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あした  作者: 秦江湖


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17/29

元・不良の看板だった人

一か月の「指導計画」は、正直ギリギリだった。


 遅刻ゼロは無理だったから、「極力しない」のラインで踏ん張って。


 ドライブはほんのちょっとだけ減らして。

 夜はジムと河川敷メインにして。


 何回か、「もういいじゃん」「どうでもよくない?」って声が頭ん中で囁いてきたけど、そのたびに、


『卒業証書くらい、持っとけ』

 会長のだみ声と、

『退学しましたって紙よりはマシだから』

 桐沢先輩の声が、勝手にリピート再生されて、ギリギリで踏みとどまった。



 一か月目の面談の日。


 生活指導は、めちゃくちゃ悔しそうな顔でこう言った。


「……まぁ、様子見継続だな」


 たぶん、内心ちょっとだけ「やるじゃないか」とか思ってるのは、顔を見ればなんとなくわかったけど。


 こっちも素直に喜ぶの、なんか負けた気がして「別に」とだけ返した。


 そんなふうに、ちょっとずつ「退学から一歩離れた」ある日のジムで、桐沢先輩の過去が、別ルートから勝手に漏れてきた。





 ロープをまたいでリングから降りると、足が棒みたいになってた。


 ミット打ち二ラウンド+サンドバッグ三ラウンド。


 会長の「あと三発!」「ラスト一発!」が、マジで鬼にしか聞こえない。


「倒れんなよ、ギャル」

「……うるさい。殺す気?」

「まだ軽めだろ。桐沢に比べりゃ」

「またそれ」


 タオルで汗を拭きながら、会長がぼそっと名前を出す。


 最近、ジムでの会話に「桐沢先輩」が出てくる頻度が、ちょっとずつ増えている。


 週一くらいでシャドーしに来るから、会員さんたちの間でもすっかり「元エースの兄ちゃん」扱いだ。


「会長さ」


 水を飲みながら、リングのステップの縁に腰を下ろす。


「桐沢先輩って、どのくらいヤバかったわけ?」


「ヤバかった?」


「家のこととか、連れのこととか。ちょっと聞いたけど、半分以上は色々”でごまかされてんだよね」


 川で聞いた話。借金とか、更生施設とかは聞いた。


 でも、ジム側から見た「桐沢裕」が、どんな存在だったのかは、まだちゃんと知らない。


「ふん」


 会長が、ロープに肘をかけて、壁の写真のほうを顎でしゃくる。


「そんなに知りてえなら、あっち側からも見とけ」


 視線を向けると、例の写真たちがずらっと並んでる。

 インターハイ出場。県大会優勝。賞状とトロフィーの写真。


 その中の一枚。


 青コーナーでロープにもたれて、グローブ掲げて笑ってる若い桐沢先輩。


 ショートの茶髪。今よりちょい丸い頬。

 でも目つきは今よりずっとギラギラしてる。


「高二のときの、県大会決勝だな」


 会長が、ちょっと誇らしげな声で言った。


「ライト級優勝。判定3−0。文句なしだった」


「へえ……」


 元・不良の皿洗いじゃなくて、ちゃんと名前呼ばれる場所が、ここにはあったんだって、改めて思う。


「こいつさ」


 会長が、写真から視線を離さないまま続ける。


「最初来たときなんか、ただのガキだったんだよ」

「想像つかない」


「金髪にする前な。中三で見学来て、ケンカ強くなりてーんすよとか、しょうもねえこと言ってた」

「言いそう」


「でも、サンドバッグ一発打たせたら、あ、こいつセンスあるわってすぐわかった」


 会長の声に、ほんの少しだけ懐かしさが混ざる。


「足も軽いし、怖がり方もちゃんとしてたしな」

「怖がり方?」


「怖えもんは怖えって、ちゃんと体でわかってんの。だからビビりながらも前に出るし、引くときはちゃんと引く。ケンカ慣れしたガキにありがちな、とりあえず突っ込めば勝てんだろじゃなかった」


 それ、ちょっとわかる気がする。


 ジムで教わる「怖さの処理の仕方」は、路上のそれとはだいぶ違う。


「で、なんだかんだ真面目に通ってよ。高校入ったころには、うちじゃ頭一つ抜けてた」


「看板だったんだよ、うちの不良ボクサーとしてな」

「不良ボクサー」


「学校じゃ素行もそこそこ悪いし、喧嘩もしてたし。でもリングの上じゃ、ちゃんとやるやつ」


 会長の口元が、わずかに笑う。


「雑誌の取材でも、こいつ、元・不良ですけど今はボクシングに真面目に取り組んでて〜って、ようある美談みたいに記事にされてた」


「出た、メディアの更生ストーリー」

「まあ、悪い話じゃねえけどな」


 会長が、息を吐く。


「だからよ。逃げたときのダメージも、でかかったんだよ」


 声が、少しだけ低くなる。


「こっちもさ。あいつならプロ行けるって本気で思ってたから」

「……」


「ある日、家のことで、しばらく来れませんって電話一本よ。そのあと、ぱったり」


 コンビニの店長から聞いた「やめたよ」のトーンと、どこか似ている。


「最初は、まあ一、二か月で戻ってくんだろって軽く考えてた。でも半年、一年経っても来ねえ」


 去年までの写真の隅っこには、桐沢先輩が笑って写ってる。


 途中から、そこにぽっかり穴が空いたみたいになってるのが、なんとなく伝わる。


「こいつがいなくなってから、やっぱ不良は不良だな、期待しても無駄だなって、周りの大人が何人か言った」


「……」


「だから、逃げたエースってラベルだけでこいつを終わらせんの、なんかイヤでさ。写真も、そのまんまにしてんだよ」


 壁の一角。

 そこだけ時間が止まっているみたいな、桐沢先輩の笑顔。


「……それさ」


 ウチは、写真を見ながらぼそっと言う。


「桐沢先輩、知ってんの? 会長がそう思ってるの」

「知らねえんじゃねえの」

「なんで言わないの」

「言ってほしいか?」


 会長が、ちょっと意地悪そうに聞く。


「ウチだったら、ちょっとは嬉しいけど」

「ちょっとかよ」

「素直にめっちゃとは言わないタイプなんで」

「めんどくせえな、お前ら揃いも揃って」


 会長が、鼻で笑う。


「まあ、あいつもお前も似たようなもんだ。

期待されんのも、がっかりされんのも、両方怖い」


「……まあね」


「だから、最初から期待されない場所に逃げたがる」


 ウチなら、どうでもいいって言葉の安全地帯か。


「でもさ」


 会長が、壁から目を離して、ウチのほうを見る。


「逃げたやつが、全部ダメかっていうと、そうでもねえ」

「急にフォロー入った」

「お前さ。桐沢と河川敷でなんか話したんだろ」


 唐突に本題ぶっ込んでくるの、やめてほしい。


「……なんで知ってんの」

「最近のお前のどうでもいいの回数、前より減ってるからな」

「カウントしてんの?」

「体感だ」


 会長が肩をすくめる。


「前は、なんでもどうでもいいでオチつけてた。最近は、最後の一行でちょっとだけ踏みとどまるときがある」


「観察力キモくない?」

「トレーナーだからな」


 会長は、ふっと真顔に戻る。


「桐沢がな。この前、久々に俺にちゃんと頭下げたんだよ」


「頭下げた?」


「逃げてすみませんでしたって」


 川で聞いた「ごめん」と重なる。


「それだけなら、別に珍しくもねえ。謝りに来るやつなんて腐るほど見てきた」

「うわ」


「でも、あいつはそのあとに、もしよかったら、あいつのこと見ててやってくださいって言いやがった」


「あいつ=ウチ?」

「そう」


 心臓が、ドクッと変な打ち方をした。


「俺、あいつのこと中坊のときからちょっと見てたんでって」

「……ちょっとって何さ」


「さあな。コンビニの前でからあげ棒食ってた姿でも思い出したんじゃねーの」

「見てたなら教えてよ、そういうとこ」


 顔が熱くなるのを、タオルでごまかす。


「で、なんか言ってた? 他に」

「あいつ、卒業まで行かせてやってくださいって」


 会長の口調は淡々としてるけど、その中身は全然淡々じゃない。


「俺が逃げたぶんまで、リングから降ろさないでやってくださいってさ」


 胸の真ん中に、ドスッてボディ入れられたみたいな感覚。


「……マジで?」

「マジだって」


 会長が、ちょっとだけ口元を緩める。


「だから俺も、じゃあお前もたまには顔出せよって言った。そういう流れ」


「そういう流れでウチの人生決めないでほしいんだけど」


「もう決まってんだよ。卒業まで行くって」

「誰が決めたの」

「お前と、あいつと、あと俺」


「……会長さ」


 バンテージを解きながら、ぽつりと言う。


「逃げたやつのこと、そんなに簡単に許していいわけ?」


「簡単には許してねえよ」


 即答だった。


「今でも殴らせろって思うときあるよ。あいつの顔見るたびに、なんであのとき相談しねえで消えたんだよ、バカって思う」

「うん」

「でもよ」


 会長が、ロープを指で軽くはじく。


「逃げたやつが戻ってきて、“あのとき逃げました。今はこうしたいです”って言ってんのを、ずっと無視し続けるのも、別の意味でダサくねえか」


「……」


「だから、“リングからは降りたけど、ジムには顔出してます〜”くらいのポジションで許してんだよ」


 会長なりの落としどころ。


 バンテージをぐるぐる巻き直しながら、ふうっと息を吐いた。


「……あと、連れのことって?」


 ずっと気になってた単語を、最後に投げてみる。


「桐沢先輩、家の借金と、連れのトラブルで消えたって言ってたけど」


「お、そこ気になるか」


 会長が、少しだけ目を細めた。


「まあ、そのへんは、外から見た話”しか知らねえけどな」

「教えてよ」

「しゃーねえな」


 会長は、ロープから体を離して、古びた丸椅子にどかっと座り込んだ。


「……あいつの連れってのはな。お前も名前くらいは聞いたことあんじゃねえかってやつでよ」


 そこで一度、言葉を切る。


「不良の看板ってのは、ひとりじゃ立たねえんだよ。いつも隣に、もうひとり立ってんだ」


 その「もうひとり」の話が、このあとウチの中の「裏切られた感覚」を、だいぶ書き換えることになる。


 そのときのウチは、まだそれを知らないまま、会長の次の言葉を待ってた。


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