燃え尽きるための2分間
インターハイ本選、三回戦。
会場の体育館は、むせ返るような熱気と汗の匂いが充満していた。
リングの青いマットが、天井の強い照明を反射して白く光っている。
赤コーナー。
ウチの目の前に立つのは、白石凪。
同じライトフライ級の三年生。予選からここまでの全試合をKOで勝ち上がってきた、完全な「競技者」。端正な顔立ちには、緊張も気負いも、怒りすら浮かんでいない。ただの静かな水面みたいな目をしている。あいつは並じゃない。
「行くぞ」
背中越しに声が降ってきた。
コーナーポストの外側。本来なら顧問しか入れないセコンドの席に、特別コーチという強引な名目でねじ込まれた黒いパーカーの男――桐沢先輩が立っている。
「おう」
短く返して、マウスピースを巻いた両手を軽く打ち合わせる。
客席のほうから、「神崎ー!」「がんばれー!」という甲高い声が聞こえた。
見なくてもわかる。ユイと高橋だ。なんでお前らまで来てんの、と今朝LINEで文句を言ったけど、本当はちょっとだけ心強かった。
「いいか。最初は様子見だ。むこうも最初は仕掛けてこない。こっちから突っ込むなよ」
「冗談。相手に合わせたら勝てないって。それに向こうが様子見してくれるならこっちは攻めるだけだって」
「バカ。それじゃあいなされていい的だぞ」
「かもね。でもとにかく打たなきゃ」
カーン、と始まりのゴングが鳴った。
第1ラウンド。
先輩はああ言ったけど、気持ちが自分でもどうにもならないくらい前に出る。
理屈じゃわかってもどうにも止まらないってね。
当てる。当てる。とにかく当ててやる。
が、ダメ。
当たらない。
スウェーやダッキング、ブロックで相手まで届かない。
待てこいつ!!
右ストレート。
白石は状態を反らしてかわしたかと思うと、すぐさま体を起こして打ってきた。
ガツンとウチの顔が弾かれる。
一歩踏み込んだ白石の、綺麗なワンツーがウチをのけ反らせる。
クソっ!なんでこっちが当たらない。
「バカ!もっとシャープに行け!」
先輩の声が耳に入るけど、そんな器用なことできないって。
開始十秒で、ウチが放ったパンチは十発以上。
どれもかわされたり弾かれたり。
白石はたった三発。
でも全部がクリーンヒット。
ガラス玉みたいな目でウチを見てる。
こっちのわずかなスキも見逃さない。
そしてパンチが速い。
白石のジャブは、見えない。肩が動いたと思った次の瞬間には、もう目の前にグローブがある。
パン、と乾いた音がして、顔が弾かれた。
痛いというより、視界が急にずれる感覚。
踏み込もうとした足がもつれ、バランスを崩してマットに手をつく。
「ダウン!」
レフェリーの声が響く。スリップダウン。ダメージはないけど、完全に出鼻をくじかれた。
「……っつ」
立ち上がって構え直す。でも、白石は表情ひとつ変えずに、また正確なジャブを飛ばしてくる。
打たれる。ガードの上からでも、骨が軋むような重さがある。
下がらない。下がるわけにはいかない。
でも、手が出ない。手を出そうとすると、その隙間に必ず白石のパンチが飛んでくる。
圧倒的な技術の差。経験の差。
だけど自然と顔がにやけてくる。
体の芯から熱くなって、自分でも何が楽しいんだかわからないけど。
それにしても涼しい顔して、人を殴りやがって。
遮二無二パンチを繰り出すも、1ラウンド終了のゴングが鳴るまで、ウチはただのサンドバッグだった。
「座れ」
コーナーに戻ると、先輩が丸椅子を差し出した。
水を口に含ませ、バケツに吐き出させる。
「少しは言うこと聞け。それに、見えてねえな。相手のパンチ」
「……速すぎんだよ」
「あいつのジャブは、肩じゃなくて足から来てる。足の踏み込みを見ろ」
先輩の声は、不思議なくらい落ち着いていた。
「お前は、まだ死んでないよな。いけるか」
「……当たり前だろ」
「相手の様子見は終わりだ。次のラウンドから、飛ばしてくるぞ。左を主体でダウンをとりに来る」
「こっからが本気なわけね」
それは願ったりだ。
「なんか嬉しそうだな」
あの凄い奴が、ここで本気を出したらどうなるのか?
楽しみで仕方ない。
負けるとか、勝つとか、そんなことよりただただこの瞬間がたまらない。
「むこうの得意のジャブに、右を合わせろ。流れが変わる」
「あの早いジャブに合わせるとか、ハードル高いな」
「やれるか?」
「やるよ」
やってやる。
息を吐き出して、立ち上がる。
第2ラウンド。
白石の動きは、さらに洗練されていた。無駄が削ぎ落とされ、機械のように正確に急所を狙ってくる。
開始三十秒。
踏み込もうとしたウチの顔面に、白石の右ストレートが完璧なタイミングで突き刺さった。
視界が白く飛んだ。
その隙にボディーに二発、ワンツーが入る。
脳が揺れて、足の感覚が消える。
ドスン、と背中からマットに落ちた。正真正銘のダウン。
「ワン! ツー!」
レフェリーのカウントが遠くで聞こえる。
天井の照明が、やけに眩しい。
――ああ、これか。
頭の奥で、変な冷静さが広がっていく。
あいついま、何発殴った?ウチ、五回殴られたか。
白石すげえな。
視界の端で、いろんなものがフラッシュバックする。
テーブルの上に放り出された、赤いスタンプが押された電気代の請求書。
なんにも言わずにいなくなった父親の背中。
「知らない」とだけ言ってテレビを見ていた母親の横顔。
職員室で「退学」の二文字を突きつけられたときの、あの冷たい空気。
全部、どうでもよかった。
どうでもいいフリをして、適当にやり過ごしてきた。
でも、今は違う。
今、ここで寝っ転がったまま終わったら、ウチは本当に「どうでもいい」ゴミクズになる。
「……シックス! セブン!」
冗談じゃない。
ここで終わるために、あの河川敷で「あした起きてやる」って言ったわけじゃない。
今までのウチの全部を、あの薄汚いガムテープで塞いできた感情を、ここで全部燃やし尽くすんだ。
指、手、足、大丈夫。動かせる。いける。
マットを蹴って、立ち上がる。
ダウンしてる時間すらもったいないんだよ、こっちは。
足元はふらついてるけど、目は白石から逸らさない。
白石のガラス玉みたいな目に、初めて微かな驚きの色が浮かんだのが見えた。
「ファイト!」
試合再開。
白石が、トドメを刺しにくる。鋭いジャブが飛んでくる。
先輩の言葉が蘇る。足の踏み込みを見ろ。
――見えた。
白石の左足が動いた瞬間、ウチはガードを下げて、右ストレートを思い切り振り抜いた。
相打ち覚悟の、捨て身のカウンター。
バチィッ!
鈍い音が響いた。
ウチの頬を白石のジャブが掠めたのと同時に、ウチの右ストレートが白石の顎を捉えていた。
白石の体が、ぐらりと揺れる。
展開が変わった。
どうよ?ウチのパンチは。
こっからだ。
技術がないなら、威力でねじ伏せるしかない。
相手が三発打ってくるなら、そのうちの一発を顔面で受けてでも、こっちの一発を当てる。
打たれる。打ち返す。
相変わらず、突き刺さるようなジャブ。
次の右フックをかわして懐に入る。
左フックの後に左ボディー。
ガードしながら体制が崩れた白石の顔面に右フック。
体勢を崩しながらもガードして距離をとろうとする白石。
逃がすかよ。
ウチは、さらに踏み込んで右の拳に全体重を乗せた。ただのストレートじゃない。
当たる瞬間に、手首を内側に鋭く捻り込む。
ジムのサンドバッグを殴りながら、どうやったら一番「壊せる」かを考えて、自分で編み出した打ち方。骨の髄までぶち砕くつもりの、殺意の塊みたいなパンチ。
ドンッ!
捻り込んだ拳が、白石のガードの上からでも、その姿勢を崩させる。
白石の顔が歪む。初めて、明確な「痛み」の表情。
間違いなく届いてる。
第2ラウンド終了のゴング。
コーナーに戻ると、先輩が目を見開いて立っていた。
「……お前、今の右。その手首の返し、誰に教わった」
「誰にも。……ウチのオリジナル」
息を切らしながら笑ってやると、先輩は呆れたように息を吐いた。
「バカかお前は。手首壊すぞ」
「壊れてもいいし。……あと二分しか使わないから」
先輩は一瞬黙って、それから、少しだけ口角を上げた。
「見なよ先輩。白石のやつ、こっちを睨んでる」
「簡単な相手じゃない。おまえが嫌な奴って認識したんだ」
「そうこなくっちゃ」
「ラストだ。行ってこい」
「おう」
最終、第3ラウンド。
白石がいきなり打ち込んできた。
コンビネーションにガードが追い付かない。
それでも打ち返す。
自然と、お互いに足は止まり、リングの中央で足を止めての打ち合いになる。
汗が飛び散る。
顎がパンチで上がる。
脚を踏ん張り打ち返す。
上下に打ち分けて、崩して叩き込む。
客席のユイと高橋が、泣きながら何か叫んでいるのが聞こえる。
痛い。苦しい。息ができない。
でも、最高に気分がいい。
残り三十秒。
白石の右ストレートを紙一重でかわし、ウチは最後の一撃を放った。
手首を限界まで捻り込んだ、渾身の右フック。
完璧なタイミングで、白石の顎を撃ち抜いた。
白石の体が宙に浮き、崩れ落ちる。
ダウン。
会場が、爆発したように沸いた。
レフェリーがカウントを始める。
白石は、カウントエイトで立ち上がった。さすがは全国一。意地でも倒れたままでは終わらない。
試合再開。
ウチは残りの体力を全部使って押し込んだ。打って、打って、打ちまくった。
白石も打ち返す。
ここにきて白石のギアがさらに上がる。
ウチも食らいつく。
もう、コンビネーションとか、打ち分けるとか、そんなこと考えられない。
ただ、ひたすら、よけやすい方へ体を動かし、打ちやすい場所にパンチを繰り出した。
カン、カン、カン、カン!
試合終了のゴング。
レフェリーが間に入り、二人を引き離す。
ウチは、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
自軍コーナーへ戻った白石が、崩れるようにイスに座り込む。
その目はギラギラとウチを見てる。
『やったよ……出し切った』
朦朧としながらも、はっきりとそういう意識があった。
コーナーに戻ると全身の力が抜けたように膝が折れた。
用意された椅子に座ると、マウスピースを吐き出した。
「凄かったな」
「へへ……。そう?」
「ああ」
先輩が、ヘッドギアを外したウチの頭をタオルでガシガシと拭く。
「あんま頭揺らすな。落ちるし」
「悪い」
今集計してる。
間もなく判定だ。
レフェリーに呼ばれて、ウチと白石はリング中央に。
判定。
3対0。白石の勝ち。
レフェリーが白石の手を高々と掲げた。
場内が拍手に包まれる中、負けたウチの中には、これまで味わったことがない充実感が灯っていた。不思議と悔しさはなかった。
客席のほうを見ると、ユイと高橋が、顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら手を振っている。
ウチは、マウスピースを吐き出して、大きく息を吸い込んだ。
体中が痛くて、熱くて、ボロボロで。
「あんた。プロになるの?」
ふいに白石が話しかけてきた。
「さあ。考えたことないし」
「なりなよ」
「なんでさ?」
「次はきっちり勝ちたいから」
「考えとく」
ウチはそれだけ言うと、コーナーへ戻った。
白石凪。
なんか、めんどくさそうな知り合い増えたな。
でもちょっと嬉しい自分がいる。
リングに向かって一礼してから、降りた。
『出し切った』
誰に言うでもなく、心の中で一言だけ、もう一度だけ呟いた。
ウチの「あした」は、ここから始まる……かも。




