あした起きて、学校に行く
スマホのバイブが、枕元でぶるぶる震えてる。
うっとうしい音にまぶたを閉じたまま顔をしかめて、布団の中で片手を伸ばす。指先がスマホの角をつついて、がちゃんと床に落とした。
「……あー、もう」
寝ぼけた声が、自分でもびっくりするくらい低い。布団から半分だけ這い出して、床を手探りしてスマホを掴む。画面が、暗い部屋の中でやたらまぶしい。
《着信 先輩》
さっきまで鳴ってたのは、電話じゃなくてLINE通話の呼び出し音だったらしい。画面には「不在着信×2」の表示。その下に、新着メッセージ。
《起きろ明日。二度寝すんな》
……ほんとに、起こしてきやがった。
むかつくより先に、変な笑いが漏れた。親指でそのメッセージを眺めてるうちに、また画面の上部が光る。再び、先輩からの着信。
仕方なく、通話ボタンをスライドした。
「……なに」
『おっ、起きた?なにじゃないでしょ、おはようございます先輩でしょ』
スマホ越しの声は、やけにテンションが高い。バックで、遠くの車の音とか、人の話し声みたいなのが聞こえる。たぶん、どっかのコンビニのバックヤードか、通勤途中か。
「うるさい。朝から声デカい」
『朝からじゃないよ。もうとっくに開店時間だし。てかさ、何回コールしたと思ってんの? 俺、今ので三回目だよ?』
「知らんし。寝てたし」
『ですよねー』
先輩のため息が、わざとらしくスマホ越しに響く。
『ほら、ちゃんと起きて。今何時?』
「……七時二十……五分」
時計代わりにスマホの表示を見て、ちょっとだけ眉をひそめる。始業まで、ギリギリ間に合うかどうかのライン。
『ほら、あと二十分で家出なきゃでしょ、明日』
「誰がタイムマネジメントまでさせてんの。親かよ」
『親はそんなまめに連絡くれないでしょ、知ってるけど』
「余計なことまで知ってんな」
布団に潜り直したくなる体を、がしっと現実に引き戻される感じ。天井を見上げて、大きく一つ息を吐いた。
「……わかった。起きるし。学校行くし」
『うんうん、よろしい』
電話の向こうで、先輩がなんかニヤついてるのが声だけでわかる。
『じゃ、あとでちゃんと教室います報告よろしく』
「なんだよそれ」
『いいから。はい、切るよ。二度寝したらマジで怒るからな』
「……わかってるって」
通話が切れると、部屋の中はまた静かになった。スマホの画面には、さっきのメッセージと、不在着信の履歴。
マジで、起こしてきやがって。
枕元にスマホを置いて、上半身を起こす。
カーテンの隙間から入ってくる朝の光が、部屋の埃を浮かび上がらせてる。
「……はぁ」
ため息一つ。布団を蹴飛ばして立ち上がる。
顔洗って、歯磨いて、プリンになりかけの髪をざっとブラシでとかす。鏡の中の自分が、眠そうな目をしてあくびをかみ殺してる。
ブレザーに腕を通して、スカートを履く。ネクタイを適当に首にかけて、鏡の前でぐいっと結び目を締める。
別に。行きたくて行くわけじゃないし。
いつもの呪文みたいにそうつぶやきながらも、足は勝手に玄関のほうへ動いていく。靴箱の上に置きっぱなしのローファーに足を突っ込んで、ドアノブに手をかけたとき。
キッチン側から、かすかな物音がした。
「……あかり?」
珍しい。こんな時間に、お母さんの声がするなんて。
振り向くと、薄暗いキッチンで、母がコンビニの袋から何かを取り出してるところだった。夜の仕事のあとっぽい、よれよれのシャツ。目の下のクマはいつもどおり濃い。
「なに。まだ帰ってなかったんじゃないの」
「今、帰ってきたとこ。……あんた、今日は学校、行くの?」
「行くけど」
母は、微妙に驚いたような顔をして、それからすぐ視線をそらした。
「あの、その……」
コンビニ袋から出てきたのは、紙パックのコーヒー牛乳と、小さめの菓子パンだった。母は、ぎこちない動きでそれをテーブルに置く。
「時間ないなら、これだけでも飲んで行きなさい。安かったから」
「……」
コーヒー牛乳のパックには、「期間限定・ちょい甘め」とか書いてある。普段、母が自分用に買うのは、もっと安いブラックのコーヒーばっかだ。
安かったからって言い訳、たぶん半分くらい嘘。
「別に、いらないし。コンビニ寄るから」
口が、自動的にそう言う。でも、足はテーブルのほうへ一歩だけ近づいてる。
「そう……。じゃあ、置いとくから」
母は、ペットボトルのお茶を自分のバッグに突っ込んで、ため息をつく。
「あかり」
呼び止められて、玄関に向きかけてた体が、ぴたりと止まった。
「なに」
「……こないだは、ごめん」
ごめん。
今まで、この家で一番聞いたことのなかった言葉。
「退学とか、簡単に言いすぎたなって。あんたのこと、ちゃんと見てなかったなって。……だから、その。卒業、したいなら、しなさい」
母の声は、相変わらず疲れてて、別にドラマみたいに泣きながらでもなんでもない。ただ、普段より少しだけ小さかった。
「別に。あんたに許可とって学校行ってるわけじゃないし」
「わかってる」
母は、無理に笑おうとして、うまくいってない顔になった。
「あんた、昔からそうだったもんね。勝手にご飯作って、勝手に風呂入って、勝手に寝てた」
「それ、褒めてんの? ディスってんの?」
「半分ずつ」
「変なの」
鼻で笑ってから、テーブルに置かれたコーヒー牛乳に手を伸ばした。
「……もらってく」
「あ、うん」
「安かったなら、なおさら」
ストローを突き刺して、一口だけ飲む。甘ったるいコーヒーの味が、寝ぼけた舌の上に広がる。
あったかくはないけど。
冷蔵庫の冷気みたいな冷たさじゃない。なんか、コンビニの蛍光灯くらいの温度。
「じゃ、行ってくるから」
通りすがりみたいにそう言って、玄関のドアを開ける。背中のほうで、かすかな声が聞こえた。
「……行ってらっしゃい」
足が、一瞬だけ止まりかける。
「別に。いちいち言わなくていいし」
そう言って、ドアを閉めた。
廊下に出ると、アパートの壁の白さが目に痛い。コーヒー牛乳を片手に、階段を駆け下りる。
ごめん、と、行ってらっしゃい。
たったそれだけの単語で、今まで何年もなかったものが、この家の中に一個だけ増えたみたいな気がした。
◇
学校に向かう道の途中で、スマホが震いた。画面を見ると、先輩からのメッセージ。
《教室着いたら写真送れ。サボってたら迎えに行く》
「監視かよ」
小さく笑って、一言だけ返す。
《うざ。ちゃんと行くし》
送信ボタンを押してから、ついでみたいにもう一つ打った。
《起こしてくれたのは、まあ、ありがと》
メッセージが送られていく青い矢印を見届けて、スマホをポケットに戻す。ポカポカするわけじゃないけど、コーヒー牛乳とあわせて、なんとなく体の中が少しだけ軽くなった。
昇降口で上履きに履き替える。ガラスに映る自分の姿は、いつもどおりのギャルで、いつもどおりの「どうでもいい」顔をしてる。
でも、今日はその「どうでもいい」の奥に、ちょっとだけ別のものがある。
ちゃんとここにいるっていう、めんどくさい自覚。
教室のドアを開けると、ちらっと視線が向いてくるのは、やっぱりいつもどおりだ。
「おはよー、明日!」
真っ先に声をかけてきたのは、もちろんユイだった。ショートボブをひょこっと揺らして、後ろの席から身を乗り出す。
「……なに。朝からうるさい」
「朝からうるさいのがウチの仕様なんで。はい、今日の分」
机の上に、コトン、と何かが置かれる。白い紙袋。ロゴが、昨日とは違うコンビニのやつ。
「また肉まん?」
「今日はあんまん。気分変えよっかなって」
「バリエーション豊富かよ」
ツッコミながらも、袋の中が気になって覗き込む。薄い紙をめくると、ほのかに甘い匂いが立ちのぼった。
「てかさ、昨日ちゃんと来たじゃん、コンビニ」
ユイは、きらきらした目でこっちを見る。
「暇だったらねとか言ってたくせに」
「たまたま暇だっただけだし」
「はいはい。たまたまね。……でもさ」
ユイは、少しだけ声のボリュームを落とした。
「明日が来てくれて、ウチはけっこう嬉しかったから」
「……」
「だから今日も、どうせ来んだろって思って、あんまん買ってきた」
ストレートすぎて、変な汗が出そうになる。
「勝手に期待すんなっての」
「うん。わかってる。勝手に期待して、勝手に肉まん買ってくるのがウチだから」
「自覚あるならやめろ」
「やめない」
即答。
「じゃ、また放課後、コンビニ前集合ね?」
「誰が決めた」
「ウチ」
「独裁者かよ」
「でも、来るでしょ?」
でも来るでしょ?
昨日と同じ言葉。こいつは、ほんとしつこい。
「……気分な」
「はいはい、いただきました。気分」
ユイがにししと笑う。チャイムが鳴って、担任が教室に入ってくる。
席に座って、机の中に鞄を突っ込む。ブレザーのポケットの中で、スマホが小さく震いた。
こっそり取り出して画面を見ると、先輩から写真スタンプが一個。眠そうなパンダが「おきた?」って言ってるやつ。その下に、一行。
《今日も生きててえらい》
「……バカじゃん」
小声で吐き捨ててから、教室の前の黒板に目を向ける。日付の横に書かれた「ホームルーム」の文字がやたら真っ黒だ。
今日も生きててえらい、ね。
そんなの、自分で自分に言うほど信じてない。でも、第六時限までここで座ってて、またジムで殴って、コンビニで肉まん食って、河川敷でくだらない話して。
そうやって一日を終わらせることくらいなら。
まあ、やってみても、いいかもしれない。
窓の外に、雲ひとつない空が見える。教室のざわざわした空気の中で、ウチは小さく息を吸った。
「あしたなんかいらない」って呪文を、今日は一回だけ飲み込んでみる。
代わりに、心の中で、ちょっとだけ別の言葉を置いてみた。
あしたも、起きてやってもいいか。
それくらいの、ゆるい約束なら。今のウチにも、なんとか結べそうだった。




