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あした  作者: 秦江湖


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23/29

リングと諦めない話

 夜のジムは、いつもと同じゴムと汗の匂いがしてた。


 シャッター半分下ろした入り口をくぐって、「おはよーっす」とか適当に言いながら中に入る。フロアの真ん中には、青いキャンバスのリング。ロープにぐるっとタオルがかかってて、端っこでは会社帰りっぽいおっさんがロープスキップしてる。


「おせーぞ、ガキ」


 奥のベンチに座ってタバコふかしてたトレーナーが、こっちを見もしないで言う。口悪いのも、煙の匂いも、全部いつもどおり。


「別に。時間どおりだし」


「掃除の時間はとっくに終わってんだよ。ほら、モップ持てモップ。リングの下、昨日マット敷きっぱなしにしたから砂入ってんだよ」


「はいはい」


 鞄をロッカーに放り込んで、髪をゴムでひとつにまとめる。ブレザー脱いで、パーカーとジャージのジム仕様に着替えてから、言われたとおりモップを握った。


 モップをリングの下に滑り込ませるたび、埃と砂と、誰かの汗の残りみたいなのが、薄い線になって集まってくる。こうやって掃除してると、なんとなく、ここに自分の居場所があるみたいな気がするから不思議。


「そういやよ」


 トレーナーが、灰皿にタバコをねじ込みながら、思い出したみたいに言った。


「この前、昼間に女子高生が一人、見学に来てたぞ。ショートヘアの、やかましいやつ」


「……ユイ」


 思わず口から名前がこぼれる。トレーナーは、にやっと意地悪く笑った。


「なんだ、知り合いか。お前の学校のボクシング部だとよ。“変なガキ紹介してください”だってさ」


「紹介すんなって言ったじゃん。マジで」


「言われてねーし。つーか、あいつのほうが先に名乗ったわ。ウチのクラスに、絶対ここ通ってるやついますってよ」


「チクり魔かよ、あいつ」


 呆れ半分、笑い半分でそう言うと、トレーナーは肩をすくめる。


「おもしれーじゃねえか。学校でも殴って、ここでも殴って。贅沢な青春だな」


「そんな体力ねーし。こっちだけでいっぱいいっぱい」


「ふん」


 モップ掛けを終えて、グローブをはめる。バンテージ越しに指をギュッと握ると、皮のきしむ感触が手の中で鳴った。


「じゃ、軽くシャドーやって、ミットな」


「ん」


 リングの横のスペースに立って、鏡と向かい合う。ポニーテールにした自分の一六五センチの影が、蛍光灯の白い光の中で構えを取る。


 一歩前に出て、ジャブ。肩から突き出した左腕が、空気を切る。続けて右ストレート。足の裏から腰、肩、拳まで、線が一本に繋がる感覚。


 ――まだ、ちゃんと殴れる。


 停学中も、家でシャドーだけはやってたから、体はそんなに鈍ってない。鏡の中の自分の動きが、ちゃんとボクシングになってるのを確認して、少しだけ安心する。


「おー、やっぱ鈍ってねえな」


 トレーナーが、ミットをはめてリングの上からこっちを覗き込む。

「ほら、上がれ。三ラウンドだけ付き合ってやる」


「だけって。贅沢だわ」


「文句言うならやめろ。ほら、ゴング鳴らすぞ」


 リングの階段を上がる。キャンバスに足を乗せると、独特の沈みと反発が靴底から伝わってきた。ロープをくぐって中に入ると、ちょっとだけ世界が狭くなる。


 カン、カン、とトレーナーが小さなゴングを叩いた。


「はい、構え」


 トレーナーがミットを前に出す。そこに向かって、ジャブ、ジャブ、ワンツー。ゴスッ、パスッ、とミットに拳が吸い込まれる感触。肩の筋肉が熱くなって、心臓が早く打ち始める。


「おい、左が戻るの遅い。打って終わりじゃねえぞ。すぐ顔守れ」


「わかってるし!」


 言い返しながら、今度は意識して早く引く。左がスッと顎の横に戻る。ミットがちょっとだけ嬉しそうな音をたてた。


「そうだ、それ。できんじゃねえか、最初からやれ」


「うるさ」


 汗が額を伝って、まつ毛にたまる。呼吸を意識的に吐いて、吸う。ワンツー、右ストレートから左ボディ、そこからもう一回顔面。コンビネーションが決まると、胸の中のモヤモヤが、拳から抜けていく気がした。


 ――殴る場所、ちゃんと選ぶって、こういうことかもな。


 昼間、コンビニの横でユイが言ってた言葉が、ふっと頭をよぎる。


『明日が殴りたい場所とか、殴りたい相手とか、ちゃんと自分で決めたときにさ』


 リングの上なら、殴ってもいい。ちゃんとグローブはいて、ルール守って、正面から。

 外で適当にイラついて、壁とか、人とか、自分とか殴ってた頃とは違う。


「ラスト三十!」


 トレーナーの声が飛ぶ。腕が重くなりながらも、ジャブを切らさない。最後に、思いきり右を振り抜く。


 ゴンッ。


 分厚いミットが、鈍い音を立てて後ろに揺れた。


「よし、ストップ」


 カン、とまたゴングが鳴る。膝に手をついて、肩で息をする。汗が顎からキャンバスに落ちて、丸いシミを作った。


「おう、久々のわりに悪くねえな」


 トレーナーがミットを外しながら言う。


「やっぱお前、高校でボクシングやれよ。試合出ろ試合。もったいねえ」


「……またそれ?」


 グローブを外して、ロープに背中を預ける。息はまだ整わないけど、言い返す余裕くらいはある。


「ウチ、そういうちゃんとしたの、マジ向いてないって」


「向いてる向いてねえの話じゃねえよ。やるかやんねえかだ」


 トレーナーは、リングの端に腰を下ろして、さっきのタバコの箱をポケットから取り出した。でも、火はつけないで指で弄んでいるだけ。


「この前も言ったけどな。高校の公式戦出れんのなんて、一生のうちで今だけだぞ。二十なって、やっぱ高校のインターハイ出たいですとか言っても、誰も相手してくれねえ」


「だからって、今やんなきゃ死ぬわけじゃないし」


「死にはしねえな」


 あっさり肯定されて、ちょっとムカつく。


「でもよ。あとから、あんときやっときゃよかったかなって、ふと思い出す夜ってのは、たぶん死ぬまであるぞ」


 トレーナーの横顔が、少しだけ遠くを見てるみたいな目になった。


「お前の大好きな、今燃えてたいからって理由で、ぶん投げるのも勝手だ。けどな、将来なんも見えねえなら、とりあえず今しかできねえこと一個くらい、握っといても損はねえ」


「説教タイムきた」


「うるせ。年長者のありがたいお言葉だ、拝め」


「やだ」


 口では拒否しながらも、さっきユイが言ってたことと、今このオッサンが言ってることが、どこかで繋がる気がしてる。



 ――殴りたい場所、自分で決めろ。

 ――今しかできねえこと、一個くらい握っとけ。


 どっちも、似たようなことを言ってる。


「……先輩も、言ってたし」


 ぽろっと、口から出た。トレーナーが、じろっとこっちを見る。


「ん? ああ、あいつな」


「卒業証書くらい持っとけとか、ちゃんと殴る場所選べとか。何様だと思ってんのかマジでムカつくんだけど」


「何様って、あいつ、お前のちょっと先の失敗例だろうが」


「失敗例て」


「褒めてんだよ。あいつな」


 トレーナーは、タバコの箱をくるくる回しながら、ため息をひとつ吐いた。


「ボクシングに関しちゃ、マジで真面目だった。練習サボらねえし、減量もきっちりやるし。試合んときも、根性だけでひっくり返すタイプじゃなくて、ちゃんと頭使うやつだった」


「……なんか、想像つくかも」


 皿洗いしながらぼーっとしてるときの、先輩の目。あんま何も考えてないふりして、実は周り全部見てる感じ。


「そんなやつがよ、途中でリング降りたんだ。事情はまあ、いろいろあったにせよ」


 “いろいろ”。それが、家の借金とか、不良仲間のトラブルとか、“一回消えた”とか、そういうのだってことは、もうウチも知ってる。


「たぶんな。あいつの中で、一生消えねえ“あのとき”があるんだよ。なんも言わねえけど」

「“あのとき”?」


「“あの試合、あの大会、あのタイミングで、こうしてりゃ違ったかも”っていう、“もし”だ」


 トレーナーは、リングのロープを指で弾く。ビーン、って低い音がして、すぐに消えた。


「“もし”ってのは、便利な言葉だ。今を誤魔化すにも、過去をいじくり回すにも使える。けどな、やってから言う“もし”と、やる前に逃げた“もし”は、重さが違う」


 言葉が、キャンバスの上にじわっと染みてくるみたいだ。


「お前が“試合出たけど一回戦でボコられました、マジでダサかったです”ってなる“もし”なら、いくらでも笑い話にしてやる。ジムの玄関にでっけえ写真貼って、“こいつがうちの一回戦ボーイ(ガール)です”ってな」


「絶対やめろ。マジ殺す」


「でもよ、“やってねえのに、勝手に諦めた”ってほうの“もし”は、誰もいじれねえ。本人以外、触れねえんだよ」


 先輩の背中が、頭の中に浮かぶ。河川敷で「もうリング戻んねえから」って言ったときの、あの言い方。


 あれはきっと、自分で自分の“もし”に触れないようにしてる声だ。


「だからって、お前に“あいつの代わりにやれ”なんて言う気はねえよ。そんなもん、筋違いだしな」


 トレーナーは、そこでようやくタバコに火をつけた。オレンジ色の先っぽが、一瞬だけ暗いリングを照らす。


「ただ――」


 紫の煙が、ゆっくりと天井に向かっていく。


「自分で“終わらせた”って言えるものを、一個くらい持っとけって話だ。誰かの都合とか、家庭の事情とか、世間の目とかじゃなくてな。自分の拳でケリつけたって、胸張って言えるやつ」


 

 退学か、卒業か。学校や母とか、生活指導の顔色じゃなくて、自分で「卒業したい」って選んだあの日。



 あれも、たぶん、ウチの中の何かにケリつけたかったからだ。


「……じゃあさ」


 ロープに寄りかかったまま、ぽつりと言う。


「もし、高校の試合出て、ボコボコにされて、ダサく負けたら。ウチ、それ、ちゃんと笑い話にできる?」


「できるだろ」


 トレーナーは、即答した。


「そのときは俺が、何回でもネタにしてやる。“こいつ、情けねえ負け方したくせに、それでもジム来てるんですよ~”ってな。で、お前は“マジうぜぇ”ってキレる。最高じゃねえか」

「どこが最高だよ」


「負け話で笑えるやつは、強えんだよ。勝ち話しかできねえやつは、ろくな大人にならねえ」


 タバコの煙の向こうで、トレーナーの目が、ちょっとだけ優しくなる。


「まあ、やるかどうかは、お前が決めろ。締め切りは、そんなに長くねえけどな」


「締め切り?」


「新入部員、じゃねえや。インターハイの地区予選のエントリー。二年の夏までに登録しねえと、三年の冬しかねえぞって話」


「……そんな具体的な締め切りいらないし」


「現実ってのは、だいたい締め切りでできてんだよ」



 カン、と誰かがサンドバッグのチェーンをいじった音が聞こえる。リングの外では、学生っぽい男の子がシャドーを始めている。


「今日はもう上がっていいぞ。シャワー浴びて帰れ」

「え、まだ一ラウンドしかミットやってないじゃん」


「珍しく真面目な話したから疲れた。年寄りをいたわって早く帰れ」

「はいはい。心配しなくても、勝手に帰るし」


 ロープをまたいでリングから降りる。キャンバスの感触が足から離れると、さっきまで思ってたことが、少しだけ遠くなる。


 シャワー室で汗を流して、髪をタオルで適当に拭く。鏡に映る自分の顔は、いつもより少しだけスッキリして見えた。



 今しかできねえこと、一個くらい握っとけ。

 自分の拳でケリつけたって、胸張れるやつ。



 ジムを出ると、外の空気はもう冷たかった。息を吐くと、白くなってすぐ消える。パーカーのフードを被って、商店街のほうへと歩き出す。


 河川敷に行こうか、どうしようか。ちょっと迷って、でも足は自然とそっちに向かってた。


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