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あした  作者: 秦江湖


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26/29

あした起きて、学校に行く

スマホのバイブが、枕元でぶるぶる震えてる。


 うっとうしい音にまぶたを閉じたまま顔をしかめて、布団の中で片手を伸ばす。指先がスマホの角をつついて、がちゃんと床に落とした。


「……あー、もう」


 寝ぼけた声が、自分でもびっくりするくらい低い。布団から半分だけ這い出して、床を手探りしてスマホを掴む。画面が、暗い部屋の中でやたらまぶしい。


《着信 先輩》


 さっきまで鳴ってたのは、電話じゃなくてLINE通話の呼び出し音だったらしい。画面には「不在着信×2」の表示。その下に、新着メッセージ。


《起きろ明日。二度寝すんな》


 ……ほんとに、起こしてきやがった。


 むかつくより先に、変な笑いが漏れた。親指でそのメッセージを眺めてるうちに、また画面の上部が光る。再び、先輩からの着信。


 仕方なく、通話ボタンをスライドした。


「……なに」


『おっ、起きた?なにじゃないでしょ、おはようございます先輩でしょ』


 スマホ越しの声は、やけにテンションが高い。バックで、遠くの車の音とか、人の話し声みたいなのが聞こえる。たぶん、どっかのコンビニのバックヤードか、通勤途中か。


「うるさい。朝から声デカい」


『朝からじゃないよ。もうとっくに開店時間だし。てかさ、何回コールしたと思ってんの? 俺、今ので三回目だよ?』


「知らんし。寝てたし」


『ですよねー』


 先輩のため息が、わざとらしくスマホ越しに響く。


『ほら、ちゃんと起きて。今何時?』


「……七時二十……五分」


 時計代わりにスマホの表示を見て、ちょっとだけ眉をひそめる。始業まで、ギリギリ間に合うかどうかのライン。


『ほら、あと二十分で家出なきゃでしょ、明日』


「誰がタイムマネジメントまでさせてんの。親かよ」


『親はそんなまめに連絡くれないでしょ、知ってるけど』


「余計なことまで知ってんな」


 布団に潜り直したくなる体を、がしっと現実に引き戻される感じ。天井を見上げて、大きく一つ息を吐いた。


「……わかった。起きるし。学校行くし」


『うんうん、よろしい』


 電話の向こうで、先輩がなんかニヤついてるのが声だけでわかる。


『じゃ、あとでちゃんと教室います報告よろしく』


「なんだよそれ」


『いいから。はい、切るよ。二度寝したらマジで怒るからな』


「……わかってるって」


 通話が切れると、部屋の中はまた静かになった。スマホの画面には、さっきのメッセージと、不在着信の履歴。


 マジで、起こしてきやがって。


 枕元にスマホを置いて、上半身を起こす。


カーテンの隙間から入ってくる朝の光が、部屋の埃を浮かび上がらせてる。


「……はぁ」


 ため息一つ。布団を蹴飛ばして立ち上がる。


 顔洗って、歯磨いて、プリンになりかけの髪をざっとブラシでとかす。鏡の中の自分が、眠そうな目をしてあくびをかみ殺してる。



 ブレザーに腕を通して、スカートを履く。ネクタイを適当に首にかけて、鏡の前でぐいっと結び目を締める。


 別に。行きたくて行くわけじゃないし。


 いつもの呪文みたいにそうつぶやきながらも、足は勝手に玄関のほうへ動いていく。靴箱の上に置きっぱなしのローファーに足を突っ込んで、ドアノブに手をかけたとき。


 キッチン側から、かすかな物音がした。


「……あかり?」


 珍しい。こんな時間に、お母さんの声がするなんて。


 振り向くと、薄暗いキッチンで、母がコンビニの袋から何かを取り出してるところだった。夜の仕事のあとっぽい、よれよれのシャツ。目の下のクマはいつもどおり濃い。


「なに。まだ帰ってなかったんじゃないの」


「今、帰ってきたとこ。……あんた、今日は学校、行くの?」


「行くけど」


 母は、微妙に驚いたような顔をして、それからすぐ視線をそらした。


「あの、その……」


 コンビニ袋から出てきたのは、紙パックのコーヒー牛乳と、小さめの菓子パンだった。母は、ぎこちない動きでそれをテーブルに置く。


「時間ないなら、これだけでも飲んで行きなさい。安かったから」


「……」


 コーヒー牛乳のパックには、「期間限定・ちょい甘め」とか書いてある。普段、母が自分用に買うのは、もっと安いブラックのコーヒーばっかだ。


 安かったからって言い訳、たぶん半分くらい嘘。


「別に、いらないし。コンビニ寄るから」


 口が、自動的にそう言う。でも、足はテーブルのほうへ一歩だけ近づいてる。


「そう……。じゃあ、置いとくから」


 母は、ペットボトルのお茶を自分のバッグに突っ込んで、ため息をつく。


「あかり」


 呼び止められて、玄関に向きかけてた体が、ぴたりと止まった。


「なに」


「……こないだは、ごめん」


 ごめん。


 今まで、この家で一番聞いたことのなかった言葉。


「退学とか、簡単に言いすぎたなって。あんたのこと、ちゃんと見てなかったなって。……だから、その。卒業、したいなら、しなさい」


 母の声は、相変わらず疲れてて、別にドラマみたいに泣きながらでもなんでもない。ただ、普段より少しだけ小さかった。


「別に。あんたに許可とって学校行ってるわけじゃないし」


「わかってる」


 母は、無理に笑おうとして、うまくいってない顔になった。


「あんた、昔からそうだったもんね。勝手にご飯作って、勝手に風呂入って、勝手に寝てた」


「それ、褒めてんの? ディスってんの?」


「半分ずつ」


「変なの」


 鼻で笑ってから、テーブルに置かれたコーヒー牛乳に手を伸ばした。


「……もらってく」


「あ、うん」


「安かったなら、なおさら」


 ストローを突き刺して、一口だけ飲む。甘ったるいコーヒーの味が、寝ぼけた舌の上に広がる。


 あったかくはないけど。


 冷蔵庫の冷気みたいな冷たさじゃない。なんか、コンビニの蛍光灯くらいの温度。


「じゃ、行ってくるから」


 通りすがりみたいにそう言って、玄関のドアを開ける。背中のほうで、かすかな声が聞こえた。


「……行ってらっしゃい」


 足が、一瞬だけ止まりかける。


「別に。いちいち言わなくていいし」


 そう言って、ドアを閉めた。


 廊下に出ると、アパートの壁の白さが目に痛い。コーヒー牛乳を片手に、階段を駆け下りる。


 ごめん、と、行ってらっしゃい。


 たったそれだけの単語で、今まで何年もなかったものが、この家の中に一個だけ増えたみたいな気がした。



    ◇



 学校に向かう道の途中で、スマホが震いた。画面を見ると、先輩からのメッセージ。


《教室着いたら写真送れ。サボってたら迎えに行く》


「監視かよ」


 小さく笑って、一言だけ返す。


《うざ。ちゃんと行くし》


 送信ボタンを押してから、ついでみたいにもう一つ打った。


《起こしてくれたのは、まあ、ありがと》


 メッセージが送られていく青い矢印を見届けて、スマホをポケットに戻す。ポカポカするわけじゃないけど、コーヒー牛乳とあわせて、なんとなく体の中が少しだけ軽くなった。



 昇降口で上履きに履き替える。ガラスに映る自分の姿は、いつもどおりのギャルで、いつもどおりの「どうでもいい」顔をしてる。


 でも、今日はその「どうでもいい」の奥に、ちょっとだけ別のものがある。


 ちゃんとここにいるっていう、めんどくさい自覚。


 教室のドアを開けると、ちらっと視線が向いてくるのは、やっぱりいつもどおりだ。


「おはよー、明日!」


 真っ先に声をかけてきたのは、もちろんユイだった。ショートボブをひょこっと揺らして、後ろの席から身を乗り出す。


「……なに。朝からうるさい」


「朝からうるさいのがウチの仕様なんで。はい、今日の分」


 机の上に、コトン、と何かが置かれる。白い紙袋。ロゴが、昨日とは違うコンビニのやつ。


「また肉まん?」


「今日はあんまん。気分変えよっかなって」


「バリエーション豊富かよ」


 ツッコミながらも、袋の中が気になって覗き込む。薄い紙をめくると、ほのかに甘い匂いが立ちのぼった。


「てかさ、昨日ちゃんと来たじゃん、コンビニ」


 ユイは、きらきらした目でこっちを見る。


「暇だったらねとか言ってたくせに」


「たまたま暇だっただけだし」


「はいはい。たまたまね。……でもさ」


 ユイは、少しだけ声のボリュームを落とした。


「明日が来てくれて、ウチはけっこう嬉しかったから」


「……」


「だから今日も、どうせ来んだろって思って、あんまん買ってきた」


 ストレートすぎて、変な汗が出そうになる。


「勝手に期待すんなっての」


「うん。わかってる。勝手に期待して、勝手に肉まん買ってくるのがウチだから」


「自覚あるならやめろ」


「やめない」


 即答。


「じゃ、また放課後、コンビニ前集合ね?」


「誰が決めた」


「ウチ」


「独裁者かよ」


「でも、来るでしょ?」


 でも来るでしょ?


 昨日と同じ言葉。こいつは、ほんとしつこい。


「……気分な」


「はいはい、いただきました。気分」


 ユイがにししと笑う。チャイムが鳴って、担任が教室に入ってくる。


 席に座って、机の中に鞄を突っ込む。ブレザーのポケットの中で、スマホが小さく震いた。


 こっそり取り出して画面を見ると、先輩から写真スタンプが一個。眠そうなパンダが「おきた?」って言ってるやつ。その下に、一行。

《今日も生きててえらい》


「……バカじゃん」


 小声で吐き捨ててから、教室の前の黒板に目を向ける。日付の横に書かれた「ホームルーム」の文字がやたら真っ黒だ。


 今日も生きててえらい、ね。


 そんなの、自分で自分に言うほど信じてない。でも、第六時限までここで座ってて、またジムで殴って、コンビニで肉まん食って、河川敷でくだらない話して。


 そうやって一日を終わらせることくらいなら。


 まあ、やってみても、いいかもしれない。



 窓の外に、雲ひとつない空が見える。教室のざわざわした空気の中で、ウチは小さく息を吸った。


 「あしたなんかいらない」って呪文を、今日は一回だけ飲み込んでみる。


 代わりに、心の中で、ちょっとだけ別の言葉を置いてみた。


 あしたも、起きてやってもいいか。


 それくらいの、ゆるい約束なら。今のウチにも、なんとか結べそうだった。


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