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あした  作者: 秦江湖


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20/29

“明日”って書いて“あかり”ってさ

一か月ちょいの「様子見期間」を、どうにかこうにか滑り抜けたある日の放課後。


 廊下の窓から差し込む光が、いつもよりちょっとだけ柔らかく感じた。


「神崎〜、最近マジで遅刻減ってない?」


 昇降口でスニーカーに履き替えてたら、高橋が後ろからひょこっと顔を出してきた。


「“マジで”ってつけるほどじゃないし」


「でもさ、前は“二日に一回は遅刻〜”って感じだったじゃん。最近あんま見ないもん、“遅刻カード神崎”」


「うちの肩書き何」


 思わず笑ってしまう。


「つか、お前最近さ、ちょっと顔つき変わったよね」


「は?」


「なんか、“どうでもいい〜”って前ほど言わなくなった気がする」


「数えてんの?」

「体感」


 会長と同じこと言いやがる。


「ま、どうでもいいけど」

「こっちが言うな」


 そんなくだらない会話を交わして、ウチは校門を出た。


 スニーカーでアスファルトを鳴らしながら、ジムのある方角へ歩く。


 セミロングを耳にかける。

 根元のプリンが、またちょっと伸びてきた。


「……染め直す金、マジでどっから出すかな」


 ぶつぶつ言いながら歩いているあいだ、ポケットのスマホが震えた。


《今日、河川敷寄れる?》

 送り主:皿洗い。


《寄る》とだけ返して、ウチは足をちょっとだけ速めた。





 ジムで汗まみれになるまで殴って、会長に「最近ほんと“どうでもいい”減ったな」とか余計なこと言われて。


「カウントすんなって」


「いやマジで。前はオチ全部それだったのに」


「ウザ」


 そんなやりとりをしながら、シャワーだけ借りて髪をざっと乾かす。



「おーいギャル。鍵、よろしくな」

「はいはい」


 ジムのシャッターを半分まで下ろして、鍵を閉める。

 金属のかちりって音が、夜の空気に溶けた。



 そこから少し歩いて、コンビニの前を通り過ぎて、いつもの川の方へ。


 土手の上から見下ろすと、河川敷にはすでに人影がひとつ。


 黒いパーカーのフードをかぶって、橋の下のコンクリに背中を預けてる。



「待った?」

「五分」


 桐沢先輩が、ちらっとこっちを見る。


「時間ぴったりじゃないの、最近」

「“遅刻ゼロ”チャレンジ中なんで」

「いい心がけだ」


 隣に腰を下ろすと、缶コーヒーとペットボトルの水を一本ずつ差し出してきた。


「今日は肉まんないの?」


「季節じゃねーだろ、もう」


「一年中売ってるし」


「お前が卒業するころには考えとく」


 さらっと「卒業するころ」とか言うな。

 川の水面が、街灯の光をちょろちょろ拾ってる。


 虫の声と、遠くの車の音。

 いつもの河川敷の音。


「でさ」


 缶コーヒーのプルタブを開けながら、ウチは口を開いた。


「この前、会長からタカの話聞いたじゃん」

「うん」


「それでウチ、桐沢先輩のこと、“全部悪い大人”って見るのやめたって話したじゃん」


「そうね。“バカなガキだった大人”に格下げ(?)したって」


「格下げじゃなくて昇格だからね」


「そこ推すな」


 ちょっと笑い合う。


「で、今度はウチの番かなって」

「ん?」

「“ウチの話”」

 スニーカーのつま先で地面をちょっと掘る。


「桐沢先輩、ウチの過去とか、名前の意味とか、ちゃんと聞いたことないでしょ」


「名前の意味?」


「“明日”って書いて“あかり”のこと」


 ミルクティー色の髪の下で、ピアスが小さく揺れる。


「会長には、ちょっとだけ話した。生活指導にも、家にいたくないってのはちょっとだけ言った。でも、桐沢先輩にはまだ、ちゃんとは言ってないなって」


「言っていいの?」


「言うって決めたから呼んだんだけど」


「こっちの感情の準備とかは?」


「知らん」

「ひでえ」


 苦笑いしながらも、桐沢先輩の目が「ちゃんと聞くモード」になる。


「ウチさ」


 膝を抱えて、顎を乗せる。


「物心ついたときから、家にお父さんいなかった」


「うん」


「どこ行ったの?って聞いたら、仕事で遠く行ったとか、大人の事情とか、そんな感じで。で、小学校のときに、母親がベロンベロンに酔った夜があって」



 テレビの音が無駄にでかい部屋。

 テーブルの上に、飲みかけの缶チューハイと、コンビニ弁当のカラ。


「あんたの父親、クソだったからって言ったの」


「ストレートだな」


「“女と金にだらしなくてさ〜、借金も残してさ〜、とか。あんたはお父さんに似ないといいね〜、だから明るい子になってほしくて、明日って書いてあかりってつけたんだよ〜って」


 真似してハイトーンで言うと、自分でも鳥肌が立つ。


「酔った勢いで名前の由来バラしてきたわけ」


「なるほど」


「明るい子になってほしくてとか、明日に向かって〜とか。なんか全部、あんたはこうあってほしいって押し付けに聞こえた」


 名前そのものまで、うっすら嫌いになったのは、そのあたりからだ。


「だから、明日って漢字見ると、ちょっとムカつくんだよね。明るく生きてね〜。前向いてね〜って言われてる気がして」


「わかる気はする」


「実際、明るくなんかねーし。明日なんか来なくていいってずっと思ってたし」


 川面を見ながら、息を吐く。


「中学のとき、コンビニの兄ちゃんに名前言ったじゃん」


「明日って書いてあかりって?」


「そう。あんときさ、マジで言うか迷ったんだよね」


 あのレジの前。

 からあげ棒の油の匂い。


 「履歴書はフルネームだろ」って言われたこと。


「でも、まあどうせすぐいなくなる大人だし〜って思って、適当に言った」


「ひでえ評価」


「結果的には当たってたし」


「反論できねー」


 ふたりでちょっと笑う。


「で、いいじゃん、その名前って言われたの覚えてる?」


「覚えてるよ」


 桐沢先輩が、少しだけ照れくさそうに笑う。


「明日って書いてあかり。なんか先っぽにちょっと光ってる感じって。ポエムみたいなこと言って、キモって言われたやつな」


「ちゃんと覚えてんじゃん」

「トラウマだもん」

「トラウマなんだ」


 クスクス笑いながらも、そのときの感覚が、今でも体のどっかに残ってる。


「あのとき、ウチ、マジでびっくりしたんだよね」


「なんで」


「いい名前だよって、ストレートに言われたの初めてだったから」


 母親からは、「明るくなってほしくてね〜」って願望の話しかされなかった。


 先生からは、「最近の子の名前っぽいね」とか「読めなかった〜」とか、そういうコメントしかもらってない。


「名前そのものをちゃんと褒められた感じがしたの、あのときだけだったから」


 缶コーヒーを両手で包むと、指先が少し温まる。


「だからさ。明日なんか来なくていいって思ってても、明日って書いてあかりなんだよな〜って、頭の隅っこでずっと引っかかってた」


「……そっか」


 桐沢先輩が、静かにうなずく。


「で、最近ようやく、名前の意味、ちょっと使ってやってもいーかなって気になってきた」


「使う?」


「明日って単語、完全否定するんじゃなくてさ。どうでもいいって口で言いながらも、ちょっとだけ先っぽに光ってる方に振っとく、みたいな」


「前より、ポエム上手くなってんじゃん」

「うるさい」


 でも、そう言ってもらった名前だから。


「ウチ、退学するときにさ。明日なんかマジいらねーし。明日も明後日も全部燃やしてやるしって、名前まで捨てるつもりだったんだよ」


「物騒」

「でも今は……」


 川面を見つめながら、言葉を探す。


「卒業証書も、明日も、もうちょい持っててもいーかなって」


「おお」


 桐沢先輩が、ちょっと驚いた顔をする。


「それ、けっこうデカい変化じゃね?」

「知らんけど」



「じゃあ――」


 桐沢先輩が、少し真面目な顔になる。


「改めて言っとくわ」

「なにを」


「明日って書いてあかり、いい名前だよ」


 中学のコンビニの前と、同じセリフ。

 でも、今聞くそれは、あのときよりずっと重みがある。


「……何回言う気?」


「何回でも言ってやるよ。お前がどうでもいいって言い飽きるまで」


「一生終わんなそうなんだけど、それ」

「じゃあ一生言ってやるよ」


 さらっと言うな。

 胸の奥が、じん、と熱くなる。


「マジ、責任取れよ」

「取るよ。名前褒めた責任くらいなら、いくらでも取る」


 その言い方が、ズルい。

 視界が、ちょっとだけ滲んだのをごまかすみたいに、空を見上げる。


 街灯の光が届かないところで、星がいくつかだけ見えた。


「……桐沢先輩さ」


 ぽつりと口を開く。


「ウチが、明日サボりたくなったときは?」

「LINEしろ」


「サボりまーすって?」

「サボりたいですでもいい」

「で、いいよ〜って言うわけ?」

「内容によるな」


 桐沢先輩が、少し考えるふりをする。


「テストだりぃからサボりたいです〜だったら、行けって言うし。ボクシングの試合前で体力温存したいです〜とか、家でマジで事件起きましたとかなら、サボれって言う」


「基準ガチじゃん」

「そりゃそうだろ」


 缶コーヒーを飲み干して、缶をコンビニ袋に突っ込む。


「とりあえず、一人で勝手に決めて“どうでもいい〜って投げるのだけ、ちょっとやめてみ?」


「……努力目標ね」


「指導計画書に書いとけ、一人で完結しないって」


「生活指導に見せられないやつ」


 二人で笑う。

 川の流れは、変わらず一定だ。


 でも、ウチの中で、明日あした明日あかりの距離が、ほんの少しだけ縮まった気がした。


「じゃ、そろそろ帰れ、明日(あかり)

「だれ目線」

「元・コンビニ夜勤目線」

「ダサ」

「ダサくねーし。ほら、明日も起きろよ」


 軽く頭をぽん、と叩かれる。

 それがなんか合図みたいに感じて、ウチは立ち上がった。


「……一応、起きる予定ですけど」

「一応って便利だな、お前」

「ウチの人生、大体一応でできてるんで」

 土手を上がって、住宅街へ向かう道に出る。


 ポケットの中のスマホに、アラームを一本追加する。


 明日の朝七時。


 学校行く・ジム行く・河川敷寄る(余裕あれば)。


 タイトルに、「あした」ってローマ字で打ち込んで、保存する。


 画面を消したとき、ガラスに一瞬だけ映った自分の顔が、いつもよりほんの少しだけマシに見えた。


(……明日なんかいらねは、とりあえず保留)


 心の中でそう呟いて、ウチは家への角を曲がった。


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