トラブルの前ぶれ
その日、授業中からなんとなく、空気がザラついてた。
廊下の向こうの方で、生活指導のセンセと誰かが言い合ってる声が聞こえたり、窓の外にパトカーが止まってるのがチラッと見えたり。
「なあなあ、あれ見た?」
数学の小テストが返ってきたあと、前の席の男子が後ろを振り向いてきた。答案用紙をひらひらさせながら、ニヤニヤしている。
「コンビニの前、朝からパト来てたじゃん。なんか万引きの騒ぎらしいよ」
「また? あそこ最近多くない?」
高橋がため息混じりに言う。机の上のペンをカチカチいじりながら、わざとらしく眉をひそめてる。
「こないだもさ、夜中に警察来てたって妹が言ってた。チャリ盗んだとかなんとか」
「へー」
ウチは、答案の点数をチラ見しながら、適当に相づち打つ。
二十七点。
「×」ばっかり並んだ紙。
(まあ、こんなもんでしょ)
と思う一方で、昨日の生活指導の顔が頭をよぎる。
『このままだと進級が危ういぞ』
(……うざ)
心の中だけで小さく吐き捨てて、答案をぐしゃっと二つ折りにした。
「神崎〜、何点?」
高橋が身を乗り出してくる。
「見せねーよ」
「えー、絶対赤点でしょ。てか、先生に呼ばれてたって聞いたけど、大丈夫だったわけ?」
「大丈夫の定義によるけど」
肩をすくめると、高橋が笑った。
「退学とか言われなかった?」
「このままだと〜ってテンプレは聞いた」 「あー、出た。このままだと〜」
周りで聞いてた女子が、ふふっと笑う。
「でもさ、神崎退学とかになったら、ちょっと寂しくない?」
「なんで」
「顔面担当いなくなるじゃん」
「役割それだけ?」
「いや、怖いとき助けてくれそうだし」
冗談っぽく言って、ペンを回す。
「この前さ、校門のとこで他校の男子と揉めてたとき、生活指導より先に“お前らなにやってんの”って言いに行ったの神崎でしょ」
「あーあれ。なんかムカついたから」
「ほら。そういうとこだけ男前なんだって」
「褒めてないよね、それ」
「褒めてるって」
クスクス笑いながら、チャイムが鳴る。
先生が答案を束ねながら、「放課後に残って勉強したいやつは職員室来いよ」なんて言う声が、教室のざわめきに溶けた。
ウチはもちろん行かない。
放課後は、別口の「勉強」がある。
夜のジムで、サンドバッグ殴る練習。
◇
放課後。
靴箱のところでスニーカーに履き替えてるとき、ポケットのスマホが震えた。
画面を見ると、「亮」からLINE。
《今日ヒマ?》 《ちょい面白いとこ行こーぜ》
(ジム行くしな……)
一瞬、ジムのことが頭に浮かぶ。
今日はミットの日じゃないし、掃除当番も朝に回した。
だから、行こうと思えば、夜全部「遊び」に使える。
でも、スマホの画面の下に、「未提出課題一覧」とか「三者面談のお知らせ」とかのスクショがぼんやり透けて見える気がした。
(ちゃんと殴らないと、昨日の面談ぶんムカつき溜まってるし)
指を動かす。
《ジムある》 《そのあとなら》
数秒で既読がついて、返事。
《じゃ、23時くらいにいつものとこ集合な》 《車出す》
(……また夜ドライブか)
嬉しいかって言われると、半分くらいは「あり」。
ネオンの下で音楽ガンガン鳴らして、どうでもいい話して、「今ここだけ」で生きてる感じは、やっぱり嫌いになれない。
でも、前みたいに、全部そこに預ける気分には、もうなれない。
昨日の河川敷での会話が、頭のどっかに残ってる。
(……とりあえず、今日もジム優先でいーや)
スニーカーのかかとを踏んだまま外に出る。
昇降口のガラスに映った自分が、ネクタイをちょいゆるめて、セミロングを耳にかけてた。根元のプリンが、またちょっと伸びてる。
「そろそろ染め直す金、どっかから生えてこねーかな」
小さくぼやいて、校門を出た。
◇
ジムで一通り殴って、汗だくになって、会長に水ぶっかけられて。
「お前、顔に人殴りたいって書いてあったな、今日」
「そりゃ生活指導とテスト返却フルコースですし」
「殴るのはサンドバッグだけにしとけよ」 「わかってるって」
そんな会話をして、ジムを出たのが二十二時過ぎ。
汗で張りついたシャツが気持ち悪くて、ブレザーのボタンは全部開けたまま。ネクタイはポケット。
髪は一つ結びのゴムを外して、適当に指で梳かす。
夜風が、練習後の火照りをちょっとだけ持っていってくれた。
スマホの画面を確認する。亮からのメッセージが一件。
《着いた》 《お前来んの待ってんぞ》
ウチのアパートから、いつもの溜まり場までは歩いて五分もかからない。
コンビニとパチンコ屋の間の細い路地。空き地代わりの駐車スペース。
近づく前から、低い重低音と笑い声が聞こえてきた。
「おー、明日!」
ライトで照らされた空き地に、黒い軽と、白いワゴンが一台ずつ。
その周りに、亮たちがたむろってる。
タバコの煙。コンビニ袋。缶コーヒーとエナドリ。
いつもの「夜の匂い」だ。
「遅ぇよ、ギャルボクサー」
「ジムあったんだって」
スウェット姿の俊が、空き缶を蹴りながら笑う。
「今日も殴ってきた?」
「まあね」
ペットボトルの水を片手に、車のドアに腰を預ける。
「で、どこ行くの。面白いとこって何」
亮が、フード付きのジャケットのポケットから鍵を出して、にやっと笑う。
「なーんかさ、さっきコンビニで聞いたんだけどよ」
顎で道の向こう側のコンビニをしゃくる。
「あそこにさ、高校生っぽいガキが、ちょいちょい変なことしてんだと」
「変なこと?」
「ほら、あの万引きの噂になってたとこ」
昼間、教室で聞いた話が、頭の中でピタッと重なった。
「レジの姉ちゃんが、また来てたとか言っててさ。あの子たち怖くて注意できないんですよ〜とか、震えた声で言うわけ」
亮が、オーバーに真似して見せる。
「で、どんな奴?って聞いたらよ。髪明るい女の子と、ちょいガタイいい男の子と、その友達数人で〜って」
嫌な予感が、背筋をなでた。
(髪明るい女の子、ってだけでこっち見んなよ……)
「でさ、その髪明るい女の子の制服が、なんか見覚えあるんだよな~」
俊が、ニヤッと笑って、ウチのブレザーを指でつつく。
「こういう濃紺のブレザーに、グレーのチェックのスカートで〜、ちょいミニで〜、ミルクティーみたいな髪で〜」
「それウチじゃん」
「お前じゃねーよ」
亮が、笑いながら首を振る。
「名前までは聞いてねーけどよ。最近よくたまってるって言ってたし、多分お前の学校の奴だわ」
「……ふーん」
ウチの学校のギャルっぽい子の顔が、何人か頭に浮かぶ。
授業サボりがちで、いつもメイクばっちりで、SNSの「イイネ」命みたいな子たち。
そいつらが、こういう「ちょっと悪い先輩」とつるみはじめるのに、そう時間はかからないだろうな、ってのも想像つく。
「でさ。ウチら、そういうのほっとけない性質じゃん?」
亮が、わざとらしく肩をすくめる。
「は?」
「ちょっと様子見に行こうぜ。先輩ヅラしに」
その言葉に、一瞬、胸の奥がざわっとした。
こういうの、マジで厄介な匂いしかしない。
でも、同時に「怖いOB」みたいなポジションで、間に入って止めるって選択肢も、まったくのゼロじゃない。
実際、亮たちがいると、変なナンパとか絡みとかは、だいぶ避けられてきたのも事実だし。
「……見に行くだけなら」
思わず口から出てた。
俊が、「出た、見に行くだけ」ってニヤニヤする。
「そう言って、この前も結局朝まで走ってたくせにな」
「あれは別件でしょ」
亮が、運転席のドアを開けた。
「ほら、助手席乗れよ、明日」
「なんでウチ前」
「一番ツラが利きそうだから」
冗談めかして言いながら、ちょっとだけ本気っぽい目をしてる。
ウチが断ったら、この話は別の方向に転がるかもしれない。
ウチが乗っても、どう転ぶかはわかんない。
でも、「自分に関係ないとこで、同じ制服のやつがやらかしてる」って話を聞いて、そのまま何も見ないでいるのも、それはそれで気持ち悪い。
(……行くだけ行って、ヤバそうなら帰ればいいし)
自分にそう言い聞かせて、助手席に乗り込んだ。
シートベルトのバックルが、カチッと鳴る。
車内には、いつものラップとタバコと芳香剤の匂い。
亮がエンジンをかける。
「じゃ、ちょっと教育的指導しに行きますか」
その軽いノリが、のちにどれだけ面倒なことになるかなんて、もちろんこのときのウチは知らない。
知ってたら、多分乗ってない。
でも今はただ、「今ここがちょっと面白そう」って衝動に、ハンドルを預けたくなってた。
車が、ネオンの方へと滑り出す。
コンビニの黄色い看板が、フロントガラスの向こうに近づいてきた。
胸のどっかが、じわっとざわつく。
(……マジで、面倒ごとになりませんように)
そんな都合のいい祈りを、心の中でだけこっそり投げて、ウチは窓の外を睨んだ。




