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あした  作者: 秦江湖


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10/29

町道場の朝と夜

ジムのマットは、洗剤と汗の匂いがする。


 モップを押すたびに、古びた青いマットの表面が、鈍く光った。窓の外はまだ薄暗くて、向かいのマンションのベランダに干しっぱなしの洗濯物が、風に揺れている。


「そこ、角ちゃんとやれ。汗たまりやすいとこだぞ」

「わかってるって」


 リング横の丸椅子に座って、会長が缶コーヒー片手にこっちを見ている。Tシャツ一枚で腹がちょっと出てるけど、腕はロープみたいに太い。


 朝のジムは、夜とは空気が違う。

 まだ誰も来てなくて、タイマーも止まってて、音がほとんどない。聞こえるのは、モップがこすれる「きゅっ、きゅっ」て音と、会長のすするコーヒーの音くらい。


「しかしまあ、高校生がこの時間から掃除ってのも、なかなかだな」

「こっちのが、人目なくてラクじゃん」


 腰をかがめて、リング下の隅をゴシゴシこする。マットの端っこの、黒ずんだ部分。


 平日の朝七時。登校前にジムに寄って、掃除して、その代わりに夜の使用料をチャラにしてもらう――そんな取り決めが、ここ半年くらいのルーティンになってる。


「俺が高校の頃なんて、朝はギリギリまで寝て、遅刻カードに“電車遅延”って書いてたぞ」

「それただのズルじゃん」

「お前も書いてんだろ、どうせ」

「……ノーコメント」


 会長がニヤリと笑う。


 モップを片づけて、ロッカーからバンテージの入った袋を取り出す。今日は掃除だけのつもりで来たけど、手がうずうずしてきた。


「ちょっとだけ打ってっていい?」

「授業は?」

「始まる前には行くってば」


「ちょっとだけが一番あてになんねえんだよな」


 文句を言いながらも、会長はミットを持ってリングに上がる。


 明日はブレザーを脱いで、白シャツの袖を肘までまくった。ミルクティー色のセミロングを、ゴムで後ろにひとつ結び。前髪をピンで留める。


 鏡に映る自分は、制服のギャルというより、「体育の時間に本気出す奴」に近い。


「よし、構えろ」


 リングに上がって、ミットの前に立つ。

 バンテージを巻いた手を顔の前に上げると、会長が足の位置をトン、と靴でつついた。


「左、半歩前。はいそこ。あんま突っ込みすぎんなよ」

「わかってる」

「じゃあ、ジャブ十本」

「いちいち数えんの面倒くさ」

「文句言う口あったら、そのぶん殴れ」


 会長の合図に合わせて、ミットに向かって左手を伸ばす。

 パンッ。パンッ。


 まだ体が完全には起きてないせいか、動きが固い。二発目、三発目と打つうちに、少しずつ肩がほぐれてくる。


「もっと腰から。手打ちすんな」

「はいはい」


 パンッ。パンッ。パンッ。

 ミットの乾いた音が、朝の静けさに気持ちよく響いた。

 十本打ち終わると、会長が顎で合図を出す。


「ワンツー」

「はい」


 左、右。右ストレートがミットに吸い込まれる感覚に、体の奥がじわっと熱くなる。


「いいね。最近、右の戻り速くなったな」

「ふーん」


 素直に「やった」とは言えない。

 それでも、会長の「いいね」は、けっこう嬉しい。


 コンビニの兄ちゃん――先輩に初めて名前を褒められたときと、少し似てる感覚。


「次、左ボディ。しゃがみ込むなよ、腰だけ落とせ」

「はい」


 ミットの位置が、少し下がる。そこに向けて、左フックをえぐり込む。

 ドスッ、と低い音。手首に重たい衝撃が走る。


「おー、殺意高えな。誰想定してんの?」

「この前、生活指導に説教されたって言ってただろ。そいつの腹」

「最低だ」


 笑いながらも、もう一発同じところを打つ。今度はさっきより少しだけ深く入る。

 息が荒くなって、制服のシャツが背中に貼りついてきた。

 動いているあいだは、何も難しいことを考えなくて済む。


 学校の小テストだとか、生活指導の顔だとか、家の冷蔵庫の中身だとか、ファミレスの皿洗いの背中だとか。

 その全部が、ミットの向こう側に押しやられる。


「ラスト、三本な。全力で」

「おっけ」


 左、右、左。最後の右ストレートで、会長のミットがぐっと後ろに押された。


「……よし。終わり。汗拭いて制服戻せ。お前、今日は一限からあんだろ」

「うん」


 ロープをくぐってリングから降りると、足が少しふらついた。太ももとふくらはぎに、じん、と疲労が残る。


 タオルで顔を拭いて、シャツのボタンを上まで留める。ネクタイをしめて、ブレザーを羽織った。


 鏡に映る自分を、ちらっと見る。

 さっきまで拳を突き出してたのと同じ体が、今は「普通の女子高生」っぽいパッケージをまとってる。


 でも、さっきまでの打撃の感覚は、ちゃんと体の芯に残っている。


「お前さ」

 靴紐を結び直してると、会長の声が飛んだ。

「ん?」

「高校のボクシング部、ほんとに見に行く気ねえのか」


 またそれだ。


「この前も言ったじゃん。ウチ、そういう真面目系クラブ、無理」

「真面目系クラブて」


 会長が、缶コーヒーを机に置いて、こっちを見る。


「別に、真面目じゃねえボクシング部もあるぞ。この辺だと○○工業とか」

「だから、それ真面目じゃないのジャンル違うでしょ」

「はは。まあな」


 会長が笑って、少し表情を引き締めた。


「でもな。真面目でもゆるくても、試合って形があるところに行くと、見えるもん変わるぞ」

「試合、ねえ」


 ジムの壁に貼ってあるポスターに目をやる。どこかの高校のボクシング大会の案内。青と赤のコーナーに、ヘッドギアをつけた選手たちが並んでいる写真。


 その中に、自分が立ってる絵は、まだうまく浮かんでこない。


「ここのスパーだけじゃ、もったいねえよ。体格もあるし、根性もあるし」

「身長あっても、頭悪いし」

「ボクシングは頭も使うんだよ」

「それはちょっと聞かなかったことにする」

「おい」


 会長が呆れた顔をする。

 ほんとに真剣におすすめしてくれてるのは、わかる。

 ジムに来はじめたころから、「高校でボクシングやれ」って何度も言われてる。

 でも、そこで「はい」って言ってしまうと、何か大事なものを差し出すことになる気がして、怖い。


 ちゃんとした部活。ちゃんとしたユニフォーム。ちゃんとした顧問。ちゃんとした大会。

 「ちゃんとした」が、未だに苦手だ。


 父親も、学校の先生も、役所の人も、「ちゃんと」を盾にして、勝手に色々決めてきたから。


「……ま、まだ、よくわかんない」


 ようやく出てきた言葉は、そのくらいだった。

 会長は、少し意外そうに眉を上げる。


「興味ない。じゃねえんだな」

「ゼロじゃないし」


 自分で言って、ちょっと驚く。

 会長の口元が、わずかに緩んだ。


「そりゃ上出来だ」

「なにそのハードルの低さ」

「お前に関しては、そのくらいでちょうどいい」


 そう言って、壁の方をあごでしゃくる。


「ほら、あそこ」


 視線の先には、ジムの歴代選手の写真が、額に入れられてずらっと並んでいた。アマチュアの大会で優勝したやつとか、どこかの新聞に載ったやつとか。


 その中の一枚に、見慣れた横顔がある。

 黒髪じゃなくて、少し茶色がかった短髪。頬が今よりふっくらしていて、目つきは鋭い。グローブを掲げて、ロープにもたれて笑っている――先輩の写真。


「……やっぱり、ここだったんだ」


 小さく息を吐く。

 昨夜、河川敷で聞いた言葉が、頭の中でよみがえる。


『俺、前、あそこにいたから』『ちょっと前まで、あそこでグローブはめてた側』


 写真の端っこには、マジックで小さく名前が書いてある。フルネーム。ウチが知らなかった、コンビニの兄ちゃんの本名。


「こいつな。十代のころ、うちのエースだったんだよ」


 会長の声が、少しだけ懐かしそうになる。


「マジで?」

「マジで。高校生で県大会優勝してな。インターハイも行った」

「インターハイ……」


 遠い世界の単語だと思ってたやつが、いきなり身近に落ちてきた感じ。


 身長百七十ちょい。リーチ長め。フットワーク軽くて、左のジャブがやたら速かった――会長が、ぽんぽんと武勇伝を口にする。


「プロ行くんじゃねえかって、みんなで勝手に盛り上がってたんだよ。そしたらある日、“ちょっと家のことで”って、ふっといなくなりやがった」

「……」

「ま、色々あんだろ。ガキの頃から、ちょいちょい危ねえ橋渡ってたしな、あいつ」


 河川敷で先輩が言ってた「借金」とか「変な先輩」とか、そのあたりの事情が、だいたい想像できる。


「戻ってきたときには、もうリング上がる気なくしてたわけよ。皿洗いが板についててよ」

「真面目な皿洗いね」

「そう、それ」


 会長がニヤッと笑う。


「でもさ。リング降りたあとのこいつも、ちゃんとここに残ってんだよな」


 指先で、写真のフレームを軽く叩く。


「強かったぞ。お前と同じくらいの歳のころ」

「想像つかないんだけど」

「今度、練習動画見せてやるよ。初見で“うわ、ダサ”とか言ったら、ぶん殴るからな」

「言わないって」


 たぶん、ほんとは「かっこいい」って思うから。

 そういうの、素直に口にするのは、まだちょっと恥ずかしい。


「こいつに負けねえくらい、やれんだよ、お前」

「急にハードル上げないで」

「上げとかねえと、すぐサボるだろ」

「……否定はしない」


 会長が笑って、空になった缶コーヒーをゴミ箱に放る。カン、と軽い音を立てて、中に入った。


「とりあえずだ」


 会長が、いつになく真面目な顔になる。


「学校は、サボんな」

「……」

「退学上等とか、くっだらねえ真似すんなよ。卒業証書くらい、持っとけ」


 また、そのセリフだ。

 昨日の夜、河川敷で先輩に言われたのと、まったく同じ。


『世の中の大人、そこしか見ねーからさ』『退学しましたって紙よりはマシだから』


 ふたりの声が、頭の中で重なった。


「わかってる」


 今度は、意外とすんなり出た。


「卒業くらいは……うん」


 会長が、じっとこっちを見る。


「おお。珍しく素直だな」

「五月蝿い」


 言いながらも、自分でも少し驚いている。


 昨日の朝までだったら、「卒業」とか「証書」とかいう単語は、完全に他人事だった。


 でも、誰かがちゃんと顔見て、「持っとけ」って言ってくると、少しだけ現実味が出てくる。

 ジムのマットの上でなら、殴りたいだけ殴ってもいい。そこで汗だくになっても、「不良」って言われない。


 そのリングの外にある学校って場所を、もうちょっとだけマシにする手段が、「卒業」っていう紙切れなら―― 持ってても、損ではないのかもしれない。


「時間、大丈夫か」


 会長の声で我に返る。スマホを見ると、登校ギリギリの時刻だった。


「やべ」

「ほれ、走れ走れ。遅刻カードに“ジム掃除で遅刻”って書かれたら、俺が怒られる」

「書かないって」


 ロッカーからカバンをつかんで、ドアに向かう。


 外の朝の空気は、さっきより少し明るくなっていた。通勤の車が増えて、遠くから子どもの登校班の声が聞こえる。


「おい、ギャル」

「なに」


 ドアノブに手をかけたところで、会長が背中に声を投げる。


「今日、夜も来んだろ」

「……多分」

「多分でいい。ミット、また持ってやる」

「ありがと」


 それだけ言って、ジムを飛び出した。

 濃紺のブレザーの裾をなびかせて走りながら、ポケットの中のスマホの画面をちらっと見る。


 日付の下に、小さく「月曜日」と出ている。

 朝が一番嫌いだったのに、今日は少しだけ、マシだ。

 足を止めるわけじゃないけど――


 「終わればいい」としか思ってなかった一日が、「ジムでまた殴れる」とか、「河川敷であいつに会うかも」とか、ちょっとだけ続きのあるものに変わりつつある。


 それを、まだ「楽しみ」と呼ぶには、距離がある。


 でも、「全部どうでもいい」って切り捨てるには、足りないものが、少しずつ増えてきている。


 朝の通学路を駆け抜けながら、息を整えた。


「……とりあえず、今日はサボんないで行くか」


 誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいて、校門に向かって走るスピードを、ほんの少しだけ上げた。


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