あしたのために
インターハイ本選の会場は、隣県の総合体育館だった。
一回戦、二回線と勝ち上がって、明日は三回戦。
前日入りしたウチは、顧問が取ってくれた安いビジネスホテルのベッドに寝転がっていた。
狭いシングルルーム。壁紙は微妙にくすんでいて、冷蔵庫のモーター音がやたらと大きく響く。
スマホの画面を見ると、時刻は夜の十時を回ったところだった。
《明日、計量終わった?》
《生きてる? 干からびてない?》
《既読つけろー》
ユイからのLINEが、五分おきくらいに飛んできている。
《終わったし。生きてるし》
一言だけ返すと、すぐにスタンプが返ってきた。うさぎがガッツポーズしているやつ。
《明日がんばれ! ウチは学校から念送っとくから!》
「念って……」
苦笑いしながら、スマホをベッドに放り投げる。
計量は今日の夕方に終わった。ライトフライ級のリミット、四八・九キロ。
減量自体はそこまでキツくなかった。もともと食に執着がないせいか、「食うな」と言われれば食べないことくらいは簡単にできた。
ただ、水抜きだけは少しだけしんどかった。
計量後に飲んだスポーツドリンクは、今まで生きてきた中で一番うまかった。大げさじゃなく、体の細胞一つ一つに水分が染み込んでいくのがわかった。
「生きてる」って感覚が、液体になって喉を通り抜けていくみたいだった。
ベッドから起き上がり、部屋の窓から外を見る。
知らない街の、知らない夜景。
コンビニの看板と、車のヘッドライト。どこにでもある景色なのに、明日ここで自分がリングに上がると思うと、なんだか少しだけ違う世界に見えた。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
「神崎さん、起きてる?」
ドア越しに顧問の声。
鍵を開けると、ジャージ姿の顧問が立っていた。手には、コンビニの袋。
「体調どう?」
「別に。普通」
「そう」
顧問は、袋の中からゼリー飲料を二つ取り出して、ウチに差し出した。
「消化にいいやつ。明日の朝、会場入る前に飲んどきなさい」
「……どうも」
受け取ると、顧問は少しだけ気まずそうに頭を掻いた。
「あのね、神崎さん」
「なに」
「あなた、よくここまで来たね」
唐突な言葉に、ウチは眉をひそめた。
「何それ。急に教師ぶるのやめてよ。気持ち悪い」
「いや、私もそう思うんだけど」
顧問は苦笑いした。
「最初にあなたが入部届持ってきたとき、正直、すぐ辞めると思ってた。停学明けの不良が、なんか思いつきで始めただけだろうって」
「……」
「でも、神崎さん、休まなかったね。部活も、ジムも。私はボクシングの技術的なことはよくわからないけど、あなたがリングに上がるとき、ちゃんと『覚悟』みたいなものを持ってるのは伝わるの」
覚悟。
そんな大層なもの、持ってるつもりはない。ただ、「自分でケリをつける」って決めただけだ。
「明日の相手、シード校の三年生だって。強いわよ」
「知ってる」
「勝てる?」
「わかんない」
ウチは、手の中のゼリー飲料を見つめながら言った。
「でも、逃げないから」
顧問は、一瞬だけ驚いたような顔をして、それから深く頷いた。
「そう。じゃあ、明日にそなえて早く寝ておきなさい」
「はいはい」
ドアが閉まる。
部屋に一人残されて、ウチはもう一度ベッドに寝転がった。
スマホが、また小さく震える。
今度は、先輩からだった。
《明日の試合、何時から?》
《昼くらい。第十五試合だから》
《了解。俺もセコンドで着くから》
《はいよ》
画面を見ながら、自然と口角が上がる。
先輩も、ユイも、顧問も、ジムの会長も。
みんな、ウチが明日リングに上がることを知っている。ウチが、逃げずに殴り合うことを待っている。
「……めんどくさ」
小さくつぶやいて、部屋の電気を消した。
暗闇の中で、冷蔵庫のモーター音だけが響く。
目を閉じると、桐沢先輩とのスパーリングの感覚が蘇ってくる。
ガードの上から叩き込まれた、重いパンチ。
息が詰まるようなプレッシャー。
それでも、最後に打ち込んだ右ストレートの感触。
自分で終わらせる。
心臓の音が、少しだけ早くなる。
怖いわけじゃない。ただ、早く明日が来てほしいような、来てほしくないような、不思議な感覚だった。
「……あした」
暗闇の中で、小さく口に出してみる。
今までずっと、「来なくていい」と思っていた時間。
でも今は、その「あした」のリングの上に、自分が立っている姿がはっきりと想像できた。
ウチは、布団をしっかりとかぶって、目を閉じた。
明日は、自分で起きる。
誰に起こされるでもなく、自分の足で、あの四角いリングに向かうために。




