河川敷の再会
プリクラ機の白い光は、やたらと人の顔を盛る。
「はいチーズ! ってかこれ動画だし〜」
高橋たちが、画面の中でピースしたり変な顔したりしてはしゃいでいる。その横で、明日はとりあえず笑っといた。
「神崎、目デカすぎ。事故ってるんだけど」
「うるさい。お前らもほぼ宇宙人だから」
画面に映る自分は、ミルクティー色のセミロングをゆるく巻いて、アイラインばっちりで、制服のブレザーの前をはだけて立っている。
「怖いけど可愛い」「顔だけならマジモデル」って陰で言われるタイプの顔。
でも、さっきからずっと、その顔の奥で、別の何かがざわついてる。
ファミレスの皿洗いの兄ちゃん。
皿の音と、水の音と、「少々お待ちくださーい」の声。
プリクラ機の中のBGMが、うるさいくらいポップな曲を流してるのに、その向こうで、まだ水音が聞こえる気がする。
「はい、落書きタ〜イム!」
ペン選びに夢中な三人を横目で見て、明日はポケットの中のスマホを確認した。時刻は、二十一時過ぎ。
(……ジム、ギリ行けるっちゃ行けるけど)
土曜の夜。会長んとこは、二十三時まで開いてる。掃除と軽くサンドバッグ叩くだけなら、まだ間に合う。
ただ、今日の体は、ボクシングの前に、別のことでくたびれてた。
「神崎、こっちハート描いといて〜」
「……自分でやれば」
「え〜。お前絵うまいじゃん。ノートの落書きヤバいし」
適当にハートと猫耳を描いて、ごまかす。
プリクラを撮り終わって、シールを分けて、駅の改札前で解散になった。
「じゃ、また月曜〜」
「テスト勉強しろよ〜、神崎〜」
「うっざ。お前もな」
高橋たちが、それぞれ違う方向のホームに消えていく。女子三人分の笑い声が遠ざかっていって、駅前の喧噪に飲み込まれる。
ひとり残された瞬間、街の音が一段階低くなった気がした。
スクリーンに映ってる「終電案内」とか、「またのご利用をお待ちしてます」の文字とか。そんなもんは、今のウチにとっては、どーでもいい情報ばっかりだ。
自動改札の横を抜けて、駅ビルを出る。
ショッピングモールのネオンが、背中の方でチカチカ光ってる。人波の流れに逆らうみたいに、商店街から少し外れた道へと足を向けた。
家に帰る気は、ほとんどない。
ジムに行く足も、自然とそっちじゃなくて――
川のほうを選んでた。
住宅街を抜けると、街灯がぽつぽつと遠くなっていく。アスファルトの道が、やがて土手に変わる。踏み固められた土の上をスニーカーで踏むたび、靴底がぐしゃ、と鈍い音を立てた。
河川敷に降りる階段を、一段ずつ下りる。
川の水は真っ黒で、ところどころ街灯の光を反射している。対岸のマンション群の窓が、パラパラと灯ってるのが見える。
虫の声と、遠くの車の音と、川の流れる音だけが、一定のリズムで耳に入ってくる。
制服のブレザーのポケットに手を突っ込んで、息を吐く。髪が、夜風に揺れた。
土手の斜面の、座り慣れたところに腰を下ろす。膝を立てて、その上に顎を乗せる。
「……マジ、何なん」
誰に向かってでもなく、ぽつりとこぼした。
コンビニ。からあげ棒。あの冬の「やめたよ」の一言。
そして今日。ファミレスで、何事もなかったみたいに皿洗いしてた、黒髪の兄ちゃん。
ウチの「初めてちゃんと名前を褒めてくれた人」が、何も言わないで消えて、何も言わないで戻ってきて、また何も言わないで目の前を通り過ぎた。
(……勝手すぎんだろ)
プリクラの光でも消えなかったモヤモヤが、川の冷たい空気を吸って、むしろ濃くなる。
スマホを取り出して、何となくスクリーンを眺める。通知は特に来てない。高橋がさっき送ってきたプリクラの画像が、一番上にあるだけだ。
その下に、古いトーク履歴がスクロールされていく。コンビニの位置情報を送り合った中学の頃のグループライン。もう誰も動いてない。
「……どうでもいいし」
言っても、今日はあんまり効かない。
どうでもよくないことが、あまりにも多すぎる。
川面の方を見て、ため息をついた、そのときだった。
「──お。やっぱり、ここいた」
背中のほうから、聞き覚えのある声がした。
心臓が、ドクン、と変な跳ね方をする。
振り向かなくても、誰の声かはわかる。
何度も何度も、頭の中でリピートしてきた声。コンビニの蛍光灯の下で、「お前さ」とか「明日」とか呼んできた、あのトーン。
「……ストーカー?」
反射で、口が勝手に動いた。
振り向くと、土手の上のほうに、人影が逆光気味に立っていた。街灯に照らされて、後ろから光が回り込んでる。
黒いパーカー。ファミレスのエプロンはもう外してる。髪は黒で、前よりちょっとだけ伸びてる。耳には、小さいピアスが一個。
あの兄ちゃん――先輩が、ポケットに手を突っ込んだまま、こっちを見下ろしていた。
「ストーカーじゃねーし。偶然」
「偶然、ねえ」
鼻で笑ってやる。
「ファミレスのあとに、こんなとこまで偶然?」
「お前がそういう顔してたからだろ」
「は?」
「なんかさ、“このあと絶対どっかで一人になってうだうだする顔”してた」
「……キモ。なにそれ」
「褒めてねーし」
会話のリズムが、中学の頃とほとんど変わってないのが、逆に腹立つ。
先輩は、土手をずりずりと降りてきて、明日の少し斜め後ろに腰を下ろした。距離は、肩がギリギリぶつからないくらい。
沈黙が落ちる。
川の音が、さっきより近い。
「……成長したな」
ぽつりと、先輩が言った。
「身長?」
「それもだけど。雰囲気」
「そりゃ中学から何年経ってんのって話でしょ」
「まあな。ジャージ中二女子だったのが、なんかギャルになってるし」
「“なんかギャル”ってなに。ちゃんとギャルだし」
「はいはい。ちゃんとギャル」
軽くいなされて、むっとする。
横目で、先輩の横顔を盗み見る。
金髪じゃなくなった分、前より落ち着いて見える。頬のラインが少しだけシャープになってて、目の下のクマがうっすらある。疲れてるのか、痩せたのか。
でも、笑ったときの目尻のしわとか、口角の上がり方とか、あの頃と同じだ。
「……なんで」
気づいたら、声が出てた。
「ん?」
「なんで、なんも言わないでいなくなったくせに、なんも言わないで目の前で皿洗ってんの」
先輩が、一瞬だけ言葉を失う。
夜風が、二人の間を抜けていく。川の音が、やけにでかく聞こえた。
「いや、“なんも言わないで皿洗うな”は初めて言われたな」
「ふざけないで」
食い気味に遮る。
自分でもびっくりするくらい、声が尖ってた。
「……びっくりしたんだよ」
膝の上で、握った拳に力が入る。ネイルを塗った自分の爪が、手のひらに食い込む。
「だって、あのとき、“やめるよ”とか“一回いなくなるよ”とか、なんにも言わなかったじゃん」
「……」
「“そんなもんだよ”とか言われてもさ。ウチ、あのコンビニ、けっこう……」
「好きだった」とか、「助かってた」とか。そういう単語が、喉のあたりでうまく形にならない。
代わりに、最悪なワードが飛び出す。
「……けっこう、居心地良かったのに」
言った瞬間、自分で自分にムカついた。
なに素直なこと言ってんの。バカじゃないの。
視界の端で、先輩が目を見開くのがわかる。
「……そっか」
短く、それだけ。
「“そっか”じゃないし」
「ごめん」
また、短く。
謝られると思ってなかったから、今度はこっちが黙る番になる。
先輩は、土手の草を指でむしりながら、ゆっくりと言葉を探してるみたいだった。
「マジでさ。色々あったんだよ、あのとき」
「“色々”って便利な言葉だよね」
「便利だな。大人みんな使ってる」
「自分で言うな」
「でも、ほんとに色々あって……説明すんの、めんどくさくてさ」
ちょっと自嘲するみたいに笑う。
「家、やばかった」
その一言だけで、だいたいの想像がつく。
「借金とかさ。変な先輩とかさ。親とか。……いろいろごちゃごちゃ被って」
川の音にかき消されそうな小さい声で、先輩が続ける。
「コンビニのバイトどころじゃなくなった。店長には一応、“やめます”って言ったけど……お前には、言ってねえな」
「言ってないね」
「ごめん」
三回目の「ごめん」。
謝られるたびに、胸の奥のなにかが、ちょっとずつ形を失っていく感じがする。怒りとか、恨みとか、そういうやつ。
でも、完全には消えない。
「……ウチ、けっこう、勝手に捨てられた気になってたんだけど」
視線を、足元の砂利に落としながら言う。
「父親もさ、なんも言わないでいなくなったし。コンビニの兄ちゃんもそうだし。……大人ってみんなそうなんだなって、思ってた」
「俺、大人だった?」
「当時は“大人枠”だった」
「マジか。責任重大じゃん」
「今さら」
半分、本気。半分、冗談。
先輩が、小さく笑う気配がした。
「責任、取るわけじゃねーけどさ」
「取れないでしょ、今さら」
「そうだな。だからまあ、“ごめん”くらいしか言えねーわ」
さっきから、それしか言ってなくない? ってツッコミかけて、やめる。
「ごめん」って言葉を、ちゃんと選んで出してるのは、わかるから。
コンビニの店長の「そんなもんだよ」よりも、ずっと、こっちに届く。
「……つかさ」
先輩が、ふいに話題を変えた。
「お前、あのファミレスでさ。なんで声かけてこなかったの」
「は?」
「いや、普通に気になるだろ。あんだけジロジロ見といて」
「見てないし」
「見てた」
「見てないし」
即答で否定しても、先輩の口元がニヤッとする。
「テーブルの女子にイジられてるの、丸聞こえだったからな。“神崎、顔だけならモデル”とか、“顔はいいのに中身が〜”とか」
「うっざ……」
あの会話、ぜんぶ聞かれてたと思うと、死ぬほど恥ずかしい。
「で、“顔はいいのに、中身が”ってのは、まあ合ってるよな」
「は? 殴るよ?」
「ほら怖い。……でもさ、中身もそんな悪くねーよ」
さらっと、そういうことを言う。
「なにそのフォロー。雑すぎ」
「雑でもいいだろ。お前、中坊のときから、筋は通してたし」
「どこが」
「“からあげ棒、万引きじゃない?”ってちゃんとツッコんでくれる中坊、そういねーよ」
「レベル低……」
くだらない会話に、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
そうやって、わざと軽い話題に戻してくれるのが、この人のずるいところだ。
沈黙が落ちる。さっきより、ずっと静かな沈黙。
川の音と、虫の声と、遠くの車の音だけが、淡々と続く。
先輩が、ポケットからタバコの箱を取り出しかけて、ウチの視線に気づいて、やめた。
「……やめたの?」
「ん?」
「タバコ」
「ああ。やめた。金かかるし、体力落ちるし」
「へえ。意外」
「意外ってなんだよ。俺、今真面目な皿洗いだからな」
「“真面目な皿洗い”って肩書きやば」
「バカにしてんだろ」
「してないし」
ちょっとだけ、本当にしてない。
皿洗いでもなんでも、ちゃんと仕事してるってだけで、ウチからしたら充分「大人」だ。
「……でさ」
先輩が、ふいに真面目な声に戻る。
「お前、今、どこまで行ってんの」
「は?」
「学校とか。家とか。……ボクシングとか」
最後の単語で、心臓がまた一回、変な打ち方をした。
「なんで、ボクシング」
「いや、お前、あのときからケンカっ早そうだったし」
「してないし」
「してそうな顔はしてる」
「失礼」
ごまかそうとしたけど、先輩の目は、笑ってなかった。
「お前さ。中坊のとき、よく手にバンソーコー貼ってたじゃん」
「……覚えてんの、それ」
「覚えてるよ。レジで小銭渡すとき、いつも拳見えたし」
中学の頃、家の壁殴ったり、机殴ったりして、よく拳を痛めてた。その名残。
「今も、なんか殴ってんの?」
ストレートな問い。
少し迷ってから、うなずいた。
「……殴ってる」
「どこで」
「近くのジム」
言った瞬間、先輩の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「やっぱりな」
「“やっぱりな”ってなに。エスパー?」
「雰囲気でわかるっつーの。……あそこの町道場?」
さらっと、具体名を出された。
明日の心臓が、今日一番でかい音を立てる。
「……なんで知ってんの」
「俺、前、あそこにいたから」
空気が、一瞬止まった。
「は?」
「ちょっと前まで、あそこでグローブはめてた側」
先輩が、土手の向こうをぼんやり見ながら言う。
「お前の会長、まだ腹出てる?」
「出てる」
「だよな」
何でもないことみたいに笑ってるけど、その目の奥に、一瞬だけ影が落ちたように見えた。
「まあ、その話は、また今度でいいや」
先輩は、自分で話を切る。
「今は……そうだな」
こっちに顔を向けて、ほんのちょっとだけ真剣な声で言った。
「とりあえずさ。あんま簡単に、“どうでもいい”って言うな」
「……は?」
「さっきから聞いてるとさ。お前、“どうでもいい”って言葉で、けっこう大事なとこ包んでんじゃん」
図星を突かれて、言葉に詰まる。
「学校だって。“別に卒業とかどうでもいいし”って顔してるけど、本当は違うんだろ」
「ちがわないし」
「ちがうだろ」
静かに、でも強く。
コンビニで初めて会ったときと、同じ「ちゃんと見る」目で、こっちを見てくる。
「卒業証書くらい、持っとけ」
どこかで聞いたフレーズ。
ジムの会長と、同じことを言う。
「……なんで、みんなそれ言うの」
「みんな?」
「ジムのオヤジも言ってた。“卒業証書くらい持っとけ”って」
「あいつ、相変わらずだな」
先輩が、苦笑いする。
「別に。卒業証書あったって、電気代は安くならないし。父親帰ってくるわけでもないし」
「そうだな。電気代は自分で払うしかない」
あっさり肯定されて、むしろムカつく。
「じゃあなんで」
「“退学しました”って紙よりはマシだからだよ」
即答だった。
夜風が、一瞬止まった気がした。
「世の中の大人、そういうとこしか見ねーからさ。“高卒”か“中卒”か。“退学歴あり”か“なし”か。そこだけで勝手にフィルターかけてくる」
先輩は、土手の草をまた一本むしる。
「俺もさ、そのフィルターでけっこう損した側」
「……」
「だから、せめてお前には、意味わかんねー理由でフィルターかけられてほしくねーんだよ」
そこまで言ってから、少しだけ照れたみたいに頭をかく。
「ま、大きなお世話だろうけど」
大きなお世話、って言っとけば、なんでも許されると思ってんのか。
「……別に」
それでも、いつもの言葉しか出てこない。
「別に。大きなお世話とかじゃ、ないけど」
その先を言おうとして、やめる。
「どっち」
「どっちでもいいし」
「便利ワード出た」
「うるさい」
いつのまにか、さっきまで胸の中でぐるぐるしてた「勝手にいなくなったくせに」って怒りは、少しだけ形を変えてた。
完全に消えたわけじゃないけど。
「いなくなった理由」を、ちょっとだけ想像できるようになった分、濃度が薄まった感じ。
川の向こう岸のマンションの窓が、いくつか消え、また別のいくつかが灯る。
時間は勝手に進んでいく。
スマホの画面を見ると、日付が変わるまで、あと少し。
「……そろそろ帰れよ」
先輩が、立ち上がりながら言った。
「だれ目線」
「元・コンビニ夜勤目線」
「ダサ」
「ダサくねーし。……送ってこうか?」
「いらない」
即答。
でも、その即答には、あの頃みたいな「壁を全部上げる感じ」までは乗ってなかった。
「そうかよ。じゃ、途中まで勝手に歩くわ」
「ストーカーじゃん」
「違うわ」
先輩が土手を上がる。明日も、そのあとをのろのろとついていく。
河川敷から住宅街へと続く道を、二人で並んで歩く。身長差は、十センチくらい。見上げるほどじゃないけど、横に並ぶと、ちゃんと「年上」って感じの高さ。
街灯の下を通るたびに、先輩の黒髪とウチのミルクティー色の髪が、交互に光る。
「……なあ」
「なに」
「お前さ。まだ、“どうでもいい”って思ってんの? あしたのこと」
不意打ちみたいな問い。
返事に、ちょっと時間がかかった。
「……さあ」
正直に言えば、「どうでもいい」と「どうでもよくない」のあいだを、今ぐるぐるしてる。
「今日は、ちょっとだけ“どうでもよくない”寄りかも」
ギリギリのところで、そう言えた。
先輩が、ふっと笑う。
「進歩だな」
「うるさい」
「また、ここ来んだろ。河川敷」
「来るかも」
「じゃ、俺もたまには来るわ。皿洗いのシフト終わりに」
「……勝手にすれば」
「勝手にする」
そんな雑な約束をひとつだけ置いて、その夜は別れた。
家に帰る途中、ふと後ろを振り返る。
先輩の背中は、もう角を曲がって見えなかった。
でも、さっきの会話と、「ごめん」と、「卒業証書くらい持っとけ」と、「またここ来んだろ」の声だけは、ちゃんと耳の奥に残っている。
――人は、何も言わないでいなくなる。
あの冬に完成したはずの、その認識に。
ほんの少しだけ、「例外」が混ざった夜だった。
ウチは、ポケットの中のスマホを見て、日付が変わったことを確認してから、鼻で笑った。
「……あしたとか、マジうざ」
口では、まだそう言っておく。
でも、心のどっかでは、さっきの河川敷の会話を、何回も何回も巻き戻してた。




