あした
スマホの着信音が、アラームより先に鳴った。
枕元でぶるぶる震えるスマホをつかんで、片目だけ開ける。画面には、青い文字。
《先輩》
時間は七時ちょうど。律儀すぎ。
「……なに」
通話ボタンを押すと、テンション高めの声が鼓膜を直撃した。
『おはようございます、明日さん。起きてますかー』
「うざ。声でかい。近所迷惑」
『どうせ一人暮らしみたいなもんでしょ。で? 今、布団の中でなにって言ってない?』
「ちゃんと起きてるし。ほら、座った」
ベッドの上で半分だけ体を起こす。髪が肩に落ちて、プリンの根元が視界の端にちらっと入る。
『今日はサボれないぞー』
「誰がサボるかよ。……卒業式なんだけど?」
『そう、それそれ。ちゃんと卒業してこいよ』
軽い調子のくせに、いつもより少しだけ声が柔らかい。
『あ、証書もってる写真、あとで送れ』
「やだ。ダサいし」
『ダサいのがいいの。そういうのが、ちゃんと終わらせたって証拠だからさ』
「……はいはい。わかったから切る。準備すんの、ウチだから」
『はいはい。今日も生きててえらい。じゃ、行ってらっしゃい、卒業生』
「まだ行ってねーし」
ぷつっと通話を切ってから、大きく伸びをする。布団を蹴飛ばして立ち上がり、水で顔を洗う寝起きで目が半開きだ。
歯を磨いて、髪をブラシでとかす。今日は、いつもより少しだけ丁寧にコテで巻いた。プリンはごまかしきれてないけど、まあ、いい。
ネクタイを、いつもよりきっちり結んでみる。
「……別に。誰に見せるわけでもないし」
そうつぶやきながら玄関に向かったとき、キッチンから音がした。
「あかり?」
振り向くと、母が立っていた。いつものよれよれTシャツじゃなくて、ブラウスにカーディガンなんて着てる。妙に落ち着かない。
「今日、ほんとに卒業なのね」
「そりゃ、三年いたし。……ありがと」
思ったより簡単に、その二文字が出た。
母が、少し目を丸くする。
「……あんたがありがとなんて言うと、雪でも降るんじゃない?」
「もう春だし」
「そうね。春だわ」
ぎこちない笑いのあと、母は少しだけ視線を落とした。
「卒業、おめでとう」
「まだしてないし」
「でも、するでしょ?」
「……するけど」
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まる直前、その言葉がちゃんと耳に届いた。
◇
校門前は、人とスーツとスマホのカメラでごちゃごちゃしてた。
教室に入ると、いつものざわざわとは違う空気。机の上には花束とか寄せ書きとか。
「おはよー、明日!」
いつもの声が、真っ先に飛んでくる。
ユイが、ワンピースの上からブレザーを着て、ショートボブをいつもよりちゃんと巻いていた。
「なに。その女子力」
「褒めて? 卒業だから、ちょい盛り」
「調子乗んな」
「明日もさ、いつもよりちゃんとしてんじゃん。ネクタイ曲がってないし」
「いつも曲がってる前提やめろ」
そう言いながら、自分でもブレザーの前をちらっと見る。たしかに、今日はボタンを全部留めてる。
「はい、これ」
ユイが小さな紙袋を差し出した。中から出てきたのは、個包装のクッキー。
「肉まんじゃないんだ」
「さすがに式の日にコンビニ肉まんはやめた。これは卒業おめでとうクッキー。でも放課後は肉まんだから安心して」
「なにその安心」
くだらない会話なのに、「ありがと」が自然に出た。ユイがにかっと笑う。
「どういたしまして。卒業おめでと、明日」
「まだしてないし」
「でも、するでしょ?」
また同じやりとり。なんか、今日はこのパターン多すぎ。
◇
体育館。花の匂いと人いきれと、どうでもいい来賓スピーチ。
名前を一人ずつ呼ばれて、返事をして壇上に上がる。
「神崎 明日」
自分の名前が響いた瞬間、心臓が一回だけ大きく跳ねた。
「……はい」
立ち上がって、証書の筒を受け取る。中身なんて紙切れ一枚だ。それでも、ここまでの三年間――停学騒ぎも、不良トラブルも、退学ギリギリから戻ってきた日々も――高3の夏のインターハイも――ぜんぶひっくるめて、この筒に押し込まれてる気がした。
席に戻るとき、なんとなく観客席を見やる。カーディガンの袖をいじりながらこっちを見てる人影。たぶん、母だ。
目が合ったかどうかはよくわからない。でも、「見られてる」って感覚だけは、ちゃんとあった。
◇
式もホームルームも終わって、教室は写真大会になった。
「明日ー! 一枚だけでいいから!」
「やだ。マジ無理」
「うるさい。はい、校門前で」
ユイに腕を引っ張られて、校門の前でスマホを向けられる。
「笑えないんだけど」
「じゃ、肉まんのこと考えて」
「意味わかんねー」
それでも、シャッターの瞬間、口の端が勝手に上がった。
昇降口を抜けて外に出ると、スマホが震く。先輩からのLINE。
《証書持った自撮りまだ?》
「せっかちかよ」
ため息をついてから、筒を片手に適当にセルフィーを撮る。顔半分隠して、「卒業」とだけ送った。
《おー。やったな、明日。おめでと》
すぐに返事が来る。
――別に。あんたのために卒業したわけじゃないし。
心の中でそう悪態つきながらも、ポケットの中でスマホがちょっとだけ重く感じた。
◇
夕方。ジムのドアをくぐると、ゴムと汗の匂いがいつもどおり鼻に来た。
「おーい、卒業証書持ったアホ来たぞー」
トレーナーが、わざとらしく声を張る。
「言い方。ほら」
筒を突き出すと、会長はニヤニヤしながら受け取った。
「紙切れ一枚のくせに、重てえな。ほら、こっち見ろ」
奥の壁を指さされて、視線をやる。
そこには、最近増えた写真が一枚。青いキャンバスの上で、ヘッドギアずらしかけたウチが、思いきりワンツーをもらってる瞬間。
下のプレートには、「全国高校総体 本選三回戦」と印刷されてた。
「……マジで外して。その瞬間なの?」
「一番カッコいいとこ選んだに決まってんだろ」
鼻で笑う。
「この試合の相手、覚えてるか?そいつ、このあと全部勝って優勝したからな」
「……知ってるし」
白石凪。
忘れたことない。
「ウチが負けたやつが優勝とか、マジむかつくんだけど」
「光栄に思え。全国一のやつにフルラウンド付き合ってもらったんだ。安上がりな経験だろ」
「どこがだよ」
写真の中の自分は、明らかに押されてて、顔も歪んでる。でも、その顔は、逃げてる顔じゃなかった。
あのときは、ちゃんと終わった。出し切った。
ゴングが鳴ったとき、最初に頭に浮かんだのはそれだった。
「……次会ったら、ぶっ倒すけどね」
気づいたら、口が勝手にそう言ってた。
「お?」
会長の目が少しだけ細くなる。
「いいね。そういうの」
「別に。会えるかどうかもわかんねーし。言うだけタダだし」
「言うだけのヤツはこのジムにいらねえよ。言ったからには、またリング上がれ」
「はいはい」
肩をすくめて、ロッカーに向かう。今日はハードなスパーじゃなくて、軽く動くだけの予定。それでも、リングシューズに履き替えると、足の裏が少しだけうずうずした。
◇
練習を早めに切り上げて、河川敷に向かう。夕焼けが、川面を薄いオレンジ色にしていた。
いつものベンチには、缶じゃなくて紙コップを二つ持った先輩がいた。隣には、コンビニの袋。どうせ中身は決まってる。
「遅い。サボった?」
「サボってねーし。ジム行ってたし」
「知ってる。会長が写真送ってきた。こいつの顔、三回戦のときと同じだって」
「アイツ余計なことすんな」
先輩から紙コップを一つ受け取る。カップのフタの隙間から、甘いココアの匂いが立ちのぼる。
「で、卒業証書、見せろ」
「はい」
筒をちょいと差し出すと、先輩はわざとらしく拝むポーズをした。
「ありがたや、ありがたや。俺の好きなギャルがちゃんと高校出た証」
「その言い方やめろ。寒気する」
「でも、本気で思ってるよ」
先輩は、紙コップをちびちび飲みながら、川のほうを見る。
「最初さ、中学生のとき、明日なんか来なくてよくね?って顔してコンビニ来てたじゃん」
「そんな顔してた?」
「してた。レジ越しに、明日なんかクソって空気がだだ漏れだった」
「失礼な」
「で、今日」
先輩は、こっちをちらっと見る。
「卒業して、ジムで自分の写真見て、次会ったらぶっ倒すとか言ってる」
「聞いてたの?」
「会長から逐一報告きてます」
「あのジジイ、マジでチクり魔だな」
風が、毛先を揺らす。川の音と街のざわめきのあいだで、自分の声がどこか他人事みたいに響く。
「……まあ、別にさ」
紙コップのフタに指で輪っかを描きながら、ぽつりと言う。
「明日が楽しみ、とか、そういう綺麗ごとは言わないけど」
「うん」
「明日も、今日くらいなら。コンビニ行って、誰かと肉まん食って、ジム行って、ここでバカ話して。それくらいなら、別に、起きてきてもいいかなって」
「おお」
先輩の口元が、ゆるく上がる。
「お前の名前さ」
「はいきた」
「明日って書いてあかりって、やっぱいいよな」
「またそれ。何回言うの」
「何回でも言うよ」
先輩は笑う。
「明日って言葉はさ、ただの日付だけど。あかりって読んだ瞬間、ちょっと光っぽくなるじゃん。暗いとこで、小さくても灯ってる感じ」
前にも聞いたフレーズ。それでも、今日聞くと、少し違って聞こえる。
昔は、「うざ」で跳ね返してた。今は、ちゃんと胸の中で転がせる。
「……じゃあさ」
川面を見ながら、ゆっくりと言う。
「ウチの明日は、まだけっこう暗いかもしんないけど」
「うん」
「あかりくらいは、自分でつけてやってもいいかなって」
言ってから、自分でゾワッとする。なにポエム読んでんの、ウチ。
神崎 明日の、あした。
今までバラバラだったその二つが、どこかでちゃんと重なった気がした。
名前と日付と、生きてる時間。
それをぜんぶ、「明日」って一文字で呼んでもいいかもしれないって、初めてちょっとだけ思えた。
「で、これからどうすんの? インターハイも卒業も終わって」
「知らね」
即答すると、先輩が吹き出す。
「進学とか就職とか、ボクシング続けるとか。何も決めてないし。てか、決めらんないし」
「だろうね」
「なにその納得」
「でも、何も決めてないってことは、まだどうにでもできるってことだからさ」
「簡単に言うなって」
「簡単に言う担当だから、俺は」
「役職あったんだ」
二人で笑う。笑い声が、川の音に混ざっていく。
「とりあえずさ」
紙コップのココアを飲み干して、ウチは言う。
「明日は、自分で起きる。先輩に起こされるんじゃなくて。自分で起きて、自分でどこ行くか決める」
「かっけーじゃん」
先輩が、わざとらしく拍手するまねをした。
風が、毛先を揺らす。空には、いつの間にか星が増えていた。街の光でぼやけてても、それでも、そこにある。
「……あした」
小さくつぶやいてみる。
神崎 明日の、『あした』。
その二つが重なったとき、どこかでちいさく灯りがついた気がした。
ウチはその灯りを、グローブじゃなくて、ちゃんと素手で握る。
痛くもないし、燃えもしない。ただ、確かにあったかい。
たぶん、あしたも、起きてやってもいい。




