リングと諦めない話
夜のジムは、いつもと同じゴムと汗の匂いがしてた。
シャッター半分下ろした入り口をくぐって、「おはよーっす」とか適当に言いながら中に入る。フロアの真ん中には、青いキャンバスのリング。ロープにぐるっとタオルがかかってて、端っこでは会社帰りっぽいおっさんがロープスキップしてる。
「おせーぞ、ガキ」
奥のベンチに座ってタバコふかしてたトレーナーが、こっちを見もしないで言う。口悪いのも、煙の匂いも、全部いつもどおり。
「別に。時間どおりだし」
「掃除の時間はとっくに終わってんだよ。ほら、モップ持てモップ。リングの下、昨日マット敷きっぱなしにしたから砂入ってんだよ」
「はいはい」
鞄をロッカーに放り込んで、髪をゴムでひとつにまとめる。ブレザー脱いで、パーカーとジャージのジム仕様に着替えてから、言われたとおりモップを握った。
モップをリングの下に滑り込ませるたび、埃と砂と、誰かの汗の残りみたいなのが、薄い線になって集まってくる。こうやって掃除してると、なんとなく、ここに自分の居場所があるみたいな気がするから不思議。
「そういやよ」
トレーナーが、灰皿にタバコをねじ込みながら、思い出したみたいに言った。
「この前、昼間に女子高生が一人、見学に来てたぞ。ショートヘアの、やかましいやつ」
「……ユイ」
思わず口から名前がこぼれる。トレーナーは、にやっと意地悪く笑った。
「なんだ、知り合いか。お前の学校のボクシング部だとよ。“変なガキ紹介してください”だってさ」
「紹介すんなって言ったじゃん。マジで」
「言われてねーし。つーか、あいつのほうが先に名乗ったわ。ウチのクラスに、絶対ここ通ってるやついますってよ」
「チクり魔かよ、あいつ」
呆れ半分、笑い半分でそう言うと、トレーナーは肩をすくめる。
「おもしれーじゃねえか。学校でも殴って、ここでも殴って。贅沢な青春だな」
「そんな体力ねーし。こっちだけでいっぱいいっぱい」
「ふん」
モップ掛けを終えて、グローブをはめる。バンテージ越しに指をギュッと握ると、皮のきしむ感触が手の中で鳴った。
「じゃ、軽くシャドーやって、ミットな」
「ん」
リングの横のスペースに立って、鏡と向かい合う。ポニーテールにした自分の一六五センチの影が、蛍光灯の白い光の中で構えを取る。
一歩前に出て、ジャブ。肩から突き出した左腕が、空気を切る。続けて右ストレート。足の裏から腰、肩、拳まで、線が一本に繋がる感覚。
――まだ、ちゃんと殴れる。
停学中も、家でシャドーだけはやってたから、体はそんなに鈍ってない。鏡の中の自分の動きが、ちゃんとボクシングになってるのを確認して、少しだけ安心する。
「おー、やっぱ鈍ってねえな」
トレーナーが、ミットをはめてリングの上からこっちを覗き込む。
「ほら、上がれ。三ラウンドだけ付き合ってやる」
「だけって。贅沢だわ」
「文句言うならやめろ。ほら、ゴング鳴らすぞ」
リングの階段を上がる。キャンバスに足を乗せると、独特の沈みと反発が靴底から伝わってきた。ロープをくぐって中に入ると、ちょっとだけ世界が狭くなる。
カン、カン、とトレーナーが小さなゴングを叩いた。
「はい、構え」
トレーナーがミットを前に出す。そこに向かって、ジャブ、ジャブ、ワンツー。ゴスッ、パスッ、とミットに拳が吸い込まれる感触。肩の筋肉が熱くなって、心臓が早く打ち始める。
「おい、左が戻るの遅い。打って終わりじゃねえぞ。すぐ顔守れ」
「わかってるし!」
言い返しながら、今度は意識して早く引く。左がスッと顎の横に戻る。ミットがちょっとだけ嬉しそうな音をたてた。
「そうだ、それ。できんじゃねえか、最初からやれ」
「うるさ」
汗が額を伝って、まつ毛にたまる。呼吸を意識的に吐いて、吸う。ワンツー、右ストレートから左ボディ、そこからもう一回顔面。コンビネーションが決まると、胸の中のモヤモヤが、拳から抜けていく気がした。
――殴る場所、ちゃんと選ぶって、こういうことかもな。
昼間、コンビニの横でユイが言ってた言葉が、ふっと頭をよぎる。
『明日が殴りたい場所とか、殴りたい相手とか、ちゃんと自分で決めたときにさ』
リングの上なら、殴ってもいい。ちゃんとグローブはいて、ルール守って、正面から。
外で適当にイラついて、壁とか、人とか、自分とか殴ってた頃とは違う。
「ラスト三十!」
トレーナーの声が飛ぶ。腕が重くなりながらも、ジャブを切らさない。最後に、思いきり右を振り抜く。
ゴンッ。
分厚いミットが、鈍い音を立てて後ろに揺れた。
「よし、ストップ」
カン、とまたゴングが鳴る。膝に手をついて、肩で息をする。汗が顎からキャンバスに落ちて、丸いシミを作った。
「おう、久々のわりに悪くねえな」
トレーナーがミットを外しながら言う。
「やっぱお前、高校でボクシングやれよ。試合出ろ試合。もったいねえ」
「……またそれ?」
グローブを外して、ロープに背中を預ける。息はまだ整わないけど、言い返す余裕くらいはある。
「ウチ、そういうちゃんとしたの、マジ向いてないって」
「向いてる向いてねえの話じゃねえよ。やるかやんねえかだ」
トレーナーは、リングの端に腰を下ろして、さっきのタバコの箱をポケットから取り出した。でも、火はつけないで指で弄んでいるだけ。
「この前も言ったけどな。高校の公式戦出れんのなんて、一生のうちで今だけだぞ。二十なって、やっぱ高校のインターハイ出たいですとか言っても、誰も相手してくれねえ」
「だからって、今やんなきゃ死ぬわけじゃないし」
「死にはしねえな」
あっさり肯定されて、ちょっとムカつく。
「でもよ。あとから、あんときやっときゃよかったかなって、ふと思い出す夜ってのは、たぶん死ぬまであるぞ」
トレーナーの横顔が、少しだけ遠くを見てるみたいな目になった。
「お前の大好きな、今燃えてたいからって理由で、ぶん投げるのも勝手だ。けどな、将来なんも見えねえなら、とりあえず今しかできねえこと一個くらい、握っといても損はねえ」
「説教タイムきた」
「うるせ。年長者のありがたいお言葉だ、拝め」
「やだ」
口では拒否しながらも、さっきユイが言ってたことと、今このオッサンが言ってることが、どこかで繋がる気がしてる。
――殴りたい場所、自分で決めろ。
――今しかできねえこと、一個くらい握っとけ。
どっちも、似たようなことを言ってる。
「……先輩も、言ってたし」
ぽろっと、口から出た。トレーナーが、じろっとこっちを見る。
「ん? ああ、あいつな」
「卒業証書くらい持っとけとか、ちゃんと殴る場所選べとか。何様だと思ってんのかマジでムカつくんだけど」
「何様って、あいつ、お前のちょっと先の失敗例だろうが」
「失敗例て」
「褒めてんだよ。あいつな」
トレーナーは、タバコの箱をくるくる回しながら、ため息をひとつ吐いた。
「ボクシングに関しちゃ、マジで真面目だった。練習サボらねえし、減量もきっちりやるし。試合んときも、根性だけでひっくり返すタイプじゃなくて、ちゃんと頭使うやつだった」
「……なんか、想像つくかも」
皿洗いしながらぼーっとしてるときの、先輩の目。あんま何も考えてないふりして、実は周り全部見てる感じ。
「そんなやつがよ、途中でリング降りたんだ。事情はまあ、いろいろあったにせよ」
“いろいろ”。それが、家の借金とか、不良仲間のトラブルとか、“一回消えた”とか、そういうのだってことは、もうウチも知ってる。
「たぶんな。あいつの中で、一生消えねえ“あのとき”があるんだよ。なんも言わねえけど」
「“あのとき”?」
「“あの試合、あの大会、あのタイミングで、こうしてりゃ違ったかも”っていう、“もし”だ」
トレーナーは、リングのロープを指で弾く。ビーン、って低い音がして、すぐに消えた。
「“もし”ってのは、便利な言葉だ。今を誤魔化すにも、過去をいじくり回すにも使える。けどな、やってから言う“もし”と、やる前に逃げた“もし”は、重さが違う」
言葉が、キャンバスの上にじわっと染みてくるみたいだ。
「お前が“試合出たけど一回戦でボコられました、マジでダサかったです”ってなる“もし”なら、いくらでも笑い話にしてやる。ジムの玄関にでっけえ写真貼って、“こいつがうちの一回戦ボーイ(ガール)です”ってな」
「絶対やめろ。マジ殺す」
「でもよ、“やってねえのに、勝手に諦めた”ってほうの“もし”は、誰もいじれねえ。本人以外、触れねえんだよ」
先輩の背中が、頭の中に浮かぶ。河川敷で「もうリング戻んねえから」って言ったときの、あの言い方。
あれはきっと、自分で自分の“もし”に触れないようにしてる声だ。
「だからって、お前に“あいつの代わりにやれ”なんて言う気はねえよ。そんなもん、筋違いだしな」
トレーナーは、そこでようやくタバコに火をつけた。オレンジ色の先っぽが、一瞬だけ暗いリングを照らす。
「ただ――」
紫の煙が、ゆっくりと天井に向かっていく。
「自分で“終わらせた”って言えるものを、一個くらい持っとけって話だ。誰かの都合とか、家庭の事情とか、世間の目とかじゃなくてな。自分の拳でケリつけたって、胸張って言えるやつ」
退学か、卒業か。学校や母とか、生活指導の顔色じゃなくて、自分で「卒業したい」って選んだあの日。
あれも、たぶん、ウチの中の何かにケリつけたかったからだ。
「……じゃあさ」
ロープに寄りかかったまま、ぽつりと言う。
「もし、高校の試合出て、ボコボコにされて、ダサく負けたら。ウチ、それ、ちゃんと笑い話にできる?」
「できるだろ」
トレーナーは、即答した。
「そのときは俺が、何回でもネタにしてやる。“こいつ、情けねえ負け方したくせに、それでもジム来てるんですよ~”ってな。で、お前は“マジうぜぇ”ってキレる。最高じゃねえか」
「どこが最高だよ」
「負け話で笑えるやつは、強えんだよ。勝ち話しかできねえやつは、ろくな大人にならねえ」
タバコの煙の向こうで、トレーナーの目が、ちょっとだけ優しくなる。
「まあ、やるかどうかは、お前が決めろ。締め切りは、そんなに長くねえけどな」
「締め切り?」
「新入部員、じゃねえや。インターハイの地区予選のエントリー。二年の夏までに登録しねえと、三年の冬しかねえぞって話」
「……そんな具体的な締め切りいらないし」
「現実ってのは、だいたい締め切りでできてんだよ」
カン、と誰かがサンドバッグのチェーンをいじった音が聞こえる。リングの外では、学生っぽい男の子がシャドーを始めている。
「今日はもう上がっていいぞ。シャワー浴びて帰れ」
「え、まだ一ラウンドしかミットやってないじゃん」
「珍しく真面目な話したから疲れた。年寄りをいたわって早く帰れ」
「はいはい。心配しなくても、勝手に帰るし」
ロープをまたいでリングから降りる。キャンバスの感触が足から離れると、さっきまで思ってたことが、少しだけ遠くなる。
シャワー室で汗を流して、髪をタオルで適当に拭く。鏡に映る自分の顔は、いつもより少しだけスッキリして見えた。
今しかできねえこと、一個くらい握っとけ。
自分の拳でケリつけたって、胸張れるやつ。
ジムを出ると、外の空気はもう冷たかった。息を吐くと、白くなってすぐ消える。パーカーのフードを被って、商店街のほうへと歩き出す。
河川敷に行こうか、どうしようか。ちょっと迷って、でも足は自然とそっちに向かってた。




