“明日”って書いて“あかり”ってさ
一か月ちょいの「様子見期間」を、どうにかこうにか滑り抜けたある日の放課後。
廊下の窓から差し込む光が、いつもよりちょっとだけ柔らかく感じた。
「神崎〜、最近マジで遅刻減ってない?」
昇降口でスニーカーに履き替えてたら、高橋が後ろからひょこっと顔を出してきた。
「“マジで”ってつけるほどじゃないし」
「でもさ、前は“二日に一回は遅刻〜”って感じだったじゃん。最近あんま見ないもん、“遅刻カード神崎”」
「うちの肩書き何」
思わず笑ってしまう。
「つか、お前最近さ、ちょっと顔つき変わったよね」
「は?」
「なんか、“どうでもいい〜”って前ほど言わなくなった気がする」
「数えてんの?」
「体感」
会長と同じこと言いやがる。
「ま、どうでもいいけど」
「こっちが言うな」
そんなくだらない会話を交わして、ウチは校門を出た。
スニーカーでアスファルトを鳴らしながら、ジムのある方角へ歩く。
セミロングを耳にかける。
根元のプリンが、またちょっと伸びてきた。
「……染め直す金、マジでどっから出すかな」
ぶつぶつ言いながら歩いているあいだ、ポケットのスマホが震えた。
《今日、河川敷寄れる?》
送り主:皿洗い。
《寄る》とだけ返して、ウチは足をちょっとだけ速めた。
◇
ジムで汗まみれになるまで殴って、会長に「最近ほんと“どうでもいい”減ったな」とか余計なこと言われて。
「カウントすんなって」
「いやマジで。前はオチ全部それだったのに」
「ウザ」
そんなやりとりをしながら、シャワーだけ借りて髪をざっと乾かす。
「おーいギャル。鍵、よろしくな」
「はいはい」
ジムのシャッターを半分まで下ろして、鍵を閉める。
金属のかちりって音が、夜の空気に溶けた。
そこから少し歩いて、コンビニの前を通り過ぎて、いつもの川の方へ。
土手の上から見下ろすと、河川敷にはすでに人影がひとつ。
黒いパーカーのフードをかぶって、橋の下のコンクリに背中を預けてる。
「待った?」
「五分」
桐沢先輩が、ちらっとこっちを見る。
「時間ぴったりじゃないの、最近」
「“遅刻ゼロ”チャレンジ中なんで」
「いい心がけだ」
隣に腰を下ろすと、缶コーヒーとペットボトルの水を一本ずつ差し出してきた。
「今日は肉まんないの?」
「季節じゃねーだろ、もう」
「一年中売ってるし」
「お前が卒業するころには考えとく」
さらっと「卒業するころ」とか言うな。
川の水面が、街灯の光をちょろちょろ拾ってる。
虫の声と、遠くの車の音。
いつもの河川敷の音。
「でさ」
缶コーヒーのプルタブを開けながら、ウチは口を開いた。
「この前、会長からタカの話聞いたじゃん」
「うん」
「それでウチ、桐沢先輩のこと、“全部悪い大人”って見るのやめたって話したじゃん」
「そうね。“バカなガキだった大人”に格下げ(?)したって」
「格下げじゃなくて昇格だからね」
「そこ推すな」
ちょっと笑い合う。
「で、今度はウチの番かなって」
「ん?」
「“ウチの話”」
スニーカーのつま先で地面をちょっと掘る。
「桐沢先輩、ウチの過去とか、名前の意味とか、ちゃんと聞いたことないでしょ」
「名前の意味?」
「“明日”って書いて“あかり”のこと」
ミルクティー色の髪の下で、ピアスが小さく揺れる。
「会長には、ちょっとだけ話した。生活指導にも、家にいたくないってのはちょっとだけ言った。でも、桐沢先輩にはまだ、ちゃんとは言ってないなって」
「言っていいの?」
「言うって決めたから呼んだんだけど」
「こっちの感情の準備とかは?」
「知らん」
「ひでえ」
苦笑いしながらも、桐沢先輩の目が「ちゃんと聞くモード」になる。
「ウチさ」
膝を抱えて、顎を乗せる。
「物心ついたときから、家にお父さんいなかった」
「うん」
「どこ行ったの?って聞いたら、仕事で遠く行ったとか、大人の事情とか、そんな感じで。で、小学校のときに、母親がベロンベロンに酔った夜があって」
テレビの音が無駄にでかい部屋。
テーブルの上に、飲みかけの缶チューハイと、コンビニ弁当のカラ。
「あんたの父親、クソだったからって言ったの」
「ストレートだな」
「“女と金にだらしなくてさ〜、借金も残してさ〜、とか。あんたはお父さんに似ないといいね〜、だから明るい子になってほしくて、明日って書いてあかりってつけたんだよ〜って」
真似してハイトーンで言うと、自分でも鳥肌が立つ。
「酔った勢いで名前の由来バラしてきたわけ」
「なるほど」
「明るい子になってほしくてとか、明日に向かって〜とか。なんか全部、あんたはこうあってほしいって押し付けに聞こえた」
名前そのものまで、うっすら嫌いになったのは、そのあたりからだ。
「だから、明日って漢字見ると、ちょっとムカつくんだよね。明るく生きてね〜。前向いてね〜って言われてる気がして」
「わかる気はする」
「実際、明るくなんかねーし。明日なんか来なくていいってずっと思ってたし」
川面を見ながら、息を吐く。
「中学のとき、コンビニの兄ちゃんに名前言ったじゃん」
「明日って書いてあかりって?」
「そう。あんときさ、マジで言うか迷ったんだよね」
あのレジの前。
からあげ棒の油の匂い。
「履歴書はフルネームだろ」って言われたこと。
「でも、まあどうせすぐいなくなる大人だし〜って思って、適当に言った」
「ひでえ評価」
「結果的には当たってたし」
「反論できねー」
ふたりでちょっと笑う。
「で、いいじゃん、その名前って言われたの覚えてる?」
「覚えてるよ」
桐沢先輩が、少しだけ照れくさそうに笑う。
「明日って書いてあかり。なんか先っぽにちょっと光ってる感じって。ポエムみたいなこと言って、キモって言われたやつな」
「ちゃんと覚えてんじゃん」
「トラウマだもん」
「トラウマなんだ」
クスクス笑いながらも、そのときの感覚が、今でも体のどっかに残ってる。
「あのとき、ウチ、マジでびっくりしたんだよね」
「なんで」
「いい名前だよって、ストレートに言われたの初めてだったから」
母親からは、「明るくなってほしくてね〜」って願望の話しかされなかった。
先生からは、「最近の子の名前っぽいね」とか「読めなかった〜」とか、そういうコメントしかもらってない。
「名前そのものをちゃんと褒められた感じがしたの、あのときだけだったから」
缶コーヒーを両手で包むと、指先が少し温まる。
「だからさ。明日なんか来なくていいって思ってても、明日って書いてあかりなんだよな〜って、頭の隅っこでずっと引っかかってた」
「……そっか」
桐沢先輩が、静かにうなずく。
「で、最近ようやく、名前の意味、ちょっと使ってやってもいーかなって気になってきた」
「使う?」
「明日って単語、完全否定するんじゃなくてさ。どうでもいいって口で言いながらも、ちょっとだけ先っぽに光ってる方に振っとく、みたいな」
「前より、ポエム上手くなってんじゃん」
「うるさい」
でも、そう言ってもらった名前だから。
「ウチ、退学するときにさ。明日なんかマジいらねーし。明日も明後日も全部燃やしてやるしって、名前まで捨てるつもりだったんだよ」
「物騒」
「でも今は……」
川面を見つめながら、言葉を探す。
「卒業証書も、明日も、もうちょい持っててもいーかなって」
「おお」
桐沢先輩が、ちょっと驚いた顔をする。
「それ、けっこうデカい変化じゃね?」
「知らんけど」
「じゃあ――」
桐沢先輩が、少し真面目な顔になる。
「改めて言っとくわ」
「なにを」
「明日って書いてあかり、いい名前だよ」
中学のコンビニの前と、同じセリフ。
でも、今聞くそれは、あのときよりずっと重みがある。
「……何回言う気?」
「何回でも言ってやるよ。お前がどうでもいいって言い飽きるまで」
「一生終わんなそうなんだけど、それ」
「じゃあ一生言ってやるよ」
さらっと言うな。
胸の奥が、じん、と熱くなる。
「マジ、責任取れよ」
「取るよ。名前褒めた責任くらいなら、いくらでも取る」
その言い方が、ズルい。
視界が、ちょっとだけ滲んだのをごまかすみたいに、空を見上げる。
街灯の光が届かないところで、星がいくつかだけ見えた。
「……桐沢先輩さ」
ぽつりと口を開く。
「ウチが、明日サボりたくなったときは?」
「LINEしろ」
「サボりまーすって?」
「サボりたいですでもいい」
「で、いいよ〜って言うわけ?」
「内容によるな」
桐沢先輩が、少し考えるふりをする。
「テストだりぃからサボりたいです〜だったら、行けって言うし。ボクシングの試合前で体力温存したいです〜とか、家でマジで事件起きましたとかなら、サボれって言う」
「基準ガチじゃん」
「そりゃそうだろ」
缶コーヒーを飲み干して、缶をコンビニ袋に突っ込む。
「とりあえず、一人で勝手に決めて“どうでもいい〜って投げるのだけ、ちょっとやめてみ?」
「……努力目標ね」
「指導計画書に書いとけ、一人で完結しないって」
「生活指導に見せられないやつ」
二人で笑う。
川の流れは、変わらず一定だ。
でも、ウチの中で、明日と明日の距離が、ほんの少しだけ縮まった気がした。
「じゃ、そろそろ帰れ、明日」
「だれ目線」
「元・コンビニ夜勤目線」
「ダサ」
「ダサくねーし。ほら、明日も起きろよ」
軽く頭をぽん、と叩かれる。
それがなんか合図みたいに感じて、ウチは立ち上がった。
「……一応、起きる予定ですけど」
「一応って便利だな、お前」
「ウチの人生、大体一応でできてるんで」
土手を上がって、住宅街へ向かう道に出る。
ポケットの中のスマホに、アラームを一本追加する。
明日の朝七時。
学校行く・ジム行く・河川敷寄る(余裕あれば)。
タイトルに、「あした」ってローマ字で打ち込んで、保存する。
画面を消したとき、ガラスに一瞬だけ映った自分の顔が、いつもよりほんの少しだけマシに見えた。
(……明日なんかいらねは、とりあえず保留)
心の中でそう呟いて、ウチは家への角を曲がった。




