夜の街と、燃え尽きたい衝動
ジムを出ると、外はすっかり夜だった。
シャッターを半分まで下ろして、鍵をかける。金属がかちりと噛み合う音が、細い路地に響く。
「鍵、ポスト入れとけよー」
階段の上から、会長の声が飛んできた。
「わかってるって」
ポストに鍵を落として、雑居ビルの外に出る。
夜風が、練習後の火照った肌に気持ちいい。髪をほどいて、ゴムを手首に移すと、巻きが取れかけた毛先が肩のあたりでぱさっと広がった。
ブレザーの前は開けたまま。ネクタイはポケットに突っ込んだまま、シャツの第一ボタンも外してある。
汗で少し湿った襟元に、夜気がひやりと触れた。
(家、帰る……わけないか)
スマホで時刻を確認する。二十一時過ぎ。母親がシフトに出てる日は、だいたい午前様コースだ。
電気代のメモと「ごめん」の文字と、カップ麺とテレビの青白い光だけが待ってる部屋に、今すぐ戻る気にはなれない。
足は、自然と駅と反対側に向かっていた。
ネオンと排気ガスの匂いが濃くなる方角。コンビニとパチンコ屋と、小さなスナックが並んでいる通り。
ジムの空気から、一気に「夜の街」の匂いに切り替わる。
バス停の前で、同じ学校のスカートを短くした女子たちがたむろっているのが見えた。スマホ片手に笑ってる。ウチと目が合いそうになって、なんとなく視線をそらす。
「神崎じゃね?」
「ほんとだ。ジム帰り?」
背中の方で、そんな声が聞こえたけど、聞こえないふりをして通り過ぎた。
信号を渡ると、コンビニの明かりが見える。昔、金髪ピアスの兄ちゃんがいた店。
今は、見慣れた店長と、アルバイトの大学生くらいの女の人がレジに立っているだけだ。あの声も、あの笑い方も、もうここにはない。
自動ドアの前で一瞬だけ立ち止まって、水だけ買って出る。
ペットボトルのキャップをひねると、冷たい匂いが喉を誘う。ごくごくと飲みながら、少し先の路地を曲がる。
そこには、ウチがときどき顔を出す一団がいる。
「おー、明日!」
駐車場代わりに使われてる空き地。改造車っぽい軽自動車と、原チャリが数台。コンビニ袋や空き缶が転がっている。
その真ん中で、ジャージ姿の男たちがタバコをふかしてた。二十代前半くらいの、地元の「ちょっと悪い人」たち。
一人が、タバコを咥えたまま手を振る。
髪をジェルで固めて、ジャラジャラしたネックレスをつけてる男――亮。このあたりの溜まり場で、なんとなく仕切ってる人。
「よ、ギャルボクサー」
「そのあだ名マジやめろって言ってんでしょ」
「えー、カッコよくね? インスタのハッシュタグにできるって」
後ろから別の男が笑う。スウェットのフードをかぶった俊。高校は中退組。
「今日も殴ってきた?」
「まあね」
ペットボトルの水を指でくるくる回しながら、車のドアに腰を預ける。
この人たちは、ジムとはまったく違う「夜」の匂いがする。
タバコと香水と、コンビニのホットスナック。エンジンオイルと、ちょっと焦げたゴムの匂い。
でも、ウチには、この空気も嫌いじゃない。
「お疲れ。ほら、座れよ」
亮が、車のボンネットをぽんぽん叩く。
「そこ熱いからヤだ」
「細けーな。じゃあここ」
路地のブロック塀に背中を預けて、地べたに座り込む。スカートの下に穿いてるジャージが、冷たいコンクリの温度を受け止める。
髪を、指先で適当にまとめて結び直した。
「てかさ、こないだ聞いたけど、お前ホントに退学になりかけてんの?」
俊が、缶コーヒーを片手で振りながらニヤニヤする。
「なりかけってなに」
「生活指導がさ、あいつこのままだとヤバいって職員室で言ってんの、うちの妹が聞いたって」
「妹スパイかよ」
思わず笑ってしまう。
「マジでさ、あんな学校やめちまえば? お前なら、ここで一生遊んでても生きてけるって」
亮が、軽い調子で言う。
「一生は無理でしょ」
「いや、マジで。うちの先輩とか、中学出てとりあえず現場入って、今普通に金持ってるし」
車のボディをコンコン叩きながら、自慢げに続ける。
「学校で、はい先生〜。とかやってるやつより、よっぽど人生楽しんでるって」
「……ふーん」
語尾だけで返す。
高校に行く価値なんてない、っていう話は、何回も何回もいろんな人から聞いてきた。
たしかに、教室にいるときの自分は、「楽しんでる」って感じからは程遠い。小テストの点数と、出欠表と、生活指導の目線に追われてるだけ。
でも、退学上等って言えるほど、ウチのメンタルは強くない。
「でもさ」
亮が、タバコを指の間ではじきながら言う。
「お前、殴るの上手いじゃん?」
「いきなりなんの話」
「殴るの上手いとか言われたの初めてなんだけど」
俊が笑いながらツッコむ。
「いや、マジで。前さ、あの公園で絡んできたヤツいたじゃん。チャリパクっただのなんだの」
「あー、あのクソダサい髪型の」
「そうそう。あいつが手出そうとしたとき、お前、サクッと避けてたろ」
亮が、手をひょいっと振って見せる。
去年の夏、近所の公園で、別グループの男たちと軽く揉めたときのことだ。カッとなって向かってきた相手の腕を、無意識にスウェーでかわした自分を、今でも覚えてる。
その瞬間、相手の空振りした拳がすかっと空を切って、バランスを崩してた。
あのあと、亮たちが「まぁまぁ」って間に入って、なんとなく空気を流してくれたから、殴り合いにはならなかったけど。
「お、やっぱこいつケンカ慣れしてんじゃん。って、内心ビビったからな」
「ケンカ慣れって……」
実際は、ケンカってほどのことはしてない。ただ、ジムで教わった動きが、条件反射で出ただけ。
でも、亮たちには、それが「地の才能」みたいに見えてるらしい。
「退学なってさ、そのケンカスキル活かして、うち来る? ボディガードとかやらせてやるよ」
「いらないから」
即答する。
笑いながら断ったけど、その言葉の軽さに、自分でも少し驚いた。
前だったら、「退学」ってワードに、もうちょっとくらっと来てたかもしれない。
学校がイヤで、先生もイヤで、生活指導の顔なんて二度と見たくなくて。
「やめちゃえば楽なのに」って、何度も思った。
でも。
(卒業証書くらい、持っとけ)
(退学しましたって紙よりはマシだから)
昨日、河川敷で先輩に言われた声と、今日の朝ジムで会長に言われた声が、頭の中で重なる。
その二人が、まったく同じことを言うってのが、かなりレアな現象だってことくらい、ウチにもわかる。
「なに、急に真面目顔」
俊が、覗き込んでくる。
「してないけど」
「してるって。目つきが、人生考えてますって顔になってる」
「うるさい」
ペットボトルの水を、また一口飲む。
冷たさが、喉から胃に落ちていく感覚が、さっきのミットの硬さと一緒に蘇る。
「ま、なんかあったら言えよ」
亮が、タバコを地面にねじ消しながら言った。
「学校ムカつくとか、家しんどいとか。とりあえずドライブくらい連れてってやるからさ」
「違法じゃないやつなら」
「お、信用ねーな」
「ないわけじゃないけど、あるわけでもない」
そんなふうに、適当なやりとりをして笑い合う。
この人たちといるときのウチは、ちゃんと「不良っぽい空気」に馴染んでる。
車の中のラップ。コンビニのホットスナック。くだらない自慢話と、誰かの悪口と、適度な馬鹿騒ぎ。
全部、「今この瞬間」が燃えてればそれでいい、みたいなエネルギーでできてる。
そして、それはウチの中にもある。
「じゃ、行くか。ちょっと流そうぜ」
亮が、車のキーを指で回す。エンジンが低い音で唸った。
後部座席のドアが、ギッと音を立てて開く。
「明日も乗る?」
俊が、肩越しに聞いてくる。
その問いには、ちょっとだけ間が空いた。
夜の街を流すドライブ。音楽ガンガンにかけて、意味もなく遠くまで行って、高速のサービスエリアでジュース飲んで帰るだけの時間。
それはそれで、嫌いじゃない。むしろ、嫌いになれない。
どこにも属せない自分が、「仲間」みたいな言葉を、ギリギリで味わえる場所でもある。
でも、同時に。
このまま毎晩ここに乗り続けたら、たぶん、どっかで取り返しつかないラインを踏むんだろうな、って予感も、ちゃんとある。
万引きとか、喧嘩とか、車の事故とか。ニュースで見るような「ちょっとしたはずの悪ふざけの末路」ってやつ。
「……今日はやめとく」
出てきたのは、その言葉だった。
「は?」
俊が、意外そうに目を丸くする。
「明日、朝から生活指導の面談あるから。寝坊したらウザい」
「生活指導のことウザいって言ってる時点で、あんま変わんなくね?」
「寝不足で怒られるのは、普通にダルいの」
言い訳みたいな理屈を並べながらも、本音はもっと単純だ。
今日は、ジムのミットの感覚と、先輩のシャドーの音を、ちゃんと持って帰りたい。
車のエンジン音と、ネオンのチカチカで上書きしたくない。
「そっか。じゃあしゃーねーな」
亮が、肩をすくめる。
「いい子ちゃんかよ」
「いい子ちゃんではない」
そう言って立ち上がる。スカートについた砂を手で払う。
「じゃ、また」
「おう。なんかあったら呼べよ」
「うん」
うなずいて、彼らの輪から一歩外に出る。
背中の方で、車のドアが閉まる音がした。エンジンが少しふかされて、ラップの低音が漏れ出す。
その音から離れるように、少しだけ早足になる。
街のネオンが、徐々に少なくなっていく。住宅街の静けさが、じわじわと戻ってくる。
ジムで流した汗と、夜の街の空気と、不良たちの笑い声。
その全部が、まだ体の中でぐるぐるしている。
(今ここで燃えてないと、息できない)
そんな感覚は、相変わらずある。
殴ってるとき。車の中で音楽ガンガンのとき。河川敷で夜風に当たってるとき。
そういう瞬間だけは、「生きてる」って実感がある。
でも、前よりちょっとだけ、その「燃え方」を選べるようになってきてるのかもしれない。
自分を全部燃やし尽くして、灰になって終わるんじゃなくて。
明日の分くらい、少しは残しておく燃やし方。
全部出し切って……その充足感が新しい火を灯すみたいな。
そんなのが、この世にほんとにあるのかどうかは、まだよくわかんないけど。
アパートの近くまで戻ってきたところで、ふと足を止める。
川の方へ続く道が、横に伸びている。
その先には、暗い水面と、土手と、あの声。
(……寄ってくか)
家に直行する気分でもない。
スマホを取り出して、画面を見る。通知はない。時間は、二十二時半。
グループラインに「もう寝る〜」とか「課題だる〜」とか流れてるのを、ざっとスクロールして閉じる。
川沿いの道に入ると、空気が一段冷たくなった。
街灯の光が少なくなって、虫の声と、水の音が大きくなる。
土手を下りて、いつもの場所に腰を下ろす。
膝を抱えて座ると、ジムで酷使した太ももがみしっと文句を言った。
「……明日、マジで行きたくないな」
明日の「生活指導との面談」のことを思い出して、顔をしかめる。
遅刻と欠席と、素行と内申と。いろんな数字と単語で、ウチを評価しようとしてくる大人の顔。
想像しただけで、拳を握りたくなる。
でも、そこで「行かない」って選択をしたら、本当に何かが決定的に変わる気もする。
退学とか、謹慎とか、そういう正式なワードで。
『卒業証書くらい、持っとけ』
会長の声。
『退学しましたって紙よりはマシだから』
先輩の声。
「……うっざ」
川面に向かって、そう吐き捨てる。
でも、ほんの少しだけ口元がゆるんでるのを、自分で自覚して、さらにムカついた。
夜風が、髪を撫でていく。
川の流れは、今日もいつも通りのリズムで続いている。
ウチの中では、まだ、「今ここで全部燃やしたい」衝動と、「明日の分くらい残しとこうかな」って迷いが、せめぎ合ってた。
その綱引きの真ん中に、自分の拳と、学校の教室と、町道場のリングと、河川敷のこの場所が、一塊になってぶら下がっている感じ。
「……知らん」
最終的に出てきた言葉は、それだけだった。
知らないけど、とりあえず明日は起きる。起きて、生活指導の話を聞いて、ムカついて、ジムに行って、たぶんまたここに来る。
それくらいなら、想像できる。
その先の「あした」は、まだ真っ白なままだけど。
真っ白だからって、全部真っ黒に塗りつぶす必要も、もしかしたらないのかもしれない。
そんなことを、川の音を聞きながら、なんとなく考えた。




