元・不良の看板だった人
一か月の「指導計画」は、正直ギリギリだった。
遅刻ゼロは無理だったから、「極力しない」のラインで踏ん張って。
ドライブはほんのちょっとだけ減らして。
夜はジムと河川敷メインにして。
何回か、「もういいじゃん」「どうでもよくない?」って声が頭ん中で囁いてきたけど、そのたびに、
『卒業証書くらい、持っとけ』
会長のだみ声と、
『退学しましたって紙よりはマシだから』
桐沢先輩の声が、勝手にリピート再生されて、ギリギリで踏みとどまった。
一か月目の面談の日。
生活指導は、めちゃくちゃ悔しそうな顔でこう言った。
「……まぁ、様子見継続だな」
たぶん、内心ちょっとだけ「やるじゃないか」とか思ってるのは、顔を見ればなんとなくわかったけど。
こっちも素直に喜ぶの、なんか負けた気がして「別に」とだけ返した。
そんなふうに、ちょっとずつ「退学から一歩離れた」ある日のジムで、桐沢先輩の過去が、別ルートから勝手に漏れてきた。
◇
ロープをまたいでリングから降りると、足が棒みたいになってた。
ミット打ち二ラウンド+サンドバッグ三ラウンド。
会長の「あと三発!」「ラスト一発!」が、マジで鬼にしか聞こえない。
「倒れんなよ、ギャル」
「……うるさい。殺す気?」
「まだ軽めだろ。桐沢に比べりゃ」
「またそれ」
タオルで汗を拭きながら、会長がぼそっと名前を出す。
最近、ジムでの会話に「桐沢先輩」が出てくる頻度が、ちょっとずつ増えている。
週一くらいでシャドーしに来るから、会員さんたちの間でもすっかり「元エースの兄ちゃん」扱いだ。
「会長さ」
水を飲みながら、リングのステップの縁に腰を下ろす。
「桐沢先輩って、どのくらいヤバかったわけ?」
「ヤバかった?」
「家のこととか、連れのこととか。ちょっと聞いたけど、半分以上は色々”でごまかされてんだよね」
川で聞いた話。借金とか、更生施設とかは聞いた。
でも、ジム側から見た「桐沢裕」が、どんな存在だったのかは、まだちゃんと知らない。
「ふん」
会長が、ロープに肘をかけて、壁の写真のほうを顎でしゃくる。
「そんなに知りてえなら、あっち側からも見とけ」
視線を向けると、例の写真たちがずらっと並んでる。
インターハイ出場。県大会優勝。賞状とトロフィーの写真。
その中の一枚。
青コーナーでロープにもたれて、グローブ掲げて笑ってる若い桐沢先輩。
ショートの茶髪。今よりちょい丸い頬。
でも目つきは今よりずっとギラギラしてる。
「高二のときの、県大会決勝だな」
会長が、ちょっと誇らしげな声で言った。
「ライト級優勝。判定3−0。文句なしだった」
「へえ……」
元・不良の皿洗いじゃなくて、ちゃんと名前呼ばれる場所が、ここにはあったんだって、改めて思う。
「こいつさ」
会長が、写真から視線を離さないまま続ける。
「最初来たときなんか、ただのガキだったんだよ」
「想像つかない」
「金髪にする前な。中三で見学来て、ケンカ強くなりてーんすよとか、しょうもねえこと言ってた」
「言いそう」
「でも、サンドバッグ一発打たせたら、あ、こいつセンスあるわってすぐわかった」
会長の声に、ほんの少しだけ懐かしさが混ざる。
「足も軽いし、怖がり方もちゃんとしてたしな」
「怖がり方?」
「怖えもんは怖えって、ちゃんと体でわかってんの。だからビビりながらも前に出るし、引くときはちゃんと引く。ケンカ慣れしたガキにありがちな、とりあえず突っ込めば勝てんだろじゃなかった」
それ、ちょっとわかる気がする。
ジムで教わる「怖さの処理の仕方」は、路上のそれとはだいぶ違う。
「で、なんだかんだ真面目に通ってよ。高校入ったころには、うちじゃ頭一つ抜けてた」
「看板だったんだよ、うちの不良ボクサーとしてな」
「不良ボクサー」
「学校じゃ素行もそこそこ悪いし、喧嘩もしてたし。でもリングの上じゃ、ちゃんとやるやつ」
会長の口元が、わずかに笑う。
「雑誌の取材でも、こいつ、元・不良ですけど今はボクシングに真面目に取り組んでて〜って、ようある美談みたいに記事にされてた」
「出た、メディアの更生ストーリー」
「まあ、悪い話じゃねえけどな」
会長が、息を吐く。
「だからよ。逃げたときのダメージも、でかかったんだよ」
声が、少しだけ低くなる。
「こっちもさ。あいつならプロ行けるって本気で思ってたから」
「……」
「ある日、家のことで、しばらく来れませんって電話一本よ。そのあと、ぱったり」
コンビニの店長から聞いた「やめたよ」のトーンと、どこか似ている。
「最初は、まあ一、二か月で戻ってくんだろって軽く考えてた。でも半年、一年経っても来ねえ」
去年までの写真の隅っこには、桐沢先輩が笑って写ってる。
途中から、そこにぽっかり穴が空いたみたいになってるのが、なんとなく伝わる。
「こいつがいなくなってから、やっぱ不良は不良だな、期待しても無駄だなって、周りの大人が何人か言った」
「……」
「だから、逃げたエースってラベルだけでこいつを終わらせんの、なんかイヤでさ。写真も、そのまんまにしてんだよ」
壁の一角。
そこだけ時間が止まっているみたいな、桐沢先輩の笑顔。
「……それさ」
ウチは、写真を見ながらぼそっと言う。
「桐沢先輩、知ってんの? 会長がそう思ってるの」
「知らねえんじゃねえの」
「なんで言わないの」
「言ってほしいか?」
会長が、ちょっと意地悪そうに聞く。
「ウチだったら、ちょっとは嬉しいけど」
「ちょっとかよ」
「素直にめっちゃとは言わないタイプなんで」
「めんどくせえな、お前ら揃いも揃って」
会長が、鼻で笑う。
「まあ、あいつもお前も似たようなもんだ。
期待されんのも、がっかりされんのも、両方怖い」
「……まあね」
「だから、最初から期待されない場所に逃げたがる」
ウチなら、どうでもいいって言葉の安全地帯か。
「でもさ」
会長が、壁から目を離して、ウチのほうを見る。
「逃げたやつが、全部ダメかっていうと、そうでもねえ」
「急にフォロー入った」
「お前さ。桐沢と河川敷でなんか話したんだろ」
唐突に本題ぶっ込んでくるの、やめてほしい。
「……なんで知ってんの」
「最近のお前のどうでもいいの回数、前より減ってるからな」
「カウントしてんの?」
「体感だ」
会長が肩をすくめる。
「前は、なんでもどうでもいいでオチつけてた。最近は、最後の一行でちょっとだけ踏みとどまるときがある」
「観察力キモくない?」
「トレーナーだからな」
会長は、ふっと真顔に戻る。
「桐沢がな。この前、久々に俺にちゃんと頭下げたんだよ」
「頭下げた?」
「逃げてすみませんでしたって」
川で聞いた「ごめん」と重なる。
「それだけなら、別に珍しくもねえ。謝りに来るやつなんて腐るほど見てきた」
「うわ」
「でも、あいつはそのあとに、もしよかったら、あいつのこと見ててやってくださいって言いやがった」
「あいつ=ウチ?」
「そう」
心臓が、ドクッと変な打ち方をした。
「俺、あいつのこと中坊のときからちょっと見てたんでって」
「……ちょっとって何さ」
「さあな。コンビニの前でからあげ棒食ってた姿でも思い出したんじゃねーの」
「見てたなら教えてよ、そういうとこ」
顔が熱くなるのを、タオルでごまかす。
「で、なんか言ってた? 他に」
「あいつ、卒業まで行かせてやってくださいって」
会長の口調は淡々としてるけど、その中身は全然淡々じゃない。
「俺が逃げたぶんまで、リングから降ろさないでやってくださいってさ」
胸の真ん中に、ドスッてボディ入れられたみたいな感覚。
「……マジで?」
「マジだって」
会長が、ちょっとだけ口元を緩める。
「だから俺も、じゃあお前もたまには顔出せよって言った。そういう流れ」
「そういう流れでウチの人生決めないでほしいんだけど」
「もう決まってんだよ。卒業まで行くって」
「誰が決めたの」
「お前と、あいつと、あと俺」
「……会長さ」
バンテージを解きながら、ぽつりと言う。
「逃げたやつのこと、そんなに簡単に許していいわけ?」
「簡単には許してねえよ」
即答だった。
「今でも殴らせろって思うときあるよ。あいつの顔見るたびに、なんであのとき相談しねえで消えたんだよ、バカって思う」
「うん」
「でもよ」
会長が、ロープを指で軽くはじく。
「逃げたやつが戻ってきて、“あのとき逃げました。今はこうしたいです”って言ってんのを、ずっと無視し続けるのも、別の意味でダサくねえか」
「……」
「だから、“リングからは降りたけど、ジムには顔出してます〜”くらいのポジションで許してんだよ」
会長なりの落としどころ。
バンテージをぐるぐる巻き直しながら、ふうっと息を吐いた。
「……あと、連れのことって?」
ずっと気になってた単語を、最後に投げてみる。
「桐沢先輩、家の借金と、連れのトラブルで消えたって言ってたけど」
「お、そこ気になるか」
会長が、少しだけ目を細めた。
「まあ、そのへんは、外から見た話”しか知らねえけどな」
「教えてよ」
「しゃーねえな」
会長は、ロープから体を離して、古びた丸椅子にどかっと座り込んだ。
「……あいつの連れってのはな。お前も名前くらいは聞いたことあんじゃねえかってやつでよ」
そこで一度、言葉を切る。
「不良の看板ってのは、ひとりじゃ立たねえんだよ。いつも隣に、もうひとり立ってんだ」
その「もうひとり」の話が、このあとウチの中の「裏切られた感覚」を、だいぶ書き換えることになる。
そのときのウチは、まだそれを知らないまま、会長の次の言葉を待ってた。




