ユイと、くだらないことで笑う放課後
停学が明けて、ちゃんと学校に来るのは、何日ぶりだっけ。
大した日数じゃないはずなのに、昇降口の空気が、やけによそよそしく感じる。濃紺のブレザーの前を適当に留めて、グレーのチェックのスカートの裾を片手で直す。緩めに結いたエンジのストライプのネクタイが曲がってるのを窓ガラスで確認して、指先でぐいっと真っすぐにした。
――別に。来たくて来てるわけじゃないし。
心の中でそうつぶやいて、上履きのかかとを踏み潰すみたいに履く。廊下のざわざわとした声が、少しだけ遠くから聞こえる気がした。
「……はぁ」
一つため息をついて、教室のドアを引く。
ガラッ。
一瞬、視線が集まる感じがした。教壇の横でプリントを配ってた担任が、ちらっとこっちを見て、それから何事もなかったみたいに前を向く。教室の後ろのほうで、女子グループがひそひそ笑う気配がする。
「戻ってきたんだ」とか、「またなんかやらかすんじゃね」とか。どうせそんなとこでしょ。
別に、いいけど。好きに言ってろって感じ。
自分の席に向かおうとして、ふと机のあたりに違和感を覚えた。落書きとか、変なメモとか、そういう嫌がらせ系を一瞬で想像して、全身にじわっとした熱が広がる。
――やってみろよ。ぶん殴るからな。
心の中で拳を握りながら机を見ると、そこには何もなかった。落書きも、貼り紙も。代わりに、机の中から、白いレジ袋が一つ、ちょこんと顔を覗かせている。
「……は?」
思わず声が漏れる。そのとき、すぐ背後から、軽い声が飛んできた。
「あ、それ、ウチの。ちゃんと冷めないうちに食べなよ?」
振り向くと、そこにいたのは、ショートボブで笑顔全開の女子――ユイだった。体育で一緒になったときに「アンタ、ボクシングしてない?」って絡んできた、あのうるさいやつ。
「は? なにこれ」
「見りゃわかるっしょ。肉まん。コンビニの。ほら、停学明けだし? とりあえず糖分とカロリーぶち込んどけば、人間なんとかなるって説」
「雑すぎんだろ、その説」
思わずツッコんでしまってから、しまったと口をつぐむ。ユイは気にした様子もなく、にししと笑った。
「え、今、ちゃんと反応したじゃん。よかったー、死んでないじゃん、神崎」
「誰も死ぬとか言ってないし。てか、名字で呼ぶなって」
「じゃ、明日?」
あっさりファーストネームで来るあたり、この子の距離感バグってる。眉をひそめると、ユイは首をかしげた。
「なに? あかりって呼んだほうがいい?」
「どっちも別にいいし。どうでもいいし」
「じゃ、明日で。あした。なんか、いいじゃん、その感じ」
あしたって発音に、胸の奥が一瞬だけザラっとした。先輩の声が、頭のどこかで重なる。
――明日って書いてあかり、いい名前じゃん。
慌ててその記憶を追い払うふりをして、レジ袋を取り出す。中から、あったかさの残った肉まんが出てきた。ほの甘い匂いが、教室のチョーク臭い空気の中でやけに目立つ。
「……なんで、これ」
「え? なんかさ、停学明けって、普通にキツくね? 空気とかさ」
ユイは、自分の机の背もたれに体重を預けて、両手を広げてみせる。
「ウチさ、中一のときに一回やらかしててさ。三日だけだけど停学食らったの。戻ってきたら、周りの目がマジでウザくてさ。やばくね?とか、怒らせたら殺されそうとか。いや、殺さねーしって感じなんだけど」
「……似たようなこと言われたわ」
「でしょ? そういうときって、とりあえずなんか食べてると、ちょっとマシになんない? 口塞がってると、変なこと言われてもスルーしやすいし」
「理屈がおかしい」
でも、わかる気もした。何かに手を伸ばしてるとき、人ってそんな簡単に壊れない。サンドバッグを殴ってるときに、どうでもいいことがどうでもよくなるみたいに。
「ま、ウチが食べたかったってのもあるんだけど。二個買って、一個あげただけっていう」
「それ、半分は自分の都合じゃん」
「五割どころか七割ウチの都合。残り三割が、明日のなんか。えっと、なんだろ。……生存祝?」
「死んでねーし」
ツッコミが止まらない自分に、内心でちょっとだけ驚く。口の端が、勝手に緩みそうになるのを、あわてて押さえた。
「はい、早く食べなよ。授業始まったら、生活指導のセンセに見つかって没収されるから」
「教室で食うの前提かよ。ありえないんだけど」
「じゃ、次の休み時間。コンビニの前で。ほら、最近ちょい寒いしさ、外で肉まん食べんの、季節的にベストじゃね?」
コンビニの前――その単語に、また別の記憶がざわつく。中学のとき、夜のコンビニで、レジの中からこっちを見てくれた先輩の顔。
――あの日々の続きは、もうない。
そう自分に言い聞かせるみたいに、わざと素っ気なく返す。
「別に。暇だったらね」
「はいはい、別にいただきましたー」
チャイムが鳴って、ユイは自分の席に戻っていく。その背中を見送りながら、左手に残る、肉まんのぬるい温度を確かめた。
別に、嬉しくなんかない。たかが百数十円のコンビニ飯。そんなの、ありがたがるほど困ってるわけでも――
――でも、今日、誰かがウチの分まで買ってくれた。
それだけの事実が、じわじわと胸の中に染みこんでくる。
◇
「さっむ……」
放課後。約束どおり――というほど大げさなもんじゃないけど、コンビニの横の駐車場で、ユイと並んでしゃがみ込む。アスファルトから、日中のぬくもりがまだ少しだけ残ってて、タイツ越しに脚がじんわりあったかい。
手には、さっきの肉まん。レンジで温め直してもらって、今度はちゃんと熱々だ。白い湯気が、顔の前でふわっと揺れる。
「ほら、かじりなよ。冷める前に」
「いちいちうるさい」
そう言いながら、がぶっとかじる。中からあふれた肉汁が、口の端から少しこぼれそうになって、慌てて舌で受け止める。
「……あっつ」
「だよね? コンビニの肉まんって、外の皮はそうでもないのに、中のあんだけ地獄みたいに熱いよね」
「わかる。口ん中、軽く火傷するやつ」
「でもそれが、なんか冬っぽくてよくない?」
「理屈おかしい第二弾」
笑いながら言うと、ユイも「それな」と笑った。くだらない。ほんとにくだらない会話なのに、喉の奥から出てくる声が、やけに軽い。
「神崎さ、ボクシング部入れば?」
肉まんを半分くらいまで頬張ったタイミングで、不意にユイが切り込んでくる。口の中がいっぱいで、即座に反論できない。
「この前の体育のときのさ、あのミット持ちの構え。やってるやつの動きじゃん、あれ。てか、普通にフォームキレイだったし」
「……別に」
なんとか飲み込んでから、いつもの言葉を吐き出す。
「ウチ、そういうちゃんとした部活とか、マジ向いてないし」
「なんで? 別にちゃんとしてなくてもよくない? ウチだって、全然ちゃんとしてないよ?」
「いや、お前はなんか、そういう、ちゃんとしてないのが似合う陽キャっぽいからいいけど」
「それ褒めてる? ディスってる?」
「九割ディス。残り一割は……まあ、知らん」
「知らんて」
ユイはわざとらしく肩を落としてから、肉まんにかじりついた。唇に少しだけソース……じゃなくて肉汁がついて、それを舌でぺろっと舐める仕草に、なんか変に笑いそうになる。
「でもさ、ガチで勿体ないと思うよ、明日」
さっきまでのふざけたトーンのままだけど、ユイの目だけが、少し真面目になる。
「ウチさ、家でボクシング動画とかめっちゃ見るんだけど。女子の試合とかも。神崎、あ、明日? あの動き、そこらの初心者とかのレベルじゃないもん」
「動画ガチ勢かよ」
「ガチ勢。あと、ジムも見学行ったし。近所のとこ」
一瞬、胸が固くなる。近所のジム――ウチが夜に掃除してる、あの町道場のことじゃないだろうなと、頭の中で警戒ランプが点滅する。
「……どこ?」
「あのさ、駅の反対側の、商店街抜けたとこの二階にあるとこ。看板ショボいけど、めっちゃ本格的なやつ」
ビンゴ。心臓がどくんと跳ねたのを、なんとか顔に出さないようにする。
「へー。そんなとこあんだ」
「え、知らないの? なんか、ウチあそこ行ったとき、会長っぽいオッサンが女子は珍しいなとか言いながら、めっちゃミット持ってくれたよ」
たぶん、それ、間違いなく会長だ。
「リングの上では殴り合え。外じゃなるべく殴るなとか言っててさ。なんか、ダサいのにカッコよかった」
「……そう?」
その口癖まで一致してて、笑いそうになった。あのオッサン、どこでも同じこと言ってんのかよ。
「でさ、そのときにちょい聞いたんだよね。この辺で、女子で強い子とかいないんですか?って」
――やめろ。
心の中で叫ぶのと同時に、ユイは得意げに続けた。
「そしたらさ、高校生で一人、変なガキがいるって言ってた」
「変な……ガキ?」
「うん。なんか、いつも夜に掃除しに来て、勝手に殴って帰ってく女の子がいるって。会長、ニヤニヤしながらさ、あいつは高校でボクシングやったら面白いのになって」
完全にウチのことじゃん。顔から血の気が引く。
「で、女子ボクシング部の話したの。そしたら、そいつ学校嫌いだからなぁ。うまくスカウトしてみろよって」
「勝手にすんな、あのクソジジイ……」
思わず本音が漏れる。ユイが目を丸くした。
「え、やっぱ知ってるじゃん、そのジジイ」
「……知らねーし。たまたま、クソジジイって言っただけだし」
誤魔化し方が雑すぎるの、自分でもわかってる。ユイはニヤリと口角を上げた。
「ふーん。高校でボクシングやったら面白いって、どの口が言ってんだろね、そのジジイ」
「マジで黙れ」
「やっぱりー」
ユイは、勝ち誇ったように肉まんを食べきって、包み紙をくしゃっと握った。
「まあ、いいけどさ。別に、部活入れって無理強いする気はないし」
「意外。絶対ごり押ししてくるタイプかと思った」
「ウチもさ、一応ちょっとは人の事情ってやつ、考えるから。神崎――じゃなくて明日、なんか色々あるっぽいし」
「……勝手に決めんな」
「決めてないよ。ただ、色々あるっぽいってだけ。てかさ」
ユイはくるっとこっちに向き直る。目がまっすぐで、少しだけまぶしい。
「部活とか将来とか、その辺マジでどうでもいいって思ってる人間を、わざわざリングに引きずり込んでも、楽しくないじゃん。ボクシングなんてさ、どっちみちしんどいんだし」
「それは、そう」
「だからさ。明日が殴りたい場所とか、殴りたい相手とか、ちゃんと自分で決めたときに、一瞬でも部活でやってみっかなって思ったら、そのとき言って。ウチ、顧問にめっちゃ土下座してでも枠空けてもらうから」
「土下座すんな。キモい」
「キモくないし。体育館の床、割れるだけだし」
「例えが雑」
二人で、くだらない言い合いをしながら、コンビニのゴミ箱に包み紙を放り込む。白い息が、夕方の空に溶けていく。
「……まあ、その。あれね」
口が勝手に動く前に、一瞬だけ迷う。でも、ユイはもう、肉まん二個分くらいの距離までこっちに来てしまっている。今さら、遠ざけるのも面倒だ。
「ありがと。肉まん」
「え?」
「別に、そんな……期待してたとかじゃないけど。まあ、その、ウチにくれたの、ありがと」
早口で言ってから、視線をそらす。ユイは一瞬ぽかんとして、それから、顔をくしゃっとさせて笑った。
「やっば。今、ちゃんと“ありがと”って言ったよね? 神崎のレアボイスいただきましたー!」
「マジうぜぇ。二度と言わねーからな」
「はいはい、どうせまた言うから大丈夫」
「なんで決めつけんの」
「だってさ」
ユイは、空いた手で自分のポケットをぽん、と叩いた。
「明日、また学校来るんでしょ?」
――あたりまえでしょ? みたいな顔で。
胸の中が、一瞬だけきゅっと縮む。停学の処分が決まった日、生活指導に「どうする?」って聞かれたとき、自分の口から「卒業したい」って言葉が出た感覚が、蘇る。
「……別に。来たくて来るわけじゃないし」
「でも来るんでしょ?」
しつこい。ほんとに。だけど。
「……まあ。来てやっても、いいけど」
「イェーイ。じゃ、明日も肉まん買っとこっかな」
「いらねーよ。太るわ」
「えー? ボクシングやってるから、消費カロリーのほうが勝つっしょ」
「誰がやってるって言った」
「会長のジジイ」
「ぶん殴んぞ」
口ではそう言いながら、心の中では、ちょっとだけ違う言葉が浮かんだ。
――明日、また、ここでバカな話してもいいかもな。
家は、相変わらず帰りたくない場所だし、学校も窮屈なのは変わらない。それでも、教室の片隅とか、コンビニの横とか。そういうところに、こうやって「くだらないことで笑える相手」が、一人でもいるなら。
その分だけ、この世界は、少しだけマシだ。
「ほら、寒いから、早く帰りなよ」
ユイが、通学鞄を片手に立ち上がる。身長はウチより少しだけ低くて、多分一六〇もない。ウチの一六五センチから見下ろすと、髪のつむじがはっきり見える。
「お前こそ、部活行くんじゃねーの?」
「うん、これから。サンドバッグ殴ってくるわ。明日も、ちゃんと起きて来なよ?」
「……起きるかどうかは、気分」
「気分がノったらでいいからさ。でも、リングで戦う明日、絶対カッコいいと思う。輝くと思う」
その言葉が不思議と刺さった。
今まで考えたこともない、眩い舞台での殴り合い。
ユイはひらひらと手を振って、学校のほうへ歩き出す。その背中を、しばらく黙って見送った。
風が、髪の毛先を揺らす。夕焼けとコンビニの看板の光が混ざった空の下で、ウチは小さく息を吐いた。
「……明日、ね」
口の中にはまだ、さっきの肉まんの、少し甘い後味が残っている。
明日なんかいらないって、ずっと思ってた。今も、べつに「明日が楽しみ」とか、そんな綺麗ごとを言うつもりはない。
でも――
明日も、まあ、今日くらいなら。コンビニの前で肉まん食って、くだらないことで笑うくらいなら。起きてきても、いいかもしれない。
そんなことを思ってしまった自分が、なんか、ちょっとだけ悔しかった。




