町道場の朝と夜
ジムのマットは、洗剤と汗の匂いがする。
モップを押すたびに、古びた青いマットの表面が、鈍く光った。窓の外はまだ薄暗くて、向かいのマンションのベランダに干しっぱなしの洗濯物が、風に揺れている。
「そこ、角ちゃんとやれ。汗たまりやすいとこだぞ」
「わかってるって」
リング横の丸椅子に座って、会長が缶コーヒー片手にこっちを見ている。Tシャツ一枚で腹がちょっと出てるけど、腕はロープみたいに太い。
朝のジムは、夜とは空気が違う。
まだ誰も来てなくて、タイマーも止まってて、音がほとんどない。聞こえるのは、モップがこすれる「きゅっ、きゅっ」て音と、会長のすするコーヒーの音くらい。
「しかしまあ、高校生がこの時間から掃除ってのも、なかなかだな」
「こっちのが、人目なくてラクじゃん」
腰をかがめて、リング下の隅をゴシゴシこする。マットの端っこの、黒ずんだ部分。
平日の朝七時。登校前にジムに寄って、掃除して、その代わりに夜の使用料をチャラにしてもらう――そんな取り決めが、ここ半年くらいのルーティンになってる。
「俺が高校の頃なんて、朝はギリギリまで寝て、遅刻カードに“電車遅延”って書いてたぞ」
「それただのズルじゃん」
「お前も書いてんだろ、どうせ」
「……ノーコメント」
会長がニヤリと笑う。
モップを片づけて、ロッカーからバンテージの入った袋を取り出す。今日は掃除だけのつもりで来たけど、手がうずうずしてきた。
「ちょっとだけ打ってっていい?」
「授業は?」
「始まる前には行くってば」
「ちょっとだけが一番あてになんねえんだよな」
文句を言いながらも、会長はミットを持ってリングに上がる。
明日はブレザーを脱いで、白シャツの袖を肘までまくった。ミルクティー色のセミロングを、ゴムで後ろにひとつ結び。前髪をピンで留める。
鏡に映る自分は、制服のギャルというより、「体育の時間に本気出す奴」に近い。
「よし、構えろ」
リングに上がって、ミットの前に立つ。
バンテージを巻いた手を顔の前に上げると、会長が足の位置をトン、と靴でつついた。
「左、半歩前。はいそこ。あんま突っ込みすぎんなよ」
「わかってる」
「じゃあ、ジャブ十本」
「いちいち数えんの面倒くさ」
「文句言う口あったら、そのぶん殴れ」
会長の合図に合わせて、ミットに向かって左手を伸ばす。
パンッ。パンッ。
まだ体が完全には起きてないせいか、動きが固い。二発目、三発目と打つうちに、少しずつ肩がほぐれてくる。
「もっと腰から。手打ちすんな」
「はいはい」
パンッ。パンッ。パンッ。
ミットの乾いた音が、朝の静けさに気持ちよく響いた。
十本打ち終わると、会長が顎で合図を出す。
「ワンツー」
「はい」
左、右。右ストレートがミットに吸い込まれる感覚に、体の奥がじわっと熱くなる。
「いいね。最近、右の戻り速くなったな」
「ふーん」
素直に「やった」とは言えない。
それでも、会長の「いいね」は、けっこう嬉しい。
コンビニの兄ちゃん――先輩に初めて名前を褒められたときと、少し似てる感覚。
「次、左ボディ。しゃがみ込むなよ、腰だけ落とせ」
「はい」
ミットの位置が、少し下がる。そこに向けて、左フックをえぐり込む。
ドスッ、と低い音。手首に重たい衝撃が走る。
「おー、殺意高えな。誰想定してんの?」
「この前、生活指導に説教されたって言ってただろ。そいつの腹」
「最低だ」
笑いながらも、もう一発同じところを打つ。今度はさっきより少しだけ深く入る。
息が荒くなって、制服のシャツが背中に貼りついてきた。
動いているあいだは、何も難しいことを考えなくて済む。
学校の小テストだとか、生活指導の顔だとか、家の冷蔵庫の中身だとか、ファミレスの皿洗いの背中だとか。
その全部が、ミットの向こう側に押しやられる。
「ラスト、三本な。全力で」
「おっけ」
左、右、左。最後の右ストレートで、会長のミットがぐっと後ろに押された。
「……よし。終わり。汗拭いて制服戻せ。お前、今日は一限からあんだろ」
「うん」
ロープをくぐってリングから降りると、足が少しふらついた。太ももとふくらはぎに、じん、と疲労が残る。
タオルで顔を拭いて、シャツのボタンを上まで留める。ネクタイをしめて、ブレザーを羽織った。
鏡に映る自分を、ちらっと見る。
さっきまで拳を突き出してたのと同じ体が、今は「普通の女子高生」っぽいパッケージをまとってる。
でも、さっきまでの打撃の感覚は、ちゃんと体の芯に残っている。
「お前さ」
靴紐を結び直してると、会長の声が飛んだ。
「ん?」
「高校のボクシング部、ほんとに見に行く気ねえのか」
またそれだ。
「この前も言ったじゃん。ウチ、そういう真面目系クラブ、無理」
「真面目系クラブて」
会長が、缶コーヒーを机に置いて、こっちを見る。
「別に、真面目じゃねえボクシング部もあるぞ。この辺だと○○工業とか」
「だから、それ真面目じゃないのジャンル違うでしょ」
「はは。まあな」
会長が笑って、少し表情を引き締めた。
「でもな。真面目でもゆるくても、試合って形があるところに行くと、見えるもん変わるぞ」
「試合、ねえ」
ジムの壁に貼ってあるポスターに目をやる。どこかの高校のボクシング大会の案内。青と赤のコーナーに、ヘッドギアをつけた選手たちが並んでいる写真。
その中に、自分が立ってる絵は、まだうまく浮かんでこない。
「ここのスパーだけじゃ、もったいねえよ。体格もあるし、根性もあるし」
「身長あっても、頭悪いし」
「ボクシングは頭も使うんだよ」
「それはちょっと聞かなかったことにする」
「おい」
会長が呆れた顔をする。
ほんとに真剣におすすめしてくれてるのは、わかる。
ジムに来はじめたころから、「高校でボクシングやれ」って何度も言われてる。
でも、そこで「はい」って言ってしまうと、何か大事なものを差し出すことになる気がして、怖い。
ちゃんとした部活。ちゃんとしたユニフォーム。ちゃんとした顧問。ちゃんとした大会。
「ちゃんとした」が、未だに苦手だ。
父親も、学校の先生も、役所の人も、「ちゃんと」を盾にして、勝手に色々決めてきたから。
「……ま、まだ、よくわかんない」
ようやく出てきた言葉は、そのくらいだった。
会長は、少し意外そうに眉を上げる。
「興味ない。じゃねえんだな」
「ゼロじゃないし」
自分で言って、ちょっと驚く。
会長の口元が、わずかに緩んだ。
「そりゃ上出来だ」
「なにそのハードルの低さ」
「お前に関しては、そのくらいでちょうどいい」
そう言って、壁の方をあごでしゃくる。
「ほら、あそこ」
視線の先には、ジムの歴代選手の写真が、額に入れられてずらっと並んでいた。アマチュアの大会で優勝したやつとか、どこかの新聞に載ったやつとか。
その中の一枚に、見慣れた横顔がある。
黒髪じゃなくて、少し茶色がかった短髪。頬が今よりふっくらしていて、目つきは鋭い。グローブを掲げて、ロープにもたれて笑っている――先輩の写真。
「……やっぱり、ここだったんだ」
小さく息を吐く。
昨夜、河川敷で聞いた言葉が、頭の中でよみがえる。
『俺、前、あそこにいたから』『ちょっと前まで、あそこでグローブはめてた側』
写真の端っこには、マジックで小さく名前が書いてある。フルネーム。ウチが知らなかった、コンビニの兄ちゃんの本名。
「こいつな。十代のころ、うちのエースだったんだよ」
会長の声が、少しだけ懐かしそうになる。
「マジで?」
「マジで。高校生で県大会優勝してな。インターハイも行った」
「インターハイ……」
遠い世界の単語だと思ってたやつが、いきなり身近に落ちてきた感じ。
身長百七十ちょい。リーチ長め。フットワーク軽くて、左のジャブがやたら速かった――会長が、ぽんぽんと武勇伝を口にする。
「プロ行くんじゃねえかって、みんなで勝手に盛り上がってたんだよ。そしたらある日、“ちょっと家のことで”って、ふっといなくなりやがった」
「……」
「ま、色々あんだろ。ガキの頃から、ちょいちょい危ねえ橋渡ってたしな、あいつ」
河川敷で先輩が言ってた「借金」とか「変な先輩」とか、そのあたりの事情が、だいたい想像できる。
「戻ってきたときには、もうリング上がる気なくしてたわけよ。皿洗いが板についててよ」
「真面目な皿洗いね」
「そう、それ」
会長がニヤッと笑う。
「でもさ。リング降りたあとのこいつも、ちゃんとここに残ってんだよな」
指先で、写真のフレームを軽く叩く。
「強かったぞ。お前と同じくらいの歳のころ」
「想像つかないんだけど」
「今度、練習動画見せてやるよ。初見で“うわ、ダサ”とか言ったら、ぶん殴るからな」
「言わないって」
たぶん、ほんとは「かっこいい」って思うから。
そういうの、素直に口にするのは、まだちょっと恥ずかしい。
「こいつに負けねえくらい、やれんだよ、お前」
「急にハードル上げないで」
「上げとかねえと、すぐサボるだろ」
「……否定はしない」
会長が笑って、空になった缶コーヒーをゴミ箱に放る。カン、と軽い音を立てて、中に入った。
「とりあえずだ」
会長が、いつになく真面目な顔になる。
「学校は、サボんな」
「……」
「退学上等とか、くっだらねえ真似すんなよ。卒業証書くらい、持っとけ」
また、そのセリフだ。
昨日の夜、河川敷で先輩に言われたのと、まったく同じ。
『世の中の大人、そこしか見ねーからさ』『退学しましたって紙よりはマシだから』
ふたりの声が、頭の中で重なった。
「わかってる」
今度は、意外とすんなり出た。
「卒業くらいは……うん」
会長が、じっとこっちを見る。
「おお。珍しく素直だな」
「五月蝿い」
言いながらも、自分でも少し驚いている。
昨日の朝までだったら、「卒業」とか「証書」とかいう単語は、完全に他人事だった。
でも、誰かがちゃんと顔見て、「持っとけ」って言ってくると、少しだけ現実味が出てくる。
ジムのマットの上でなら、殴りたいだけ殴ってもいい。そこで汗だくになっても、「不良」って言われない。
そのリングの外にある学校って場所を、もうちょっとだけマシにする手段が、「卒業」っていう紙切れなら―― 持ってても、損ではないのかもしれない。
「時間、大丈夫か」
会長の声で我に返る。スマホを見ると、登校ギリギリの時刻だった。
「やべ」
「ほれ、走れ走れ。遅刻カードに“ジム掃除で遅刻”って書かれたら、俺が怒られる」
「書かないって」
ロッカーからカバンをつかんで、ドアに向かう。
外の朝の空気は、さっきより少し明るくなっていた。通勤の車が増えて、遠くから子どもの登校班の声が聞こえる。
「おい、ギャル」
「なに」
ドアノブに手をかけたところで、会長が背中に声を投げる。
「今日、夜も来んだろ」
「……多分」
「多分でいい。ミット、また持ってやる」
「ありがと」
それだけ言って、ジムを飛び出した。
濃紺のブレザーの裾をなびかせて走りながら、ポケットの中のスマホの画面をちらっと見る。
日付の下に、小さく「月曜日」と出ている。
朝が一番嫌いだったのに、今日は少しだけ、マシだ。
足を止めるわけじゃないけど――
「終わればいい」としか思ってなかった一日が、「ジムでまた殴れる」とか、「河川敷であいつに会うかも」とか、ちょっとだけ続きのあるものに変わりつつある。
それを、まだ「楽しみ」と呼ぶには、距離がある。
でも、「全部どうでもいい」って切り捨てるには、足りないものが、少しずつ増えてきている。
朝の通学路を駆け抜けながら、息を整えた。
「……とりあえず、今日はサボんないで行くか」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいて、校門に向かって走るスピードを、ほんの少しだけ上げた。




