壁の写真と、昔のエース
放課後のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一気にゆるむ。
「神崎〜、カラオケ行かん? 今日めっちゃ声出したい気分なんだけど」
机に突っ伏しかけていた顔を上げると、高橋がこっちを覗き込んでいた。ポニテを揺らして、ニヤニヤしている。
「今日ムリ」
「あ、ジム?」
「うん。掃除当番あるし」
「マジ真面目〜。体育会系ギャルじゃん」
「どんなジャンル」
高橋の後ろで、クラスの女子二人が「ジム行ってるの偉くない?」「神崎、顔だけじゃなくてスタイルも良いもんな〜」とか適当言ってる。
「ね、今度さ、そのジムの近くのコンビニ寄ろーよ。アイス奢って」
「なんでウチ持ち前提なの」
「先輩捕まえたら、そっちに奢ってもらうから〜」
「誰と誰の話」
軽口だけ交わして、カバンを肩にかける。
窓ガラスに映った自分が、エンジのストライプのネクタイをちょいゆるめにして、ミルクティー色のセミロングを耳にかけている。根元のプリンが、少しだけ伸びてきた。
「じゃ、また明日〜。寝坊すんなよ、神崎〜」
「そっちこそ」
いつもなら、「明日」とか言われると心の中で軽く毒吐いてたけど、今日はそこまで反発が湧かない。
廊下を抜けて、昇降口でローファーからスニーカーに履き替える。ヒモを締め直したところで、ポケットのスマホが震いた。
画面を見ると、「皿洗い」の名前で登録されてるLINEから一件。
《今日ジムいんの?》
送り主は、もちろん先輩だ。
(やっぱり、自分で「皿洗い」ってのキモかったかな)
登録したときのノリを、ちょっとだけ後悔しつつ、親指を動かす。
《行く》 《掃除》
すぐに既読がついて、返信が返ってきた。
《じゃ、顔出すかも》
たったそれだけで、心臓がひとつ、余計に跳ねる。
ジムに先輩が来るのは、変な話じゃない。元々「いた側」なんだから。
それでも、「顔出すかも」ってわざわざ言われると、なんか意識してしまう。
(……別に)
脳内でだけ、小さくそう付け足して、スマホをポケットにしまった。
外に出ると、夕方の光が校庭をオレンジ色に染めていた。サッカー部の掛け声が聞こえる。グラウンドの隅で、女子たちが写真を撮っている。
その横をすり抜けて、校門を出た。
制服のブレザーのポケットに手を突っ込んだまま、ジムのある方角へ歩く。
住宅街を抜けて、コンビニの前を通り過ぎて、細い路地の先にある雑居ビル。二階の窓から、もう灯りが漏れていた。
鉄の階段を上がって、ドアを開ける。
「おー、ギャル。今日はサボらず来たな」
「来るって言ったじゃん」
カウンターの奥で帳簿をつけていた会長が、片手を軽く上げる。ジムの中には、すでに何人かの会員がいた。サラリーマンっぽい人が縄跳びをしていて、奥のサンドバッグを、細身の大学生が叩いている。
空気は、いつもの汗とゴムと、ちょっとだけ消臭スプレーの匂い。
ロッカーの前に行って、ブレザーを脱ぐ。白いシャツの袖をまくって、ネクタイをポケットに突っ込む。スカートの裾を軽く押さえながら、黒いジャージに履き替える。
髪をゴムでざっくりひとつに結ぶ。前髪はピンで留めて、顔にかからないようにする。
さっきまで教室にいた自分と、ここにいる自分が、少しだけ切り替わる。
「おい」
バンテージを巻いていると、会長に呼ばれた。
「なに」
「ちょっとこっち来い」
会長は、リングのロープにもたれながら、顎で壁をしゃくる。
ジムの一番奥の壁。そこには、何枚もの写真と、賞状の額がびっしり並んでいる。
夕方のジムは、窓から斜めに光が入るから、写真のガラスがキラキラ反射していた。
「前も見たろ、これ」
「見たけど」
「見たうえで、ちゃんと“こいつ”を見てねえだろ」
会長の指が、ある一枚の写真をトン、と叩く。
青コーナーのロープにもたれて、ガッツポーズしてる少年。まだあどけない顔。口角だけがキュッと上がっていて、目つきは今より鋭い。
トランクスには、学校の名前がプリントされている。
その下に、小さなプレート。
「ライト級優勝……か」
ウチが、こないだ河川敷で本名を聞いたばかりの、先輩の名前も載っていた。
「これ、高二のときのこいつ」
会長の声が、少しだけ誇らしげになる。
「マジでエースだったからな。ジャブ速いし、足も止まらねえし。ワンツー打った後に、必ずもう一発返してくる。センスあってよ」
会長は、写真の横を指でなぞりながら、当時の動きを空でなぞるみたいに手を動かす。
「こっからプロ行ってもおかしくねえって、みんな思ってた」
「……プロ」
その単語が、ボクシング漫画の中じゃなくて、ここ現実のジムの中で出てくるのが、なんか不思議だ。
「なんで、やめたの」
思わず、口に出てた。
河川敷で少しは聞いたけど、あの人の口からは、ちゃんとは出てこなかった部分。
会長は、しばらく黙って写真を見ていた。
「家のことと、連れのこと。……まあ、そのへんは、あいつから聞け」
「え」
「こっちの話だけ聞いても、片手落ちだ」
そう言って、ひとつ上の写真を指差した。
別の選手の集合写真。隣の隅っこに、先輩が写っている。肩を組まれて、少しばつが悪そうに笑っている。
「お前、あいつと話してんだろ。河川敷で」
「……なんで知ってんの」
「勘。あと、昨日“黒髪で皿洗いしてるの見た”って、様子おかしかったからな」
「見られてたんだ」
「バレバレだった」
会長は、ニヤリとしてから、真顔に戻る。
「こいつさ、途中でいなくなったから、ここじゃ“逃げたエース”なんだよ」
「……」
「でも、逃げたエースだってことまで、ちゃんと含めて、ここの人間なんだ」
壁の写真が、ただの「昔の栄光」じゃなくて、「未完のまま止まってる時間」に見えてくる。
「お前もそのうち、あそこに並ぶかもしれねえ」
「いや、さすがにそれは」
「可能性の話だよ。ジム来てグローブはめてる以上、リング上がるかどうかは、自分で決められる」
会長は、そう言ってから、少し声を落とした。
「でもな。学校の方は、自分で決めたって顔して諦めるなよ」
また、そこに戻る。
「退学になったやつ、何人も見てきたけどさ。最初はみんな、自分で選んだって顔してた」
バンテージを巻き終わった手を、自然と握りしめる。
「ほんとに自分で選んだやつなんて、ほとんどいねえよ。環境とか、大人の勝手とか、友達とか。そういうのに押されて、気づいたらそういうコースに乗ってるだけ」
「……」
「お前、そっち側に流されるタイプじゃないだろ」
「どういう意味」
「嫌なことあったら、まず殴る方に逃げるタイプだろ」
「それ悪口じゃん」
「あながち褒めてるつもりなんだけどな」
会長が笑って、サンドバッグの方を顎で示す。
「ほら、殴れ。うだうだ考える前に、体動かせ」
「指示雑」
そう言いつつも、足が自然とサンドバッグの前に向かう。
バンテージを巻いた拳で、革の表面を軽く叩いて感覚を確かめる。さっき見た写真の中の先輩みたいに構えてみるけど、もちろんあんなふうにはいかない。
それでも、肩を回して、腰をひねって、一発目を打ち込んだ。
ドスッ。
サンドバッグが、チェーンごと揺れる。ジムの天井の蛍光灯が、ほんの少しだけきしんだ。
二発、三発と打ち込んでいると、ドアの開く音がした。
「お邪魔しまーす」
聞き慣れた声。
サンドバッグから一瞬だけ目を離すと、入り口に先輩が立っていた。黒いパーカーに、ジーンズ。ファミレスのエプロンはつけてない。
会長が、ちらっとそっちを見て「おお」と声を上げる。
「おー、お前、生きてたか」
「失礼すぎないすか、それ」
先輩が苦笑いしながら頭をかく。会長は、わざとらしくため息をついた。
「皿洗いエース様が、久々にうちのリングにご来店ですよ」
「やめろ、そのあだ名」
「事実だろ」
会長と先輩のやりとりを聞きながら、サンドバッグを打つリズムが、ほんの少しだけ乱れる。
「おー、いい音させてんじゃん」
いつのまにか、背中のすぐ後ろまで先輩が来ていた。
「集中削ぐな」
「はいはい」
そう言いつつ、先輩はサンドバッグの反対側を手で軽く押さえた。明日の拳が当たるたびに、先輩の手にも振動が伝わっているはずだ。
昔、コンビニのからあげ棒を受け取ったときに感じた、指先の温度を思い出す。
「腰、もっとこっち。こう」
先輩が、腰のあたりをひょいっと指でつつく。
「触んな」
「微調整だよ。ほら、左のフック、こう回す」
自分の体で示してみせる。その動きが、写真の中の先輩と重なる。
サンドバッグを挟んで向かい合う形になって、明日は唇を少しだけ噛む。
「……あの写真、見た」
「どの?」
「高校のときの。優勝のやつ」
「ああ」
先輩の指先が、サンドバッグの革を一度、ぎゅっと掴む。
「あれ、マジでダサいから、あんま見んな」
「なんで」
「髪型とかさ。眉毛とかさ。なんか、“若気の至りです”って感じで」
「別に」
言いかけて、ほんの少し言い直す。
「……普通に、かっこよかったけど」
先輩が、目を丸くする。
「なに、その急に素直な感じ。こわ」
「今の取り消し」
「取り消させねーし」
サンドバッグの向こうで、先輩がニヤニヤしているのが見える。
顔が熱くなるのを感じて、無言でワンツーを叩き込んだ。サンドバッグが、先輩の胸元のあたりでドン、と揺れる。
「おー、殺意」
「標的が近いから」
「やめろ、人をサンドバッグ扱いすんな」
そんなやりとりをしていると、会長が「おーい」と声をかけてきた。
「皿洗い、お前もグローブつけろ。久々にシャドーでもしろ」
「え、いや俺、見学で」
「なにビビってんだよ。体がなまるぞ」
会長が、勝手にロッカーからグローブを引っぱり出してくる。その色は、少し使い込まれた赤。
「ほら、手ぇ出せ」
「はいはい……」
観念したように、先輩が両手を差し出す。グローブがはめられる音が、やけに懐かしそうに響いた。
リングに上がる先輩の背中を、下から見上げる。
写真の中でロープにもたれて笑っていた少年が、少し痩せた大人になって、同じリングの上に立っている。
「ワンツー、ワンツーフック。軽くでいいから回してみろ」
「口うるせーな、相変わらず」
会長の指示に、先輩が苦笑しながら構える。
一歩踏み込んで、ジャブ。右ストレート。左フック。
パン、パンッ、ビシッ――
グローブが空気を切る音だけで、強かった頃の名残がわかる。
サンドバッグを叩く音とは違う、スパッとした音。足の運びも、体の軸の通り方も、全然ちがう。
「……」
見惚れる、なんて言葉、似合わないのはわかってる。
でも、たぶん今のウチは、それに近い顔してた。
「おい」
リングの上から、先輩がちらっとこっちを見た。
「そんなガン見すんな。照れる」
「別に」
「またそれ」
笑いながらも、先輩の表情は少しだけ真剣だった。
数ラウンド、軽くシャドーを終えたあと、ロープをくぐってリングを降りる。
先輩がグローブを外しているあいだ、会長がぽつりと明日に言った。
「な。リングの上のあいつ、悪くねえだろ」
「……うん」
それだけは、素直に認められた。
「お前も、そのうち上がってみろ。見える景色、ちょっと違ぇから」
リングの上から見える景色。
そこに自分が立ってる想像は、まだぼんやりしてる。でも、「絶対ムリ」と切り捨てるほど遠くもない場所に、少しずつ近づいてる気配だけはある。
先輩がグローブを片手で持ちながら、こっちに歩いてきた。
「なに、そんな真面目な顔してんの」
「してない」
「してる」
「してないって」
言葉で押し返しながらも、胸のどこかでは、さっきの写真と、目の前の先輩と、自分の拳の感覚が、ひとつの線でつながりはじめていた。
家と学校とコンビニとファミレスとジム。
バラバラだった場所たちが、少しずつ一本のルートみたいになっていく。
その先に、「試合」とか「卒業」とか、「あした」とか、いろんな単語がぼんやり浮かんでいる。
まだまだ、ちゃんと掴むには遠い。
でも、とりあえず今は――
目の前のサンドバッグと、リングの上の景色を、もう少しだけちゃんと見ておこうと思った。




