インターハイ
「インターハイ、行くんだ」
先輩に報告したのは、河川敷のいつものベンチだった。
「おー」
先輩の声は、わざとらしくフラットだった。でも、缶コーヒーを持つ手が、少しだけ固まった気がした。
「……すごいじゃん」
「別に。まだ本選で一回戦負けかもしれないし」
「でも、行くんだろ」
「行く」
先輩は、川の向こうを見たまま、小さく頷いた。
「そっか」
それだけだった。
先輩は、缶コーヒーを一口飲んでから、こっちを見た。
「お前が行くんだから、まあ、いいか」
「なにそれ」
「なんでもない。ほら、本選まで時間ないだろ。ちゃんと練習しろよ」
「してるし」
「してるなら、もっとしろ」
「うざ」
川の音が、夜の空気に溶けていく。
ウチはポケットに手を突っ込んで、空を見上げた。星は、今日もほとんど見えない。でも、そこにあるのはわかってる。
――インターハイ。
その言葉が、今は少しだけ、自分のものみたいに感じられた。
◇
インターハイ本選の二週間前。
夜のジムは、いつもより少しだけ空気が張り詰めていた。
「おい、明日」
シャドーを終えてロープ際で息を整えていると、会長が声をかけてきた。その後ろに、黒いパーカー姿の男が立っている。
「……は?」
思わず変な声が出た。
桐沢先輩だった。普段のコンビニ夜勤の死んだ目じゃなくて、どこか静かで、でもピントの合った目をしている。手には、ジムの貸し出し用じゃない、使い込まれたマイグローブ。
「なんでいんの」
「会長に呼ばれた」
先輩は、パーカーを脱いでリングサイドのベンチに置いた。下は黒いTシャツ。無駄な肉が削ぎ落とされた肩のラインが、蛍光灯の下でくっきりと浮かんでいる。
「お前、本選で当たるかもしれねえシード校のやつ、サウスポーだろ」
トレーナーが、顎で先輩をしゃくった。
「こいつ、元サウスポーのアウトボクサーだ。仮想敵にはちょうどいい。三ラウンドだけ、スパーリング付き合わせる」
「はあ!?」
声が裏返った。先輩がボクシングをやっていたのは知ってる。でも、もうリングには上がらないって、あんなに頑なに言ってたじゃないか。
「ちょっと待って。先輩、もうやんないって……」
「やんないよ。試合はね」
先輩は、バンテージを巻き終わった手にグローブをはめながら、あっさりと言った。
「でも、お前がインターハイ行くって言うから。ちょっとだけ、昔の杵柄ってやつ?」
「杵柄って……」
「ほら、上がれ。時間もったいねえだろ」
先輩が、先にリングの階段を上がる。ロープをくぐる動きが、信じられないくらい滑らかだった。キャンバスを踏む足の運びだけで、この人がどれだけこの四角い場所で時間を過ごしてきたのかがわかる。
ウチは、ヘッドギアを被って、マウスピースを噛んだ。
心臓が、いつもより嫌なリズムで跳ねている。
リングの中央で、グローブを合わせる。
「手加減とか、すんなよ」
マウスピース越しにくぐもった声で言うと、先輩はヘッドギアの奥でふっと笑った。
「俺が手加減できるほど、お前弱くないでしょ」
カン、とゴングが鳴る。
ウチは、いつも通りジャブから入った。距離を測って、踏み込んで、右ストレート。
当たる、と思ったタイミングだった。
あれ?ない。
先輩の顔があったはずの場所に、空気がすり抜けた。
次の瞬間、視界の右外側から、鋭い衝撃が飛んできた。
「ぐっ……」
ヘッドギア越しでも、頭がガクンと揺れる。右フック。サウスポー特有の、見えにくい角度からのカウンター。
「足止まってんぞ」
先輩の声がしたときには、もう次のパンチがボディに突き刺さっていた。息が詰まる。重いわけじゃない。でも、的確に急所をえぐってくる、嫌らしいパンチだ。
「くそっ……」
打ち返そうと前に出る。でも、先輩はそこにいない。ウチが踏み込んだ分だけ、正確に後ろに下がり、ウチが引いた分だけ、正確に距離を詰めてくる。
まるで、ウチの影と戦っているみたいだった。
「どうした、そんなもんか。本選のシードはもっとえげつねえぞ」
言葉と一緒に、またジャブが飛んでくる。避けたつもりが、鼻先をかすめた。
圧倒的だった。
力が強いわけじゃない。スピードがずば抜けているわけでもない。ただ、「どこに立てば相手が嫌がるか」「どのタイミングで打てば当たるか」を、先輩の体は全部知っている。
これが、途中でリングを降りた人間の強さなのか。
これが、ウチが「どうでもいい」って投げ出そうとしていたものの、本当の重さなのか。
二ラウンド目。
息が上がり始める。汗が目に入って痛い。でも、不思議と「やめたい」とは思わなかった。
「……なめんな!」
大振りの右フックを空振りしたあと、バランスを崩したふりをして、左のショートアッパーをねじ込む。
先輩の顎が、ほんの少しだけ跳ね上がった。
「おっ」
先輩の目が、一瞬だけ見開かれる。
「……やるじゃん」
そこから、先輩の動きが一段階上がった。
手数は増えない。でも、プレッシャーが桁違いに重くなる。リングの隅に追い詰められ、ロープを背負わされる。
息ができない。ガードの上から叩き込まれるパンチが、岩みたいに重い。
――逃げない。
頭の中で、声がする。
――自分で終わらせる。
ロープを蹴って、前に出る。打たれてもいい。一発でも、あの顔に叩き込んでやる。
右、左、右。
全部ガードされる。それでも、腕を振る。
「ラスト十秒!」
会長の声が響く。
先輩が、一瞬だけガードを下げた。誘いだとわかっていた。それでも、ウチはそこに右ストレートを全力で打ち込んだ。
バァン!
先輩の左フックと、ウチの右ストレートが、ほぼ同時に交差した。
カン、カン、カン!
終了のゴング。
ウチは、キャンバスに膝をついた。息が喉の奥でひゅーひゅー鳴っている。汗が滝みたいに落ちて、青いマットにシミを作る。
「……っ、はぁ……はぁ……」
「お疲れ」
頭の上から、声が降ってきた。
見上げると、先輩がグローブを外しながら、こっちを見下ろしていた。息は少し上がっているけど、ウチほどじゃない。
「……マジ、うざい」
先輩は、ウチに手を差し出した。
バンテージだらけの、汗ばんだ手。
ウチは、その手を少しだけ睨んでから、自分のグローブの先でばちんと弾いた。
「自分で立てるし」
「かわいくねえ後輩」
先輩は苦笑いして、手を引っ込めた。
ロープをくぐってリングを降りる先輩の背中を見ながら、ウチはゆっくりと立ち上がる。
足はガクガクしてるし、頭も痛い。
でも。
「……次やったら、一発は当てる」
小さくつぶやいた声は、自分でも驚くくらい、はっきりとしていた。
会長が、リングの下でニヤッと笑うのが見えた。
「その意気だ。本選、行ってこい」
「……言われなくても」
マウスピースを外して、ウチは大きく息を吸い込んだ。
ジムのゴムの匂いが、今日はやけに深く肺の底まで届いた。
インターハイまで、あと二週間。
「あした」は、もうすぐそこまで来ている。




