episode9
軍隊に守られながら避難廊下を進む俺たちの前に、信じられない光景が広がった。
黒い影――魔物のボス格――が、増援の軍人たちを押しのけ、廊下を蹂躙している。
鋭い爪、歪んだ体、咆哮。戦場の空気がひんやりと震える。
「……やばい……」
ルイの胸は高鳴る。
黒い剣に手を伸ばすこともできない。――今はただ、目の前で起こることを見守るしかない。
――その瞬間。
廊下の先から、一筋の光が駆け抜けた。
長い黒髪を軽く束ね、迷彩と戦闘装備を纏った女性。
銃でもナイフでもない、両手を空に掲げたまま、魔物のボスに突っ込んでいく。
「……何だ……?」
その女性の動きは、信じられないほど速い。
魔物の攻撃をほとんど避けず、体をかすめるだけで回避し、瞬時に反撃。
――そして。
鋭い一撃。
ボスの胸部に、彼女の拳が突き刺さる。
魔物の体がギシギシと軋み、黒い影が破れ、光を反射する。
「うそ……あんなの、人間じゃ……」
ルイは息を飲む。
美貌と戦闘能力、全てが圧倒的。
何一つ迷いなく、破壊と殺戮を同時に制御している。
カイも目を見開き、思わず呟く。
「……やべぇ……あれが、今回の増援の本体か」
魔物のボスは、最後の力を振り絞るが、女性の掌一つで地面に叩きつけられる。
そして――静寂。
女性は、倒れた魔物を一瞥したあと、ゆっくりと顔を上げた。
その視線が――ルイたちを捉える。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、空気が張り詰める。
カイが小さく息を吐いた。
「……見られてるな」
「ああ」
ルイも短く返す。
さっきまでの戦闘の余韻か、心臓の鼓動がまだ早い。
けれど、それだけじゃない。
あの女性の視線には、何か妙な圧があった。
敵意でも、警戒でもない。
ただ――“値踏み”。
女性はゆっくりと歩き出す。
血に濡れた床を、何の躊躇もなく踏みしめながら。
コツ、コツ、と規則正しい足音。
近づくほどに、その異質さがはっきりしてくる。
綺麗とか、強いとか、そういう言葉じゃ足りない。
“完成されすぎている”。
ルイは無意識に背筋を伸ばしていた。
逃げるでもなく、構えるでもなく。
ただ、その場に立つ。
女性は二人の前で止まる。
距離、数歩。
静かに見下ろしてくる。
カイが先に口を開いた。
「……助けてもらった、でいいのか?」
女性は少しだけ視線を動かす。
カイを見て、次にルイを見る。
そして、短く答えた。
「結果的には」
それだけ。
感謝を受け取る気もなければ、否定する気もない声音。
ルイはその声を聞きながら、ふと違和感を覚える。
(……なんだろうな)
上手く言葉にできない。
ただ一つだけ、はっきりしている。
この人は、“普通じゃない”。
強さの話じゃない。
在り方が、違う。
ルイは一歩だけ前に出た。
カイが「おい」と小さく制するが、構わない。
「……あんた」
女性の目が、わずかに細くなる。
「何」
ルイは迷わず言う。
「めちゃくちゃ強いな」
ストレートな言葉。
だが、そこに混じるのは純粋な驚きと――憧れ。
女性は一瞬だけ沈黙する。
予想外だったのか、それとも興味がないのか。
やがて、淡々と答える。
「そうでもない」
その言葉に、カイが思わず苦笑する。
「いやいや、あれ見てそれ言うか普通」
だが女性は気にしない。
視線は再びルイに戻る。
ルイはその目をまっすぐ見返す。
逃げない。
その様子を見て、女性はほんのわずかに表情を変えた。
ほんの僅かに。
「……怖くないの?」
静かな問い。
ルイは一瞬だけ考えて、答える。
「怖いよ」
即答。
「でも、それ以上に――」
言葉を探す。
胸の中にある感情を、そのまま掴み取る。
「追いつきたいって思った」
空気が、わずかに揺れる。
カイが横で「マジかよ」と小さく呟く。
女性は数秒、ルイを見つめたまま動かない。
そして――
「やめておきなさい」
ぽつりと、言った。
冷たいわけじゃない。
かといって優しくもない。
ただ、“事実”を置くような声。
「その先は、楽しくない」
ルイは眉をひそめる。
「楽しいとか、そういう問題じゃないだろ」
女性はわずかに首を傾ける。
「そう」
興味がない、という反応。
だがその直後、少しだけ視線が遠くなる。
何かを思い出したような――
あるいは、思い出すのをやめたような。
ほんの一瞬だけ、そんな気配がよぎる。
ルイはそれを見て、なぜか引っかかる。
(……今の、なんだ?)
すぐに元に戻る。
何事もなかったかのように。
女性は踵を返す。
「ここはもう危ない。離れなさい」
それだけ言って、歩き出す。
引き止める理由なんてないはずなのに――
ルイは、声をかけていた。
「待ってくれ!」
女性が止まる。
振り返らない。
ルイは言葉を選ばずに言う。
「俺、あんたを目標にする」
カイが思わず吹き出しそうになるのを堪えている。
だが、ルイは真剣だ。
女性はしばらく何も言わない。
やがて、わずかにだけ顔を向ける。
横目で。
「……好きにすればいい」
投げるような一言。
それでも、完全に拒絶はしていない。
ルイは小さく頷く。
「じゃあ、そうする」
女性はそれ以上何も言わず、今度こそ去っていく。
足音が遠ざかる。
やがて、完全に消える。
残された静寂の中で、カイが大きく息を吐いた。
「……お前、よくあんなのに話しかけたな」
ルイは苦笑する。
「自分でもわからん」
でも、と続ける。
「あのまま見てるだけってのも、なんか違う気がしてさ」
カイは肩をすくめる。
「まぁ、確かに」
そしてニヤッと笑う。
「で?目標にするんだろ」
ルイも笑う。
「ああ」
胸の奥が、少し熱い。
恐怖もある。
でも、それ以上に――
「強くなる理由ができた」
廊下の奥、女性が消えた方向を見る。
あの圧倒的な背中。
まだ遠い。
けれど、確かに見えた。
「追いつくぞ」
カイが軽く拳をぶつけてくる。
「おう」
静かな廊下に、小さな音が響く。
戦いは終わった。
でも――
二人にとっては、ここが“始まり”だった。




