、最長でも二年しかいない自分のためにそこまでしてもらう必要もないと思ったからだ。
結局、とりあえずは危なくない高さの脚立を用意してもらって様子を見るということで落ち着いた。
「先に言っておくと、こいつは今回の婚約が偽装だと知っている。だから細かいことを考えずに話して大丈夫だ」
「えっ!? ……あ」
驚きのあまり声をあげてしまったシフリーナは、はしたない振る舞いだったかと口に手をあてて、気まずい思いで向かいに座ったオルセを見る。
「可愛らしいですね。こんなに可愛い女性がお相手なら、私がその役をやりたかったくらいです」
オルセはそう言って笑うと、ティーカップを持ち上げて口を付けた。
ティーカップの前には、今日買ってきた小さな熊のぬいぐるみが三体と、昨日シフリーナが魔法陣を描いた紙が数枚置かれている。
「仮にも『婚約者』の前で口説くとはいい度胸だな」
隣に座るウーシェダが言うと、オルセはすぐに「仮でしかないんだからいいでしょう?」と肩を竦めた。
「魔法塔でも女性を寄せ付けなかったあのウーシェダ・ファートが、ようやく婚約したという話題で持ちきりですよ」
「……ご迷惑をおかけしまして」
小さくなって目を伏せると「別に迷惑はかかってない」とすぐにウーシェダが否定するので、その表情を見てから、シフリーナはゆるゆると細く息を吐いた。
「早速だが本題に入ろう。まずはその魔法陣を見てくれ」
ウーシェダが促すと、オルセがその紙を持ち上げて、一枚一枚丹念に見つめる。
ウーシェダはシフリーナの描く魔法陣に間違いはないと言う。けれど、当のシフリーナ自身は、どうにもそれが信じられない。
シフリーナが魔法陣を描く時、持ちうる知識の中で『これならきっと連結できるのではないか』という組み合わせを考えて記述している。けれど、それが従来の魔法理論とは異なっていることは理解していた。
こうなったら面白い。これを組み合わせることができたら、きっと楽しい。そう考えて描いていただけで、それが単なる空想でしかないこともよくわかっていた。
ウーシェダはその『空想』をシフリーナの考えた通りに起動してくれたけれど、それは特級魔法師たる彼だからできただけで、きっと足りない何かを補ってくれたからこそ起動できたに違いない。
それなのに、こうしてまた魔法塔の魔法師に『空想』をまじまじと見られるのは、なんとも気まずい心地になる。
「起動してみても?」
オルセの言葉に、ウーシェダの方を見たシフリーナは、彼が頷くのを確認してから「はい」と答えた。
オルセが一枚の魔法陣を正面に置いて、魔力を込めていく。
魔法陣は淡い橙色の光を帯びていく。
やがて、ぬいぐるみが三体ともぴょこりと立ち上がった。
動いた、と思う。シフリーナが思い描いた通りの動きだ。
既存の魔法理論の中にも、人形を動かす魔法陣はある。望む動きを組み入れて、その通りに動かす魔法だ。けれど、それだと動かせるのは一体の人形までだ。
一魔法一魔法陣の原則の前に、既存の考え方では複数の人形をひとつの魔法陣で操ることはできない。それでもシフリーナは、どうにか複数の人形を動かすことはできないだろうかと考えた。
これならできるかもしれないと考えはしたが、いざ目の前でやられると、信じられない気持ちになってしまう。
「動いた……」
目を瞠り、ぽかんと口を開けたシフリーナの前で二体の熊は、手を取り合ってくるくると動き続ける。もう一体はその傍らで体を揺らしてリズムを取るような動きをする。
数小節ほどのワルツを踊った熊たちは、そのままぱたりと転がって動かなくなった。
「重っ! これは確かに重いですね」
オルセの声も耳に入らない。
動いた。シフリーナが思った通りに。
「すごいです! 動きました! オルセ様すごいです!」
目を輝かせるシフリーナに、オルセもウーシェダも顔を見合わせて苦笑を浮かべた。
「すごいのは君だよ、シフル」
「しまったな。起動する前に写しを作っておくべきでしたね」
魔法陣は起動し終わると消えてしまう。
魔法陣が描かれていたはずの白い紙面に視線を落として眉を下げるオルセに、シフリーナは「描きましょうか?」と尋ねた。
すぐに用意されたペンを手に、シフリーナは迷いなく記述していく。
どう描いたらいいか迷っている段階と違って、一度自分なりに完成形として仕上げたものだけに、するするとペンを走らせることができる。
「どういう考え方か説明いただいても?」
「もちろんです」
シフリーナの魔法陣は、いわば部品の組み込みだ。
時計の中にいくつもの歯車が組み込まれているように、様々な役割分担をさせた小さな魔法陣を埋め込んでいくようなイメージだ。
ただ、複数の魔法陣を単に並べて描いているわけでもない。それぞれの属性と動きそのものをすべて分解してから、相互作用を加味して編み込んでいく。
「なるほど。今描いているのが、動く速さを制御している部分で合っていますか?」
「そうです。すごいですね、どうしてオルセ様もこんなデタラメな記述から、正しいことを読み取れるんですか?」
「え……」
絶句したオルセに、どうしたのかと顔をあげたシフリーナは首を傾げた。
「シフル。前にも言ったが、君の描く魔法陣はデタラメなんかじゃない。単に既存の理論に収まっていないだけで、正しいものだ」
「でも……」
子どもの頃、初めてそれを思いついて描いてみた時に、すぐに父に見せた。
褒めて欲しかったわけではない。ただ、その思いつきはとても面白いことのような気がして、厳しい父も笑ってくれるかもしれないと考えてのことだった。
父には、魔法陣の基本もわかっていないのかと怒られたし、兄は起動を試みてくれたけれど動かずに、やっぱり自分の思いつくものはただの空想なのだとがっかりした。
それでもやめることなく続けたのは、正しい魔法陣も間違った魔法陣も、どちらにしてもシフリーナには起動できなかったからだ。
どうせ動かせないものならば、自由に楽しく描いたほうがいい。そう思ってのことだった。
「君の兄上の階級は『魔法師』だったか?」
「はい。でもあの頃はまだ見習いですらなかったです。兄も魔法学校の入学を控えていたくらいだったと思います」
「それでは起動できるわけないですよ。この魔法陣を動かせるのは上級以上、それもそれなりに魔力が潤沢でないと、魔法陣に魔力を行き渡らせることすら難しい」
オルセの言葉にウーシェダも頷いた。
「何度でも言うが、君の理論に間違いはない。ただし、必要な魔力量が尋常じゃない」
「魔力量……」
そこはシフリーナが実感しようもない範疇だ。
自分で魔力を流し込んで起動できるならば理解できたのだろうが、魔力のないシフリーナにはどうしたってわからない。
「シフリーナ様。この魔法陣は何をしたくて考えたのですか?」
「……? ご覧いただいた通りです。複数の人形を動かせるかなって。それも同じ動きじゃなくて、違う振り付けで踊らせることができたら楽しそうですし」
オルセは途端に難しい顔つきになった。気分を害してしまったのではとおどおどするシフリーナの前で、オルセはウーシェダに「随分と危ういですね」と言った。
「申し訳ございません。おかしなことを申しましたでしょうか」
「あ、いえ、そういう意味ではないのです。この魔法陣も、シフリーナ様の理論もとても素晴らしいです。ただ、両刃の剣だな、と」
「両刃の、剣?」
どういう意味かとオルセを見つめ、それからウーシェダの方を見た。
シフリーナの視線にウーシェダは、例えば、と口を開いた。
「俺やオリなら、魔法で二体ほどの人形を動かすことは、できなくもない」
「はい」
「でも、それすらできない魔法師が、魔法陣を使うことで複数の人形を、しかも別々の動きで動かすことができたとしたら……まあ既にできているわけだが。それを、戦争で使ったとしたらどうなる?」
胸を突かれた心地で息を呑む。
魔法陣があることで、魔法師なら誰でも複数の人形を兵のように動かせるとしたら、魔法師を多く抱えた国は自国の兵力を何倍に増やすことも容易い。その分、戦争の規模も大きくなる。
つまりはそういうことだ、とウーシェダは肩を竦めた。
「申し訳ございません」
そんなことを考えてみたこともなかったシフリーナは、自分がひどく浅はかに感じて、居たたまれなくなる。
「いや、シフル。どんな魔法も同じだ。活かすか悪用するかは使い手次第だ。ただ……少し規格外過ぎる」
「規格外……」
「いい機会だから言っておく。シフルの理論は間違っていない。でもまだ、他の奴には知られないようにしたい」
それほどのものだろうか、とシフリーナはつい考えてしまう。所詮魔力なしが考えたものに過ぎない。
けれど、ウーシェダの眼差しはどこまでも真剣だった。
「今もしもこの理論を盗もうとする奴が現れたら、君の魔法として保護する術がない。魔法塔が保護できる魔法は、魔法師登録のある魔法師だけが対象だからな」
『君の魔法』。
それは不思議な響きだった。シフリーナに魔力はない。それなのに、それをウーシェダはシフリーナの魔法だと言った。
ピンとこないけれど、なんとなくくすぐったい気持ちになる。
「そう考えると、シフリーナ様との婚約は苦肉の策でしたね。ヴァンリンドゥに住むことができますし、この国の民として最低限守られる」
「あの……魔法を盗むってどういう意味ですか?」
魔法陣に、それを最初に考えた人の名前を書くわけでもない。それを『盗む』というのがどうにもよくわからず、シフリーナは首を傾げた。
「簡単に言えば、称賛や名声を奪われるという意味だ。これだけの理論を発表したら、おそらくは魔法塔で専用の研究室が与えられるだろうな。──……魔力があれば」
結局そこだ。シフリーナには魔力がない。魔力なしは、どれほど憧れても魔法師ではない。
ウーシェダの言っているのはそういうことだ。
「で? オリ。共犯者になる覚悟は決まったか?」
「覚悟も何も、先に巻き込んでおいてどの口が言うんですか」
ウーシェダとオルセとの軽口の応酬に、シフリーナが小さく笑う。
「シフリーナ様」
「はい」
オルセの呼びかけに、シフリーナは思わず背筋を伸ばす。
「貴女の理論は非常に興味深い。ただ、いかんせん使う魔力量が多すぎます。ここからは少し効率化を考えたほうがいいでしょう」
「危険なのに?」
それほど危険なら、効率化して誰でも使えるようになるほうが、ますます危険なのではないだろうか。
「危険だからこそ、ですよ。理論は突き詰めるだけ突き詰めておくべきです。そうすることで、問題になりうることも見えてきますし、対処方法も考えられます」
「まあ、それはこれからおいおいだな。……そのためにも、俺は出仕を控えてでも、シフリーナの研究に力を貸すべきだと思わないか?」
「これを見てしまったら、否とは言えないでしょう。ただ、せめて一日おきくらいには来てください」
「……善処しよう」
ウーシェダがそう言うと、オルセは「埋め合わせ、期待していますからね」と苦笑した。




