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あした  作者: 秦江湖


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11/29

壁の写真と、昔のエース

放課後のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一気にゆるむ。


「神崎〜、カラオケ行かん? 今日めっちゃ声出したい気分なんだけど」


 机に突っ伏しかけていた顔を上げると、高橋がこっちを覗き込んでいた。ポニテを揺らして、ニヤニヤしている。


「今日ムリ」

「あ、ジム?」

「うん。掃除当番あるし」

「マジ真面目〜。体育会系ギャルじゃん」

「どんなジャンル」


 高橋の後ろで、クラスの女子二人が「ジム行ってるの偉くない?」「神崎、顔だけじゃなくてスタイルも良いもんな〜」とか適当言ってる。


「ね、今度さ、そのジムの近くのコンビニ寄ろーよ。アイス奢って」

「なんでウチ持ち前提なの」

「先輩捕まえたら、そっちに奢ってもらうから〜」

「誰と誰の話」


 軽口だけ交わして、カバンを肩にかける。


 窓ガラスに映った自分が、エンジのストライプのネクタイをちょいゆるめにして、ミルクティー色のセミロングを耳にかけている。根元のプリンが、少しだけ伸びてきた。


「じゃ、また明日〜。寝坊すんなよ、神崎〜」

「そっちこそ」


 いつもなら、「明日」とか言われると心の中で軽く毒吐いてたけど、今日はそこまで反発が湧かない。


 廊下を抜けて、昇降口でローファーからスニーカーに履き替える。ヒモを締め直したところで、ポケットのスマホが震いた。


 画面を見ると、「皿洗い」の名前で登録されてるLINEから一件。


《今日ジムいんの?》

 送り主は、もちろん先輩だ。

(やっぱり、自分で「皿洗い」ってのキモかったかな)

 登録したときのノリを、ちょっとだけ後悔しつつ、親指を動かす。

《行く》 《掃除》


 すぐに既読がついて、返信が返ってきた。

《じゃ、顔出すかも》


 たったそれだけで、心臓がひとつ、余計に跳ねる。

 ジムに先輩が来るのは、変な話じゃない。元々「いた側」なんだから。

 それでも、「顔出すかも」ってわざわざ言われると、なんか意識してしまう。


(……別に)


 脳内でだけ、小さくそう付け足して、スマホをポケットにしまった。


 外に出ると、夕方の光が校庭をオレンジ色に染めていた。サッカー部の掛け声が聞こえる。グラウンドの隅で、女子たちが写真を撮っている。


 その横をすり抜けて、校門を出た。

 制服のブレザーのポケットに手を突っ込んだまま、ジムのある方角へ歩く。

 住宅街を抜けて、コンビニの前を通り過ぎて、細い路地の先にある雑居ビル。二階の窓から、もう灯りが漏れていた。



 鉄の階段を上がって、ドアを開ける。


「おー、ギャル。今日はサボらず来たな」

「来るって言ったじゃん」


 カウンターの奥で帳簿をつけていた会長が、片手を軽く上げる。ジムの中には、すでに何人かの会員がいた。サラリーマンっぽい人が縄跳びをしていて、奥のサンドバッグを、細身の大学生が叩いている。


 空気は、いつもの汗とゴムと、ちょっとだけ消臭スプレーの匂い。


 ロッカーの前に行って、ブレザーを脱ぐ。白いシャツの袖をまくって、ネクタイをポケットに突っ込む。スカートの裾を軽く押さえながら、黒いジャージに履き替える。


 髪をゴムでざっくりひとつに結ぶ。前髪はピンで留めて、顔にかからないようにする。

 さっきまで教室にいた自分と、ここにいる自分が、少しだけ切り替わる。


「おい」

 バンテージを巻いていると、会長に呼ばれた。

「なに」

「ちょっとこっち来い」


 会長は、リングのロープにもたれながら、顎で壁をしゃくる。


 ジムの一番奥の壁。そこには、何枚もの写真と、賞状の額がびっしり並んでいる。

 夕方のジムは、窓から斜めに光が入るから、写真のガラスがキラキラ反射していた。


「前も見たろ、これ」

「見たけど」

「見たうえで、ちゃんと“こいつ”を見てねえだろ」


 会長の指が、ある一枚の写真をトン、と叩く。


 青コーナーのロープにもたれて、ガッツポーズしてる少年。まだあどけない顔。口角だけがキュッと上がっていて、目つきは今より鋭い。


 トランクスには、学校の名前がプリントされている。

 その下に、小さなプレート。


「ライト級優勝……か」


 ウチが、こないだ河川敷で本名を聞いたばかりの、先輩の名前も載っていた。


「これ、高二のときのこいつ」


 会長の声が、少しだけ誇らしげになる。


「マジでエースだったからな。ジャブ速いし、足も止まらねえし。ワンツー打った後に、必ずもう一発返してくる。センスあってよ」


 会長は、写真の横を指でなぞりながら、当時の動きを空でなぞるみたいに手を動かす。


「こっからプロ行ってもおかしくねえって、みんな思ってた」

「……プロ」


 その単語が、ボクシング漫画の中じゃなくて、ここ現実のジムの中で出てくるのが、なんか不思議だ。


「なんで、やめたの」


 思わず、口に出てた。

 河川敷で少しは聞いたけど、あの人の口からは、ちゃんとは出てこなかった部分。

 会長は、しばらく黙って写真を見ていた。


「家のことと、連れのこと。……まあ、そのへんは、あいつから聞け」

「え」

「こっちの話だけ聞いても、片手落ちだ」


 そう言って、ひとつ上の写真を指差した。

 別の選手の集合写真。隣の隅っこに、先輩が写っている。肩を組まれて、少しばつが悪そうに笑っている。


「お前、あいつと話してんだろ。河川敷で」

「……なんで知ってんの」

「勘。あと、昨日“黒髪で皿洗いしてるの見た”って、様子おかしかったからな」

「見られてたんだ」

「バレバレだった」


 会長は、ニヤリとしてから、真顔に戻る。


「こいつさ、途中でいなくなったから、ここじゃ“逃げたエース”なんだよ」

「……」

「でも、逃げたエースだってことまで、ちゃんと含めて、ここの人間なんだ」


 壁の写真が、ただの「昔の栄光」じゃなくて、「未完のまま止まってる時間」に見えてくる。


「お前もそのうち、あそこに並ぶかもしれねえ」

「いや、さすがにそれは」

「可能性の話だよ。ジム来てグローブはめてる以上、リング上がるかどうかは、自分で決められる」


 会長は、そう言ってから、少し声を落とした。


「でもな。学校の方は、自分で決めたって顔して諦めるなよ」


 また、そこに戻る。


「退学になったやつ、何人も見てきたけどさ。最初はみんな、自分で選んだって顔してた」


 バンテージを巻き終わった手を、自然と握りしめる。


「ほんとに自分で選んだやつなんて、ほとんどいねえよ。環境とか、大人の勝手とか、友達とか。そういうのに押されて、気づいたらそういうコースに乗ってるだけ」


「……」

「お前、そっち側に流されるタイプじゃないだろ」

「どういう意味」


「嫌なことあったら、まず殴る方に逃げるタイプだろ」

「それ悪口じゃん」

「あながち褒めてるつもりなんだけどな」


 会長が笑って、サンドバッグの方を顎で示す。


「ほら、殴れ。うだうだ考える前に、体動かせ」

「指示雑」


 そう言いつつも、足が自然とサンドバッグの前に向かう。


 バンテージを巻いた拳で、革の表面を軽く叩いて感覚を確かめる。さっき見た写真の中の先輩みたいに構えてみるけど、もちろんあんなふうにはいかない。


 それでも、肩を回して、腰をひねって、一発目を打ち込んだ。

 ドスッ。

 サンドバッグが、チェーンごと揺れる。ジムの天井の蛍光灯が、ほんの少しだけきしんだ。

 二発、三発と打ち込んでいると、ドアの開く音がした。


「お邪魔しまーす」


 聞き慣れた声。

 サンドバッグから一瞬だけ目を離すと、入り口に先輩が立っていた。黒いパーカーに、ジーンズ。ファミレスのエプロンはつけてない。


 会長が、ちらっとそっちを見て「おお」と声を上げる。


「おー、お前、生きてたか」

「失礼すぎないすか、それ」


 先輩が苦笑いしながら頭をかく。会長は、わざとらしくため息をついた。


「皿洗いエース様が、久々にうちのリングにご来店ですよ」

「やめろ、そのあだ名」

「事実だろ」


 会長と先輩のやりとりを聞きながら、サンドバッグを打つリズムが、ほんの少しだけ乱れる。


「おー、いい音させてんじゃん」


 いつのまにか、背中のすぐ後ろまで先輩が来ていた。


「集中削ぐな」

「はいはい」


 そう言いつつ、先輩はサンドバッグの反対側を手で軽く押さえた。明日の拳が当たるたびに、先輩の手にも振動が伝わっているはずだ。


 昔、コンビニのからあげ棒を受け取ったときに感じた、指先の温度を思い出す。


「腰、もっとこっち。こう」


 先輩が、腰のあたりをひょいっと指でつつく。


「触んな」

「微調整だよ。ほら、左のフック、こう回す」


 自分の体で示してみせる。その動きが、写真の中の先輩と重なる。

 サンドバッグを挟んで向かい合う形になって、明日は唇を少しだけ噛む。


「……あの写真、見た」

「どの?」

「高校のときの。優勝のやつ」

「ああ」


 先輩の指先が、サンドバッグの革を一度、ぎゅっと掴む。


「あれ、マジでダサいから、あんま見んな」

「なんで」

「髪型とかさ。眉毛とかさ。なんか、“若気の至りです”って感じで」

「別に」


 言いかけて、ほんの少し言い直す。


「……普通に、かっこよかったけど」


 先輩が、目を丸くする。


「なに、その急に素直な感じ。こわ」

「今の取り消し」

「取り消させねーし」


 サンドバッグの向こうで、先輩がニヤニヤしているのが見える。

 顔が熱くなるのを感じて、無言でワンツーを叩き込んだ。サンドバッグが、先輩の胸元のあたりでドン、と揺れる。


「おー、殺意」

「標的が近いから」

「やめろ、人をサンドバッグ扱いすんな」


 そんなやりとりをしていると、会長が「おーい」と声をかけてきた。


「皿洗い、お前もグローブつけろ。久々にシャドーでもしろ」

「え、いや俺、見学で」

「なにビビってんだよ。体がなまるぞ」


 会長が、勝手にロッカーからグローブを引っぱり出してくる。その色は、少し使い込まれた赤。


「ほら、手ぇ出せ」

「はいはい……」


 観念したように、先輩が両手を差し出す。グローブがはめられる音が、やけに懐かしそうに響いた。


 リングに上がる先輩の背中を、下から見上げる。

 写真の中でロープにもたれて笑っていた少年が、少し痩せた大人になって、同じリングの上に立っている。


「ワンツー、ワンツーフック。軽くでいいから回してみろ」

「口うるせーな、相変わらず」


 会長の指示に、先輩が苦笑しながら構える。

 一歩踏み込んで、ジャブ。右ストレート。左フック。

 パン、パンッ、ビシッ――

 グローブが空気を切る音だけで、強かった頃の名残がわかる。

 サンドバッグを叩く音とは違う、スパッとした音。足の運びも、体の軸の通り方も、全然ちがう。


「……」


 見惚れる、なんて言葉、似合わないのはわかってる。

 でも、たぶん今のウチは、それに近い顔してた。


「おい」


 リングの上から、先輩がちらっとこっちを見た。


「そんなガン見すんな。照れる」

「別に」

「またそれ」


 笑いながらも、先輩の表情は少しだけ真剣だった。

 数ラウンド、軽くシャドーを終えたあと、ロープをくぐってリングを降りる。

 先輩がグローブを外しているあいだ、会長がぽつりと明日に言った。


「な。リングの上のあいつ、悪くねえだろ」

「……うん」


 それだけは、素直に認められた。


「お前も、そのうち上がってみろ。見える景色、ちょっと違ぇから」


 リングの上から見える景色。

 そこに自分が立ってる想像は、まだぼんやりしてる。でも、「絶対ムリ」と切り捨てるほど遠くもない場所に、少しずつ近づいてる気配だけはある。


 先輩がグローブを片手で持ちながら、こっちに歩いてきた。


「なに、そんな真面目な顔してんの」

「してない」

「してる」

「してないって」


 言葉で押し返しながらも、胸のどこかでは、さっきの写真と、目の前の先輩と、自分の拳の感覚が、ひとつの線でつながりはじめていた。


 家と学校とコンビニとファミレスとジム。


 バラバラだった場所たちが、少しずつ一本のルートみたいになっていく。

 その先に、「試合」とか「卒業」とか、「あした」とか、いろんな単語がぼんやり浮かんでいる。



 まだまだ、ちゃんと掴むには遠い。

 でも、とりあえず今は――

 目の前のサンドバッグと、リングの上の景色を、もう少しだけちゃんと見ておこうと思った。


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