温室の町
雪は膝下まで降り積もっていた。
起伏がほとんどなく、木々も生えていないその広大な平野は、連日降り続ける雪によって純白のカーペットが敷かれ、それが視線の、いや地平線の彼方まで続いているようだ。
何キロ歩いても、何日歩いても、ただ真っ平らで白い景色が変わらない。しかし寒さと歩きづらさによって確実に体力は減っていく。
これは死に近づいていく旅だ。水と食料にはまだ余裕があり、簡易的なキャンプセットもあってその時に至るには十分な間があるだろうが、ここを歩き続ける限り私は緩やかに終わりへと歩み寄っていくことだろう。
どこかで引き返すという選択肢もある。何キロも何日も元来た道をただ戻るだけのことだ。食料もギリギリ持つかしれない。しかし、ここまで歩いてきた私の足跡は雪が積もって消えているだろうし、確実に元の町へ帰れる保証は無い。
何より、あの町はあまり私を歓迎している風ではなかった。寒冷地で物資も乏しく、旅人を休ませるゆとりは無いのだろう。追い出されるようにあそこを出て、この雪原に身を投げた末がこの現状だ。
一際、大きな風が吹いた。吹雪が顔面に襲い掛かり、私は手で顔を覆う。
風が収まり、目を開けると、さっきまで見えていなかったものが視界に映った。
建造物のようだった。三角屋根で、横に長く伸びた一軒の建物。意識すればそこに建っていると分かるのだが、雪原の中で、その建物は随分「曖昧な」存在に見える。
その理由については後で調べるとしよう。とにかく今は、雪風を凌げる場所を見つけたことを祝い、そこに直進するのみだ。
建物の間での距離は随分あった。それは思ったよりも大きな施設だった。
そして存在が曖昧に映った理由も分かった。その建物は、ビニールハウスだったからだ。一般的な農家で使用するものよりも、遥かに巨大な。
ビニールハウスと言うからには中で何かを栽培していそうだが、全面が結露で曇って、室内の様子はよく分からない。しかしそれは良いニュースでもある。結露が出来るほど、室温が外よりも高いということだ。
ようやく冷えた手足を温められると私は歓喜し、ハウスの入り口を探した。扉はすぐに見つかり、私は風が止むのを待ってからそれを開き、身を室内に入れるとすぐに閉じた。外気が室内に流入しないための措置だったが、入り口は二重扉になっており、そこまで配慮する必要は無かった。まるで宇宙船や惑星基地のエアロックみたいだと思いながら、私は二つ目の扉を開けた。久々に建物を見つけて気が高ぶっている。
ハウスの中は大きな農園のようなものを想像していたが、それは外れた。大きな葉を持つ植物、空に地面にと縦横無尽に蔦を伸ばす植物、足の踏み場が無いほど地面に根を張る植物と、熱帯に生息するような怪物のような植物が、無秩序に生い茂っていた。
そして、暑い。外が氷点下十度くらいだったのに対し、この中は三十度を優に超えている。湿度も高い。暖を取りたいとは思っていたが、さすがにここまでの寒暖差は求めていない。私は上着を脱ぎ、シャツの袖を捲って汗を拭いた。
まあ暑いというだけで、外の雪原を歩いている時より死の確率は格段に下がった。あまり消費していなかった水筒の中身を沢山飲んで一息つき、歩を進め始めた。
鬱蒼とした草木を掻き分けると、足元にコンクリートの舗道らしきものが見えた。しかしほとんどが根っこに隠れているか、侵食されてひび割れているかのどちらかで、道としての機能はあまり果たせていない。
これほど大規模な施設なら、ここを管理する人間に会えると思ったのだが、先の舗道や植物そのものの手入れがほとんどされていないのを見るあたり、ここは既に見捨てられた場所である可能性が高い。成長した木の先端がハウスの天井を突き破っていないのは幸運なのか、あるいは建物か植物にそうならないための工夫がされているのか、今にも突き破るギリギリのところなのか。
植物にあまり詳しくないのが悔やまれる。久々に自然豊かな場所に来れたというのに、どの草が安全でどの花が危険なのか分からないというのは実にもどかしい。今ちょうど目の前にある赤い木の実なんかは熟していて美味しそうだが、一口食べたらコロリと倒れる可能性がある以上、見るに留めることしかできない。
私は困り果ててしまった。ここにずっと留まっていても食料と水をいたずらに消費するだけだし、ただ通過してまたあの地獄のような雪原に戻るのはあまりにも馬鹿馬鹿しい。なんらかのものを、この場所で得られないものだろうか。そんな漠然なことを考えていると、視界の隅で何かが動いたのを私は見逃さなかった。
最初、木が揺れたのを見たのかと思ったが、ハウスの中で木を揺らす風など起きるはずがないし、それに今の動きは、何か動物的なもののように思えた。それが私の幻覚でないことを祈り、動きのあった方へ向かう。
草木をガサガサガサと掻き分ける音が聴こえる。私の起こしたものではない。やはり何者かが前方を歩いている。私は少し安堵を覚えた。この先に居るのが(善良な)人間であればベストだが、何かしらの動物だった場合も、彼を観察していれば、食べられる植物を見出すことが出来るかもしれない。あるいは彼を食べることになるかもだが。
不意に、前方から聴こえていたガサガサ音が消えた。視線の先では大きな葉が揺れているのが見える。その葉の先に開けた空間があり、音の主はその中へ入っていったのだ。私もその後に続くべく、見た目相応に重い葉を手でどかした。
案の定、そこはいくつかの低木があるくらいで、大きな葉を生やす大木も地面を這う根も無い広い空間だった。だが人影や、動物の姿らしきものは一切見当たらない。
私が入ってくるまでに、既に空間を抜け出してしまったのだろうか。しかし耳を澄ましていたが、新たに草木を掻き分ける音は聴こえなかった。鳥のように翼を持つ生き物で、上に飛んでしまったのだろうかと、私はハウスの天井を見上げた。
その時、私の肩を何かが叩いた。
振り向いてみるが、そこにはいくつかの低木しかなかった。
だが低木だったのだ。
低木が、人間が自分の手足を動かすように、その枝葉を動かして、歩いていた。
私は声を上げその場から飛び退いた。低木はさっき私の肩を叩いた枝を伸ばしたまま、じっと私の方を見つめている。当然顔はないのでそのような気がするだけだが。
低木は五体ほど居て、全員が私の様子を観察している。仮に彼らが徒党を組んで襲い掛かれば私はひとたまりもないだろうが、そうしない辺り、敵意はないのだろうか? あるいは、こちらが得体の知れない相手なので、もっと確実に仕留める方法を模索しているのか。
さっき私の肩を叩いた低木が動き出した。私はいつでも逃げられるよう身構えるが、彼は私に背を向け(それを背中と呼んで正しいのであれば)、広場の向こうへ歩いて行ってしまった。
見逃してもらったのか? と思うのも束の間、低木は立ち止まり、もう一度こちらを向いて、枝葉をゆらゆらと揺らした。私にはそれが、手招きをしているように思えた。
まだ彼らが安全という保障は無いが、このまま展望も無く温室を彷徨うよりはマシだと考え、その手招きならぬ枝招きに誘われることにした。
低木を追って進む未知は歩きやすかった。舗道は先程と変わらずひび割れが多かったが、木の根の浸食は少なく、未知に突き出している枝葉はほとんど無かった。低木達が日常的にここを歩いているためであろう。彼らにとって大事なものが、この先にあるのだ。そしてどういうわけか、私をそこへ連れて行こうとしている。
低木はまっすぐ歩くのではなく、時々立ち止まっては、未知の脇に生える熱帯の植物に指を差すように枝葉を伸ばした。私に何かを説明している風に見えるが、当然彼の言葉や考えは分からないので、私は曖昧な反応を示すことしかできない。
そのようなコミュニケーションを五回ほど繰り返したところで、低木が近くの木から青色の実を上手にもぎ取り、私に差し出した。その動作の意味することはすぐに分かったが、返答には逡巡した。しかしその実が彼の示す信用の形であることを信じ、恐る恐る受け取って一口齧りついた。
お世辞にも上手いとは言えなかったが、食べられない味ではなかった。歩き続けで空腹だった私がその実を丸々食べ尽くすと、低木が飛び跳ねて葉っぱをガサガサと揺らした。どうやらお互いの信用は示せたようだ。
その後も何度が立ち止まって説明を受けたり、低木の差し出す実や草などを齧ったりしながら、私はついに目的の場所へ辿り着いた。
そこには一軒の小さい小屋が立っていた。四角いコンクリート製の建物で、外壁は蔦で生い茂っているが、入り口の扉のところは蔦が取り払われ、問題なく出入りが出来るようになっていた。
低木が小屋の中へ入っていき、私も後に続いた。ハウス全体の暖房装置もそうだが、小屋の中には電気が通っていて、外見よりも中は明るかった。そこはちょっとした病院か、あるいは研究所のような場所だった。いくつかの小部屋があり、部屋の中にはフラスコや試験管などの道具が置かれ、棚には分厚い本が何冊も収められている。しかしいずれも劣化や破損が目立ち、もう何十年もここが使われていないことは明らかだった。
私は一つひとつの部屋を見て見たかったが、先ほど立ち止まってばかりだった低木がここでは一直線にある場所へ向かっているようで、私は慌ててその後に続いた。やがて低木は最奥の部屋、一番立派な扉の前に立ち、それをゆっくりと開いた。
部屋の中央には机と椅子があり、机の上にはパソコンらしきものが置かれ、モニターが煌々と輝いていた。そして椅子には「誰か」が背を預けていたのだが、私はそれを一瞥して手で口を覆った。
椅子に座る人物は完全に白骨化し、来ている服も所々風化していた。亡くなられたのは随分前のようだ。私が立ち尽くしている横を、低木が構わず進んでいき、机の前で立ち止まった。そして枝葉を伸ばして、パソコンのモニターを示した。見ろ、ということか。
私も遅れて部屋に入り、モニターの画面を注視した。見たことのないパソコンの型だったが、操作方法は概ね慣れ親しんだものと変わらなかった。画面には、文書入力ソフトが開かれていて、そこに何十枚に及ぶ文章が打ち込まれていた。
見たことの無い文字だった。今まで言ったことのあるどの町でも使われていない言語で、正直なところ、文書のほとんどは読み解けない。しかし、所々に図面や表のようなものが挿し込まれていて、それを見ることで、先人が何を書き残したか、ある程度の概略を掴むことが出来た。
今の小屋、外のハウスを含めてここは植物の研究所であり、職員はこれを書いた、今椅子の上に座っている彼一人だけだったようだ。彼は何かしらの(おそらくは悲劇的な)理由で仲間たちと別れ、ここでたった一人、植物の研究をしていたようだ。
ここの植物はいずれも人間の生活の益になる種で、驚くことに、木に実る果物はすべて食べることが出来るようだ。この研究所で新たに生まれた植物もある。極めて燃焼性の高い木、薬の材料に効果的な数種類の草花……そして、自立して歩く低木。
多くの研究成果を残したが、職員は高齢となり、やがて死期を悟った。職員に家族や仲間は居なかったが、低木達を始めとした、自身の育てた植物たちの行く末を案じた。
彼は生きている内に、ハウスの管理方法、一つひとつの植物の生育方法を文書に記し、次にここに来る者に後を託すことにした。そして、その者をここに連れてくるよう、死ぬ間際まで低木達に訓練を施した。彼らがたとえ枯れても、次の世代にもその教えを引き継がせるようにした。
そして今、何代目かの低木が、こうして私をこの部屋に連れて来た──ということだ。
私は文書をすべて読むと、隣に立つ低木の方を見た。彼は微動だにせず、次に私が何をするかを、じっと待ち続けているようだ。
気の毒に、と私は思った。
ここに来たのが、才能か責任感のいずれかを持ち合わせた人物であれば、あるいは新天地を求める何十人かの人々であれば、職員の意思は間違いなく受け継がれたことだろう。
だが実際に来たのは、才能も責任感も持たない、孤独な一人の旅人だ。
私はここに何年も居続けることはない。例えここに豊富な食べ物があっても、外が極寒の死の世界であっても、私はここを発ち、また新たな土地へと移っていく。
職員の意思を受け継ぐことは出来ない。
だが、私はあることを果たす義務がある。
私は部屋を退室し、他の部屋を一瞥もせずに小屋から出ていった。低木がその後を追いかけるが、私は手のひらを彼に向け「待て」と命じた。文書に記されていた低木への指示方法の一つだ。彼は大人しく従い、小屋の前でピタリと立ち止まった。
私は元来た快適な道を真っすぐ進み、広場へと入り、広場を抜け、元来た進みづらい道を真っすぐ進んだ。
私が目指しているのは、ハウスの外、雪原の中にある。
入り口の二十扉の前まで戻り、一つ目の扉を開いて、これから流入する寒気が入らないよう、それをしっかり閉じる。二つ目の扉の前で立ち止まり、私は深呼吸をする。そして気合を入れ、その扉を開けた。
突き刺すような寒気が私の身体を襲った。一瞬気が遠くなりそうになるが、歯を食いしばって扉を閉める。
外からハウスの中に入った時もこの寒暖差には参ったが、逆はさらに過酷だ。それに、先ほどよりもさらに風雪が強まったようだ。刻一刻と、自身の命が削れていくような感覚に陥る。しかし、やることを果たすまではハウスには戻れない……は、言い過ぎた。本当に危険だと判断した時は一度戻って、体勢を立て直すだろう。
だが、その必要は無さそうだ。ハウスの外側面を歩いていた私は、積雪から飛び出す一本の黒いコードを見つけた。寒さに耐えながら雪を掘り返す。一メートルほど下に、長方形の機械のようなものを見つけ出した。
これは「発電機」。ハウスの電気を賄っている装置で、一度起動すると三十年は電気が供給されるという代物だ。そして三十年が過ぎる前に装置に付いている紐を引っ張ることで、次の三十年分の電気がハウスに補充される。いずれも先ほどの文書に記されていたことだ。
そして、あの文書を作成した職員の遺体の風化具合から見て、三十年分の電気が間もなく尽きようとしている。だから私はこれを見つけ出した。ここを立ち去る前に、次の三十年のための電気を補充する義務は、私にあるのだ。
身体が冷え込んできた。早いところ発電機の紐を引っ張り、仕事を果たすとしよう。
紐の「取っ手」を掴み、それを力いっぱい引く。だが、紐はびくともしない。この寒気で凍り付いてしまっているのか、単純に私の力が足りないのかは分からないが、発電機が再起動した様子はない。
寒い。外で活動するのも限界が近い。さすがに一度退かなくては。ハウスで暖を取り、紐を強く引っ張る方法を考え……。
手が離れない。
歓喜により手の筋肉が収縮し、紐の取っ手から手が離せなくなっている。もう片方の手で無理矢理こじ開けようとするが、まったく開こうとしない。さらに体温は落ちていく。
なんということだ。いっちょ前に最低限の義務を果たそうと思ったら、発電機の紐も引けず、ここから離れられず、私は無駄死にし、ハウスももうじき死に絶えようとしている。本当に、あの職員が気の毒でならない。自分の命を賭して後続に託した指名が、こんな無能の手に渡って、すべてが台無しになってしまうとは──。
その時、私の肩を何かが叩いた。
振り向いてみると、そこには低木が居た。
ハウスの外に、低木が居た。
私が理解しきれないでいる内に、低木は枝葉を伸ばして私の腕に絡みつき、私の身体を引っ張った。それはすごい力で、私の手が千切れると思ったが、それよりも先に、発電機の紐が強く引かれていくのが分かった。
だが私は発電機のことなど考えていなかった。ハウスの外に出た低木は、雪風に晒されて、その身から何枚もの葉が、茶色く変色して落ちていった。私の腕に絡みつく枝の力も少しずつ弱まっていくことに気付き、やっと私は彼が成そうとしている仕事の手伝いを始めた。
二人分の力によって発電機の紐は完全に引かれ、野牛の唸り声のような音を立てて、発電機が再起動した。私はそれを見届けることなく、いつの間にか取っ手から離れていたその手で低木を抱え、ハウスに向かって走り出した。
結局、「彼」が私と行動を共にしていたあの低木だったのか、あるいは広場で出会った別の低木なのか、あの電源装置を引くために近くに配備されていた低木なのかは、最後まで分からなかった。
植物にあまり詳しくないのが悔やまれる。




