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あした  作者: 秦江湖


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28/29

燃え尽きるための2分間

インターハイ本選、三回戦。


 会場の体育館は、むせ返るような熱気と汗の匂いが充満していた。


 リングの青いマットが、天井の強い照明を反射して白く光っている。



 赤コーナー。


 ウチの目の前に立つのは、白石凪しらいし・なぎ


 同じライトフライ級の三年生。予選からここまでの全試合をKOで勝ち上がってきた、完全な「競技者」。端正な顔立ちには、緊張も気負いも、怒りすら浮かんでいない。ただの静かな水面みたいな目をしている。あいつは並じゃない。



「行くぞ」


 背中越しに声が降ってきた。


 コーナーポストの外側。本来なら顧問しか入れないセコンドの席に、特別コーチという強引な名目でねじ込まれた黒いパーカーの男――桐沢先輩が立っている。


「おう」


 短く返して、マウスピースを巻いた両手を軽く打ち合わせる。


 客席のほうから、「神崎ー!」「がんばれー!」という甲高い声が聞こえた。


 見なくてもわかる。ユイと高橋だ。なんでお前らまで来てんの、と今朝LINEで文句を言ったけど、本当はちょっとだけ心強かった。


「いいか。最初は様子見だ。むこうも最初は仕掛けてこない。こっちから突っ込むなよ」


「冗談。相手に合わせたら勝てないって。それに向こうが様子見してくれるならこっちは攻めるだけだって」


「バカ。それじゃあいなされていい的だぞ」


「かもね。でもとにかく打たなきゃ」


 カーン、と始まりのゴングが鳴った。


 第1ラウンド。


先輩はああ言ったけど、気持ちが自分でもどうにもならないくらい前に出る。


理屈じゃわかってもどうにも止まらないってね。



当てる。当てる。とにかく当ててやる。


が、ダメ。


当たらない。


スウェーやダッキング、ブロックで相手まで届かない。


待てこいつ!!


右ストレート。


白石は状態を反らしてかわしたかと思うと、すぐさま体を起こして打ってきた。


ガツンとウチの顔が弾かれる。


一歩踏み込んだ白石の、綺麗なワンツーがウチをのけ反らせる。


クソっ!なんでこっちが当たらない。


「バカ!もっとシャープに行け!」


先輩の声が耳に入るけど、そんな器用なことできないって。


 開始十秒で、ウチが放ったパンチは十発以上。


どれもかわされたり弾かれたり。


白石はたった三発。


でも全部がクリーンヒット。


ガラス玉みたいな目でウチを見てる。


こっちのわずかなスキも見逃さない。


 そしてパンチが速い。


 白石のジャブは、見えない。肩が動いたと思った次の瞬間には、もう目の前にグローブがある。


 パン、と乾いた音がして、顔が弾かれた。


痛いというより、視界が急にずれる感覚。


 踏み込もうとした足がもつれ、バランスを崩してマットに手をつく。


「ダウン!」


 レフェリーの声が響く。スリップダウン。ダメージはないけど、完全に出鼻をくじかれた。


「……っつ」


 立ち上がって構え直す。でも、白石は表情ひとつ変えずに、また正確なジャブを飛ばしてくる。


 打たれる。ガードの上からでも、骨が軋むような重さがある。


 下がらない。下がるわけにはいかない。


 でも、手が出ない。手を出そうとすると、その隙間に必ず白石のパンチが飛んでくる。


 圧倒的な技術の差。経験の差。


だけど自然と顔がにやけてくる。


体の芯から熱くなって、自分でも何が楽しいんだかわからないけど。


それにしても涼しい顔して、人を殴りやがって。



 遮二無二パンチを繰り出すも、1ラウンド終了のゴングが鳴るまで、ウチはただのサンドバッグだった。



「座れ」


 コーナーに戻ると、先輩が丸椅子を差し出した。


 水を口に含ませ、バケツに吐き出させる。


「少しは言うこと聞け。それに、見えてねえな。相手のパンチ」


「……速すぎんだよ」


「あいつのジャブは、肩じゃなくて足から来てる。足の踏み込みを見ろ」


 先輩の声は、不思議なくらい落ち着いていた。


「お前は、まだ死んでないよな。いけるか」


「……当たり前だろ」


「相手の様子見は終わりだ。次のラウンドから、飛ばしてくるぞ。左を主体でダウンをとりに来る」


「こっからが本気なわけね」


それは願ったりだ。


「なんか嬉しそうだな」


あの凄い奴が、ここで本気を出したらどうなるのか?


楽しみで仕方ない。


負けるとか、勝つとか、そんなことよりただただこの瞬間がたまらない。



「むこうの得意のジャブに、右を合わせろ。流れが変わる」


「あの早いジャブに合わせるとか、ハードル高いな」


「やれるか?」

「やるよ」


やってやる。


 息を吐き出して、立ち上がる。



 第2ラウンド。


 白石の動きは、さらに洗練されていた。無駄が削ぎ落とされ、機械のように正確に急所を狙ってくる。


 開始三十秒。


 踏み込もうとしたウチの顔面に、白石の右ストレートが完璧なタイミングで突き刺さった。


 視界が白く飛んだ。


その隙にボディーに二発、ワンツーが入る。


 脳が揺れて、足の感覚が消える。


 ドスン、と背中からマットに落ちた。正真正銘のダウン。


「ワン! ツー!」


 レフェリーのカウントが遠くで聞こえる。

 天井の照明が、やけに眩しい。


 ――ああ、これか。


 頭の奥で、変な冷静さが広がっていく。


あいついま、何発殴った?ウチ、五回殴られたか。


白石すげえな。


 視界の端で、いろんなものがフラッシュバックする。


 テーブルの上に放り出された、赤いスタンプが押された電気代の請求書。


 なんにも言わずにいなくなった父親の背中。


 「知らない」とだけ言ってテレビを見ていた母親の横顔。


 職員室で「退学」の二文字を突きつけられたときの、あの冷たい空気。



 全部、どうでもよかった。


 どうでもいいフリをして、適当にやり過ごしてきた。


 でも、今は違う。


 今、ここで寝っ転がったまま終わったら、ウチは本当に「どうでもいい」ゴミクズになる。



「……シックス! セブン!」


 冗談じゃない。


 ここで終わるために、あの河川敷で「あした起きてやる」って言ったわけじゃない。


 今までのウチの全部を、あの薄汚いガムテープで塞いできた感情を、ここで全部燃やし尽くすんだ。


指、手、足、大丈夫。動かせる。いける。


 マットを蹴って、立ち上がる。


 ダウンしてる時間すらもったいないんだよ、こっちは。


 足元はふらついてるけど、目は白石から逸らさない。


 白石のガラス玉みたいな目に、初めて微かな驚きの色が浮かんだのが見えた。


「ファイト!」


 試合再開。


 白石が、トドメを刺しにくる。鋭いジャブが飛んでくる。


 先輩の言葉が蘇る。足の踏み込みを見ろ。


 ――見えた。


 白石の左足が動いた瞬間、ウチはガードを下げて、右ストレートを思い切り振り抜いた。


 相打ち覚悟の、捨て身のカウンター。


 バチィッ!


 鈍い音が響いた。


 ウチの頬を白石のジャブが掠めたのと同時に、ウチの右ストレートが白石の顎を捉えていた。


 白石の体が、ぐらりと揺れる。


 展開が変わった。


どうよ?ウチのパンチは。

こっからだ。


 技術がないなら、威力でねじ伏せるしかない。


 相手が三発打ってくるなら、そのうちの一発を顔面で受けてでも、こっちの一発を当てる。


 打たれる。打ち返す。


相変わらず、突き刺さるようなジャブ。

次の右フックをかわして懐に入る。


左フックの後に左ボディー。


ガードしながら体制が崩れた白石の顔面に右フック。


体勢を崩しながらもガードして距離をとろうとする白石。


逃がすかよ。


 ウチは、さらに踏み込んで右の拳に全体重を乗せた。ただのストレートじゃない。


 当たる瞬間に、手首を内側に鋭く捻り込む。


 ジムのサンドバッグを殴りながら、どうやったら一番「壊せる」かを考えて、自分で編み出した打ち方。骨の髄までぶち砕くつもりの、殺意の塊みたいなパンチ。


 ドンッ!


 捻り込んだ拳が、白石のガードの上からでも、その姿勢を崩させる。


 白石の顔が歪む。初めて、明確な「痛み」の表情。


間違いなく届いてる。


 第2ラウンド終了のゴング。


 コーナーに戻ると、先輩が目を見開いて立っていた。



「……お前、今の右。その手首の返し、誰に教わった」


「誰にも。……ウチのオリジナル」


 息を切らしながら笑ってやると、先輩は呆れたように息を吐いた。


「バカかお前は。手首壊すぞ」


「壊れてもいいし。……あと二分しか使わないから」


 先輩は一瞬黙って、それから、少しだけ口角を上げた。


「見なよ先輩。白石のやつ、こっちを睨んでる」


「簡単な相手じゃない。おまえが嫌な奴って認識したんだ」


「そうこなくっちゃ」


「ラストだ。行ってこい」


「おう」



 最終、第3ラウンド。


 白石がいきなり打ち込んできた。


コンビネーションにガードが追い付かない。


それでも打ち返す。


 自然と、お互いに足は止まり、リングの中央で足を止めての打ち合いになる。


 汗が飛び散る。

顎がパンチで上がる。

脚を踏ん張り打ち返す。


上下に打ち分けて、崩して叩き込む。


 客席のユイと高橋が、泣きながら何か叫んでいるのが聞こえる。


 痛い。苦しい。息ができない。

 でも、最高に気分がいい。



 残り三十秒。


 白石の右ストレートを紙一重でかわし、ウチは最後の一撃を放った。


 手首を限界まで捻り込んだ、渾身の右フック。


 完璧なタイミングで、白石の顎を撃ち抜いた。


 白石の体が宙に浮き、崩れ落ちる。


 ダウン。


 会場が、爆発したように沸いた。



 レフェリーがカウントを始める。


 白石は、カウントエイトで立ち上がった。さすがは全国一。意地でも倒れたままでは終わらない。


 試合再開。


 ウチは残りの体力を全部使って押し込んだ。打って、打って、打ちまくった。


白石も打ち返す。


ここにきて白石のギアがさらに上がる。

ウチも食らいつく。


もう、コンビネーションとか、打ち分けるとか、そんなこと考えられない。


ただ、ひたすら、よけやすい方へ体を動かし、打ちやすい場所にパンチを繰り出した。



 カン、カン、カン、カン!


 試合終了のゴング。


 レフェリーが間に入り、二人を引き離す。


 ウチは、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。


自軍コーナーへ戻った白石が、崩れるようにイスに座り込む。


その目はギラギラとウチを見てる。


『やったよ……出し切った』


朦朧としながらも、はっきりとそういう意識があった。


コーナーに戻ると全身の力が抜けたように膝が折れた。


用意された椅子に座ると、マウスピースを吐き出した。


「凄かったな」

「へへ……。そう?」

「ああ」


先輩が、ヘッドギアを外したウチの頭をタオルでガシガシと拭く。


「あんま頭揺らすな。落ちるし」

「悪い」


今集計してる。

間もなく判定だ。


レフェリーに呼ばれて、ウチと白石はリング中央に。



 判定。

 3対0。白石の勝ち。



レフェリーが白石の手を高々と掲げた。


場内が拍手に包まれる中、負けたウチの中には、これまで味わったことがない充実感が灯っていた。不思議と悔しさはなかった。


 客席のほうを見ると、ユイと高橋が、顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら手を振っている。


 ウチは、マウスピースを吐き出して、大きく息を吸い込んだ。


 体中が痛くて、熱くて、ボロボロで。


 「あんた。プロになるの?」


ふいに白石が話しかけてきた。


「さあ。考えたことないし」

「なりなよ」

「なんでさ?」

「次はきっちり勝ちたいから」

「考えとく」



ウチはそれだけ言うと、コーナーへ戻った。


白石凪。


なんか、めんどくさそうな知り合い増えたな。


でもちょっと嬉しい自分がいる。


 リングに向かって一礼してから、降りた。


『出し切った』


 誰に言うでもなく、心の中で一言だけ、もう一度だけ呟いた。



 ウチの「あした」は、ここから始まる……かも。





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