第三話 はじまり
あの日、あの朝――
私は改札を出て、東口に続く通路を歩いていた。
それはいつもどおり。
この一年、それが私の日常となっている。
あの頃の私は、コクシ企業を辞めて自分の会社を立ち上げたが、経営に行き詰まり、ICT関連の副業で生計を立てていた。
副業。
平たく言えばアルバイトだ。
本業において、私は特殊なナノ構造体の研究をし、それをレーザーに転用しようとしていた。実験は、客員研究員として、国営の研究所の設備を借りて行っている。設備はそれでなんとかできた。しかし、無償で利用できる材料は限定されている。特殊な材料を使う場合は自腹で購入しなければならない。貴金属やレアメタルを使うから、かなりの出費になる。それに特許出願にも相応の費用がかかる。そういうわけで、起業前に用意した資金だけでは足りず、アルバイトをして生活の足しにしているのだ。
そのアルバイト、たまに休みをとって、実験や特許関連の打ち合わせを行うことになる。アルバイトをメインに考えるのは本末転倒ではあるが、金がなくては何もできないから、どうしてもアルバイト中心に物事を考えることになる。それ以前の私は、どうにも割り切ることができず、本業のために休みをとって何度かクビを経験した。こうした経験を経て、いまの境地に達したのだ。
そんな生活をつづければ精神と身体を蝕む。
だが、周りを見回すと、追い詰められた生活をしているのは自分だけではなかった。
ずっと独り言を言っている人
何かにつけて謝罪する人
入退院を繰り返す人
表情が能面のようになった人
私の知るICT企業は、労基違反の見本市のような場所。
だから、ひどい目に遭っているのは自分だけじゃないと言い聞かせ、あの頃の私は、なんとか前に進もうとあがいていた。
自分の本業をあきらめないために。
朝の品川駅通路は、通勤するサラリーマンであふれかえっている。その異常な混雑ぶりは海外でも有名になり、外国人がその様子を動画撮影していることも珍しくない。
法とマナーを守ってくれるのなら、私は外国人を歓迎したい。だが、この新世界に思いやりの文化はない。彼らは強引に人の流れを遮り、承諾を得ずに人々を撮影する。そして、映った人たちの意志など無視して動画をネットで公開するのだ。
――どうやってやりすごそう。
私は、学会やシンポジウム活動のおかげで、電機業界では顔が売れている。私の研究成果は、自己評価では画期的で類を見ないもの。当時は、あり得ないと疑いの目さえ向けられた技術だ。
しかし、日本以外では、特定環境下で光速が変化する現象が認知されており、物理学は相対論の呪縛から解き放たれている。だから、最近になって、私の研究は注目されはじめている。ここから這い上がる光が見え始めているのだ。
もう何年かすれば、私の研究成果は日本でも認められるようになるはず。もう少しだけ、副業をしながら持ちこたえればいい。それまでは、アルバイトをしている姿など、見せるわけにはいかないのだ。
それなのに――
私の気持ちなど斟酌せず、今日も混雑する通路の真ん中に、イエンカ人と思しき身なりの外国人が立っている。
彼は人々の非難の目など気にもせず、通勤する人々の流れを遮って動画を撮っている。
私は、顔が写らないように下を向き、少しでも早くそこを立ち去ろうと、流れの速いルートを探した。
その時、それは始まった。
どこかで悲鳴が上がり、人の流れに滞留が生じた。
別のところで、また悲鳴が上がった。
そして、また別のところで。
社畜と揶揄される人たちは、悲鳴を無視して先に進む。
だが、そんな彼らにも、足を止めて悲鳴の方を見る人が出はじめる。
悲鳴の近くにいて、悲鳴の理由を知った人たちは、そこから走って離れようとする。
駅通路は大混乱になった。
私は柱の陰に入り、混乱をやり過ごそうと思った。
だが――
西口の方で上がる悲鳴が、急速にこちらに近づいてくる。そして、すぐ近くでも悲鳴が上がった。
そこには、将棋の駒のような顔をした男がいた。
その男は醜い笑顔で、若くてハンサムなサラリーマンの顔面にミリタリーナイフを振り下ろそうとしている。
こいつはきっと自分の容姿にコンプレックスがあるのだ。
だから彼の顔を――
私は、そう感じると同時に一歩踏み出し、彼とナイフの間に自分の鞄を挿し入れた。
ナイフは革製の鞄に軽く食い込みはしたが、貫通はしなかった。
中には折り畳み傘が入っている。
手ごたえからすると、その金属の骨がナイフを押し留めたのだろう。
「離れて」
私はその若いサラリーマンに笑みを浮かべて声をかけ、ナイフを持った男と対峙した。
ちらりと見た若いサラリーマンは、遠目で見るよりも格好良かった。私の属性には同性愛という要素は存在しないはず。それなのに、私は近くで彼をみてどきりとした。きっと、その美貌が、あの男の劣等感を刺激したのだろう。
彼は私の言葉にしたがい、数歩後ろに下がった。
ナイフを持った男は、私を睨み付け、罵声を浴びせた……と思う。
――ここは日本。日本語を使え。
私はそう言いたかった。
男の言葉はセイグウ語で、何を言っているのかわからない。
ただ、日本人を指す差別用語だけは理解できた。
たぶん、この男はコクシ人だ。
振る舞いを見るに、セイグウ人に比べてなんとなく小物感が強い。
セイグウの傀儡として生きた、その歴史が染みついているように見受けられる。
そんな彼らの劣等感は、日本進出によって発散され、優越感へと置き換わりつつある。
それが目の前の男の態度に顕れている。
その過程には、転職することによって私も関わってしまった。
その後悔から、私の中にコクシへの恨みが芽生え、育ち続けている。
いま、それを晴らす良い機会かもしれない。
そんな考えが頭をよぎった。
だが、そう思うと同時に、私は自分が日本人であることを意識してしまう。
私は日本人だから、恨みにまみれて「真」の道からはずれてはならない。
緊迫した状況にも関わらず、私はそんなことを考えていた。
しかし、そんな風に思いはしても、いまここで、この相手を見逃すことはできない。
この男の向こうには、血にまみれた人が倒れている。そして、あちこちで上がる悲鳴から、同じようなことがあちこちで起きていることがわかる。いま起きているのはテロなのだ。テロリストを早急に排除せねば、犠牲者を大量に出すことになる。
私が選ぶべきは――
加減をすれば時間を浪費する。
その間に、他のテロリストの手によって被害者が増加する。
生かして拘束しておけば、仲間に解放されて、テロを再開することも考えられる。
私がどうすべきか、答えは決まっている。
私は、男の隙を狙って、左回し蹴りを放つ。
放ったつもりだった。
だが、その蹴りは――
私は歳をとり、身体が固くなっている。それは自分で思っている以上に酷いものだった。股関節が回し蹴りに必要な角度に開かないのだ。そして、思い通りに動けないゆえに、蹴りのタイミングもずれ、無様な姿を見せることになった。それは、まるで、滑ってひっくり返るような格好だった。
あまりも無様な姿に、自分の顔が赤くなるのを感じる。
もちろん目の前の男は、私の見苦しい姿を嘲笑っていた。
そして、セイグウ語で何かを言いながら、私に向けて右回し蹴りを放った。
きっと、蹴りとはこうやるんだ、というようなことを言ったのだろう。
だが、思いあがっていたのはお互い様だ。
男が嘲笑っている隙に、私はすでに切り替えている。
これなら――
私は男の蹴りを拳で受けた。
左手で右拳を隠していたので、相手から見れば、十字受けをするように見えたかもしれない。
だが、それは、受けであると同時に攻撃。
この瞬間、勝ちが決まった。
男は用心せず、全力で蹴り抜いた。
その蹴りは非常に強かったが、私の拳は十分に鍛えられていた。
鍛えた拳は歳をとってもそうそう衰えはしない。
私の拳は、正しく男の脛骨を捉え、砕いた。
その瞬間、男は妙な声を上げ、足を手で抱えようとした。
しかし、男の手が自分の足に届くことはなかった。
私がその足を掴んで引いたからだ。
そこから一歩踏み込み、私は男の軸足を刈った。
男は勢いよく倒れる。
その動きはまるで素人。
受け身をとる気配さえない。
彼の修行は、まるで蹴りだけに特化していたように見受けられた。
だから――
男の身体は一瞬宙に浮き、後頭部を床に激しく打ち付けた。
そこへダメ押しで足刀を放つ。
狙ったのは股間。
だが、その蹴りには、まったく反応がなかった。
後頭部を強打した時点で決着がついていたのだ。
「あ、あのー、ありがとうございました」
後ろから男の声が聞こえた。
振り向くと、そこには男の美貌があった。
それはさきほどの若いサラリーマン。
逃げていなかったのだ。
あちこちから悲鳴が聞こえるので、どこにも逃げようがなかったのかもしれないが。
「怪我はない、よね?」
「大丈夫です。本当にありがとうございます」
「よかった」
私は自分の顔に、笑みが浮かぶのを感じた。
彼が何かを言いかけた時、悲鳴があがった。
かなり近い。
私はちらりとそちらを見て、彼に別れを告げた。
「じゃ、気をつけて」
そう言って、私は近くの悲鳴へと走り出した。
後ろから、「ありがとう。頑張ってください」という声が聞こえた。
他にも、私の戦いを見ていたらしき人たちの声援がつづく。
声援は嬉しい。
だが、複雑だ。
私は初老の域に入っている。階段を上る時には膝に激痛が走る。腰も痛い。
こんな状態で戦えば、間違いなく自滅する。
十分に動けなくなったとき、私の生は終わるのだ。
でも、これでようやく解放される。
この酷い人生から。
そんな思いもあった。




