表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あした  作者: 秦江湖


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/29

河川敷で聞く、リングを降りた理由

生活指導との面談は、想像してたとおり、胃に悪かった。


「このままだと、進級も危ういぞ、神崎」


「……はい」


 遅刻の数、欠席の数、提出物ゼロのプリントに丸で囲まれた赤ペン。


 机越しに、数字とため息が飛んでくる。


「殴る力はあっても、紙一枚のために机に座る力はないのか」


(殴らせろや、一発で黙らせてやんのに)


 心の中で悪態つきながら、表面は死んだ魚みたいな目でやり過ごす。


 とりあえず「反省してます」って顔だけ作って、ハンコ押されるのを待つゲーム。


 終わったころには、全身から力が抜けてた。

 だから、その日の夜、ジムでサンドバッグを殴ったときは、いつも以上に拳がよく入った。


 ドスッ、ドスッ。

 チェーンがぎしぎし鳴る。


「おー、今日はキレてんな」

 サンドバッグの横でロープにもたれてた会長が、ニヤニヤしながら言う。


「……別に」

「生活指導か?」

「なんでわかんの」

「顔に職員室って書いてある」

「やだその顔」


 テキトーなこと言いながら、会長がミットを掲げてくる。


「ほら、ラスト二ラウンド。頭からっぽにして打て」

「最初からそんな入ってないし」

「おう、その調子」


 ミットに向かって、ジャブ、ワンツー、フック。

 腕が重くなって、太ももがきしんで、肺が焼けるみたいになったころ、「ラスト!」の声が飛ぶ。


 汗まみれでロープをくぐり、リングから降りる。

 タオルで顔を拭いていると、ジムのドアがきい、と開いた。


「お邪魔しまーす」


 黒いパーカーにジーンズ。髪は黒。

 桐沢先輩が、片手をひょいっと上げて入ってきた。


「よう、皿洗い」

「だからその呼び方やめてって」

「自分で言ってたくせに」

 会長と軽口を交わしながら、桐沢先輩は靴を脱ぐ。

 カウンターのところで、会長がペットボトルのスポドリを一本投げた。


「ほら、元エース。見学料」

「お、サンキュ。……金ならちゃんと月末に払います」

「当たり前だ」

 そういう会話を聞いてると、二人のあいだに流れてる年季みたいなのが、なんとなく伝わってくる。


 タオルで首筋を拭きながら、髪をゴムで結び直した。前髪をピンで留め、バンテージを外し始める。


「終わった?」  


少し離れたところから、桐沢先輩の声。


「一応」

「顔、死んでるけど」

「生活指導のせい」

「あー……ご愁傷様っす」


 手を合わせて拝むマネしてくるから、タオルを丸めて投げつけてやった。


「いてっ。暴力反対」


 そんなやりとりを見ていた会長が、「お前らうるせえ」と頭を掻く。


「河川敷で続きやってこい。ジム閉めるぞ」

「はーい」

「鍵はさっきポスト入れた」

「知ってる」


 会長が奥に引っ込むのを確認して、カバンを肩にかける。

 制服のブレザーを羽織って、ネクタイをポケットに突っ込んだまま、ジムを出た。



 夜風が、練習後の熱を冷ます。

 桐沢先輩も一緒に外に出て、鉄の階段を並んで降りる。


「……で、面談どうだった」

「最悪」

「だろうな」

「なんでわかんの」

「俺も昔、職員室で延々説教されたクチだから」


 笑いながら言うその声に、少しだけ疲れた響きが混ざってた。


「このままだと進級が〜、将来が〜って?」

「テンプレすぎて逆に芸術」


 駅と反対側の道へ、自然と足が向く。

 住宅街を抜けて、川の方へ。


 歩幅の違いで、ちょっと小走りになりそうになると、桐沢先輩がさりげなくペースを落としてくれる。


「今日は、ドライブ行かねーの?」

「なんで知ってんの」

「この辺のガキども、大体顔ぶれ一緒だからな。改造軽の音、遠くからでもわかるし」

「耳いいね」

「悪いよりマシだろ」


 軽口のテンポにも、だいぶ慣れてきた。

 土手に出て、暗い川面を見下ろす。街灯がところどころで水面に道を作ってる。


 河川敷に降りる階段を、一緒に下りた。

 いつもの場所に腰を下ろすと、太ももがじわっと文句を言う。


「そんな顔するまで殴ってんの、マジでバカだと思う」

「うるさい。今日は色々ムカついたから」

「生活指導?」

「それも」

「それ“も”なのね」


 桐沢先輩は、少し離れたところに腰を下ろして、水のペットボトルを差し出してきた。


「ほら、お疲れ」 「ありがと」


 キャップを開けて、一口飲む。冷たさが喉を通って、さっきまでの熱が少しずつ引いていく。


「……なあ」


 静かな間がひとつ挟まって、桐沢先輩が口を開いた。


「会長から、色々聞いた?」

「うちのエースだったってのと、逃げたエースってのと、インターハイ行ったってのと」

「盛りすぎだな、あのオヤジ」

「写真も見たし」

「うわ」


 桐沢先輩が頭を抱える。


「あれマジ黒歴史だから、あんま凝視すんなって言ったのに」

「普通にかっこよかったけど」

「またそうやってさらっと……」

「今の取り消し」

「取り消させねーし」


 軽く笑い合ったあと、また少し静かになる。

 川の音が、目の前で単調に続いてる。


「でさ」


 今度は、ウチのほうから切り出した。


「なんで、やめたの。ボクシング」


 昨日までは飲み込んでた問い。

 ジムの壁の写真で、優勝者の名前を見てから、喉の奥にずっと引っかかってたやつ。


「家のことと、連れのことってのは、会長から聞いたけどさ。……ちゃんと、桐沢先輩の口からも聞きたい」


 少し間が空いて、桐沢先輩が鼻で笑った。


「お前、そういうとこ、マジ容赦ねーよな」

「聞かれたくないなら、言いたくないって言えばいいし」

「言うとは言ってないもんな」


 川面の方を向いたまま、桐沢先輩がゆっくり息を吐く。


「……俺さ。中三くらいから、ちょっとグレてたのは知ってるだろ」

「金髪ピアスでコンビニ夜勤」

「そう、それ」


 自分で言って、肩をすくめる。


「まあでも、ああ見えて、一応ボクシングはちゃんとやってた。高校入ってからは特に。試合出て、勝って、表彰されて、新聞とかも一回だけ載ってさ」

「自慢?」

「自慢しとかねーと、話進まないだろ」

「はいはい」


 横顔が、遠いところを見てるみたいに見えた。


「で、高二の夏。インターハイ出て、ベスト8まで行った。“次は優勝だな”とか、“プロ行けるな”とか、会長にも、学校の連中にも言われて」


 そのときの空気の重さが、なんとなく想像できる。


「でもさ、家のほうは、その頃からずっとヤバかったんだよね」


 声が、少し低くなる。


「親父が事業コケてさ。よくある話だけど。借金こさえて、取り立て来るレベル」

「……」

「母ちゃんはパート増やして、家の中は常にピリピリ。俺は俺で、ボクシングでちょっと有名になって、あいつ金持ってんじゃね?って勘違いしたやつらがたかってきて」


 「たかってきて」のあたりで、口元が歪んだ。


「連れっていうか……一緒にバカやってたやつがいてさ。そいつ、借金取りと揉めて、ちょっとヤバい話に巻き込まれかけた」


 川の音が、風の音で一瞬かき消される。


「そんとき、どうするかって選択肢が、いくつかあったはずなんだけど」


 桐沢先輩は、指で草を一本抜いて、くるくるいじる。


「一番ダサい選択肢選んだのが、俺なんだよな」

「ダサい?」

「そ。親父の借金、俺が肩代わりしますって言ってさ。まだ高二のくせに。で、連れのトラブルも、全部俺のせいでいいですって背負ってさ」


 どこか乾いた笑い。


「かっこよさげな自己犠牲、ってやつ」

「……」


 それ、ほんとに「ダサい」だけなのかどうか。

 すぐには判断つかない。


「大人たちはさ、いい子だねとか家族思いだねとか言うんだけどさ。中身はただのビビりだから」

「ビビり?」

「怖かったんだよ」


 桐沢先輩の指が、草を細かくちぎる。


「親父が消えるのも。家がなくなるのも。連れがどっかに連れてかれるのも。リングの上で頑張りますって言ってるあいだに、全部壊れてくのが、マジで怖かった」


 その「怖い」は、ウチにもよくわかる感情だ。


「だから、だったら俺が代わりに潰れりゃよくね?って。そういう一番安直な、でも一番手っ取り早い答えに飛びついた」


 少し、笑う。


「結果、家の借金の一部は肩代わりって形になって、連れの話も、俺が前に出て多少はマシになって。その代わり、俺は実家から離されて、ちょっと遠くの更生施設みたいなとこにぶっこまれて、試合も、ジムも、学校も、全部途中で投げた」


「……」


 コンビニの店長が言った「やめたよ」の一言の裏に、そんなぐちゃぐちゃがあったなんて、中二のウチには想像もつかなかった。


「会長にも、すまん、しばらく来れねえってだけ言って消えた。お前には……何も言わなかった」


 最後の一文だけは、こっちを見ないで言う。


「面倒くさかったから?」

「それもあるけど」


 少し間があって、桐沢先輩が苦笑する。


「格好悪かったんだよ、単純に。クシングやってます。インターハイ出ました。将来プロ目指してます”って言ってた兄ちゃんがさ。家の借金と連れのトラブルで消えます〜って、どのツラ下げて言えばいいんだよって」


「……」


「なんかさ。お前の前では、ちゃんとしてる大人っぽい何かでいたかったんだよな、当時」


 それは、ちょっと笑えるし、ちょっとムカつく理屈だ。


「だから、言わないでいなくなった。それだけ」

「それだけじゃないけどね」


 思わず、口を挟んだ。


「ウチからしたら」


 中二の冬。

 コンビニの黄色い看板と、「やめたよ」の一言と、真っ暗な帰り道。


「そんなもんだよで片づけられないくらい、デカかったからね。あの“いなくなった”は」


 桐沢先輩が、やっとこっちを見る。


「……だよな」 「うん」


 短くうなずくと、胸のどこかがじん、とする。

 怒りと、寂しさと、理解と、全部が入り混じった感覚。


「ごめん」


 今日何回目かもわかんない「ごめん」だけど。

 今までで一番、ちゃんとした「ごめん」に聞こえた。


「更生施設ってさ、名前はそれっぽいけど、中身はただの“時間稼ぎ”みたいなとこでさ。ひたすら雑用して、規則正しく生活して、真人間コースですよ〜ってレールだけ見せられて」


 淡々と話してるけど、その単語ひとつひとつが、妙に重い。


「そのあいだに、リングから完全に降りた。戻るイメージ、全然湧かなくなった」

「なんで」

「簡単だよ」


 桐沢先輩が、指をぱちんと鳴らす。


「一回逃げたやつは、戻っちゃいけないって、自分で決めたから」

「自分で?」

「そう。逃げたことをちゃんと反省してます、ってポーズ取りたかったんだと思う」


 自嘲混じりの笑い。


「もうリングには上がりません。人様殴る資格ありません。俺のリングは、皿洗いとレジ打ちと深夜のキッチンですってさ。そう決めておけば、これ以上期待されないし。失望もされねーじゃん?」


「……」


「夢追いかけたけど挫折しましたって言うより、最初から夢なんて持ってませんでした〜って顔してる方が、ダサくない気がしてさ」


 それを「ダサくない」って言えるほど、世の中割り切れてないのは、ウチにもわかる。


「でも、本音は?」


 また聞く。

 桐沢先輩は、少しだけ顔をしかめて、夜空を見上げた。


「戻りたかったよ。リングに」

 あっさりと。


「たまに会長から、戻ってこいって電話来るたびに、うっせーなとか言いながらさ。心のどっかでは、まだ間に合うかなとか、ちょっとだけ考えてた」


「……じゃあなんで」

「怖かったんだって」


 さっきと同じ単語。


「一回降りたリングに、もう一回上がって、前みたいに動けなかったり、前みたいに勝てなかったりしたら、あーやっぱダメですか〜って突きつけられるじゃん」


 拳を握るマネをしながら、少し笑う。


「それが、一番怖かった。やってればよかったかもしれないって妄想してる方が、よっぽど安全」


 聞いてて、なんか胸が詰まる。


「だから、皿洗いのリングに逃げた。俺の世界はここまでです〜って、自分で線引きした」


 しばらく、川の音だけが続いた。

 ウチは、両膝を抱える手に力を込める。


「……それ、ウチとあんま変わんないね」

「え?」

「どうせ頑張ってもムダだから、どうせ先見えないからって言って、最初から色んなこと諦めて、 どうでもいいって言ってるのと」


 自分で言って、ちょっと笑う。


「方向違うだけで、同じ穴のムジナじゃん」

「同じにすんな」


 と言いつつ、桐沢先輩の口元も笑ってた。


「でも、まあ……似てるっちゃ似てるか」

「うん。ダサさレベルが」

「ちょっと待て、それは嫌だ」


 二人で、少しだけ笑う。

 その笑いが落ち着いたころ、桐沢先輩が、ふと真面目な顔に戻る。


「でもさ」


 川面の光を見つめながら、言葉を続ける。


「俺がお前にだけは、同じダサい諦め方してほしくねーのは、マジなんだよ」

「……」


「俺はもう、別のリングで生きてくって決めちゃったからさ。それはそれで、ちゃんとやる」


 ファミレスの厨房。

 皿を洗う背中。グラスを並べる手つき。


「でも、お前まだ十七じゃん。ボクシングでも、学校でもさ。どうせムダだし〜って顔で、最初から降りるの、見たくねーんだよ」


 言葉を選ぶみたいに、ゆっくり喋る。


「卒業証書もさ。紙切れ一枚で何が変わんのって、俺も思ってたけど」


 ポケットに手を突っ込みながら、少し笑う。


「中卒の元ヤンと、高卒の元ヤン、どっち採ります?って、世の中の大人は平気で聞いてくるからな」

「やな質問」

「だろ。でも、そのクソみたいな質問でフィルターかけられんの、マジでめんどいんだよ」


 生活指導の顔を思い出して、ウチも苦笑する。


「だからさ」


 桐沢先輩が、こっちに顔を向けた。


「お前がもし、学校やめよっかなーって思う日が来たらさ。そのときだけは、一回でいいから、俺とか会長とかに話せ」

「……やめろって?」

「やめろ、って言うかもしんないし。やめんのもアリだなって言うかもしんない」


 少しだけうなずく。


「でも、自分一人で決めたからカッコイイっしょって顔で、ポンって降りるのは、マジでやめろ。それ、俺がやったやつだから」


 その言い方が、妙に刺さる。


「真似されるの、嫌なの?」

「嫌っていうか……もったいねーだろ」


 川の向こう岸の灯りが、いくつか消えていく。


「お前さ。ボクシングでも、殴るの上手いし。家のことも、なんだかんだ回してんじゃん。学校だって、本気出せばテストそこそこ取れんだろ」


「持ち上げすぎ」

「いや、割とマジで」


 桐沢先輩が、真顔になる。


「そういう、まだ残ってるもん全部、どうでもいいで燃やすの、見てらんねーんだよ」


 「見てらんねー」って言葉が、少しだけ震えてる気がした。


 ウチは、視線を膝の上に落とす。

 本当は、「どうでもよくない」ってことくらい、とっくにわかってる。

 卒業証書も。

 リングも。

 朝の「おはよう」も。

 夜のジムの鍵も。

 全部、「あってもいいかもしんない」って思い始めてる。


「……ウチさ」


 喉を通る声が、自分でも少し驚くくらい、小さい。


「なんか失敗したときに、ほらね、やっぱダメでした〜って言われんの、死ぬほどムカつくし、怖い」

「わかる」

「だから、その前に自分で、はい終わり〜って壊す方が、ラクだったんだけどさ」


 川面を見ながら、続ける。


「最近、ちょっとだけ、もうちょい粘ってもいいかもって思う瞬間あるの、マジでムカつく」

「なんでムカつくんだよ、そこで」

「負けた気がするじゃん」

「誰に」

「……知らん」


 自分で言っといて、自分で笑った。

 桐沢先輩も、つられて笑う。


「負けでいいよ、そんなの」

「簡単に言うね」

「言うよ。俺なんか、何回負けたと思ってんだ」


 指を折るマネをしてみせる。


「リングにも負けたし、借金にも負けたし、更生施設にも負けたし、今の自分ってやつにも、半分は負けてる」


 なのに、と桐沢先輩は続けた。


「それでも、誰にも見られてないとこで、ちょっとだけマシな方選ぶっての、時々やってるだけで、まだギリギリ生きてんだよ」


 ファミレスの裏口。

 ゴミ出しのときに空を見る瞬間とか。

 閉店後の静まり返ったフロアとか。

 そんな場面が、なんとなく想像できる。


「お前もさ」


 桐沢先輩が、ウチの肩を、指の背でちょん、とつつく。


「全部どうでもよくしなくていいから。今日はちょっとこっちくらいで、残しときゃいいんだよ」

「……雑だな、アドバイス」

「俺、カウンセラーじゃねーし」

「知ってる」


 でも、嫌いじゃない。

 会長の「卒業証書くらい持っとけ」と、桐沢先輩の「全部燃やすな」が、頭の中でゆっくり混ざっていく。


 川の流れは、相変わらず一定だ。

 スマホを取り出して、時間を確認する。

 日付が変わる少し前。


「……明日、学校行くの、だるいけどさ」


 膝に顎を乗せたまま、ぽつりとこぼす。


「行くわ、一応」

「一応ってとこが、お前らしいわ」


 桐沢先輩が笑う。


「サボりたくなったら、連絡しろよ」

「なんで」

「サボるときは、ちゃんと計画的にサボれって指導してやるから」

「それ指導って言わない」


 くだらないやりとりで、少しだけ肩の力が抜けた。


 さっきまで胸の中をぐるぐる回ってた「退学」とか「諦め」とかいう単語が、完全には消えないまでも、輪郭を失いかけてる。


「……なあ」


 帰り道、土手を上がりながら、ふと思いついて口を開いた。


「桐沢先輩」

「ん?」

「ウチがさ。もし、卒業までちゃんと行ったら」


 そこまで言って、一度息を吸う。


「なんか奢って」

「なんでだよ」

「ご褒美」

「自分で自分に用意しろよ、そういうの」

「ケチ」


 文句を言うと、桐沢先輩は少し考えるふりをしてから、肩をすくめた。


「じゃあ、卒業したら、なんか一個だけ奢ってやるよ」

「マジで?」

「マジで。高いもんはナシな」

「ケチ」


 二人で笑う。

 それは、ものすごくちっぽけな約束だけど「卒業」って単語が、初めて少しだけ、未来側の言葉に聞こえた。


 家への道と、ジムへの道と、河川敷への道。

 その三本が、頭の中で一本の線になっていく。

 その先に、「卒業式の日」とか、「そのあとファミレスで何奢らせるか」とか、くだらない想像が、少しだけぶら下がる。


 ポケットの中のスマホを、もう一回ぎゅっと握り直した。


「……とりあえず、明日も起きるわ」


 誰に向けてもない宣言を、小さく呟く。


 川の流れは、今日も止まらない。


 その音を聞きながら、ウチはひとつだけ、心の中で予定を増やした。


 卒業まで、あと一年ちょい。

 全部燃やし尽くすのは、そのあとでもいいかもしれない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ