第二話 まことの道
私は何気なくテレビをつけた。
適当にチャンネルを変えてみたが、やっているのはくだらない番組ばかりだ。
いつからテレビ放送はこんな風になってしまったのだろう。
考えてみると、もう十年以上、私はまともにテレビを観たことがなかった。
スイッチを切ろうとしたとき、テレビからコクシ訛りの声が聞こえた。
どうやら、一部で広まりつつある反セイグウ的動きに抗議をしているらしい。
このところ、コクシは、セイグウ連邦の走狗として、日本の政治家を抱き込み、日本経済界に橋頭保を築き始めている。
その事実を知っているから、私はテレビに出ている男に強い嫌悪を覚えた。
彼らコクシ人にとっては己だけが重要である。
それは実際に話してみればわかる。
だが、コクシでは集団的圧力が強く、その重要なはずの己を完璧に隠蔽し、偽装するのが普通だ。彼らは自分の意思を隠し、セイグウの利益のための行動を強いられ、それに従うしかない。それは、連邦に併合された、小国の悲哀と言えるかもしれない。そんな彼らは、自分でも信じていないような嘘を言って物事を正当化したり、事実を歪曲して誰かを攻撃したりする。さらに問題なのは、彼らには、それを嘘だと感じさせないだけの擬態能力があることだ。彼らは、失われたはずの呪術を継承し、それをうまく利用している。
コクシは、たとえるなら戦国時代の小大名のような立場だった。うまく立ち回ろうとセイグウの機嫌をうかがっていたが、そのまま併合される結果になった。そして、その後もずっと当時の関係が継続している。そこに同情すべき要素はあるものの、彼らのしてきたことを考えれば、半端な同情心など雲散霧消する。
かつての私は、世の実態を知って、湧きあがるセイグウへの敵意を抑えるのに苦労していた。
私には、戦うために積み重ねたものがあったから、戦いを望む気持ちはどんどん成長し、抑えきれなくなりつつあった。
その積み重ねたものとは――
私は学生時代、師に出会い、武術を学んだ。
師の元で、世の人々が知らない秘伝の技さえも身につけた。
そんな私にとって、証拠を残さずに相手を始末するのは容易いこと。
やろうと思えば、その場で死因のわからないように片付けられるし、時間が経ってからあの世へ旅立たせる技なら、一日から三年までレパートリーがある。
そんな私だから、コクシ企業に勤めていた当時は、事ある毎に誘惑に駆られていた。
目の前のコクシ人たちを始末してしまおうかと。
コクシ人たちの嫌がらせは、私にそう考えさせるほどに執拗であった。
いま振り返ってみても、よく堪えたものだと思う。
だが、考えてみれば、そのコクシ人たちの行動は、セイグウに強いられたもの、あるいは、その鬱憤を晴らすためのもの。
それが私に向いていたのだ。
セイグウは、コクシより呪術の歴史が長い。
呪術など滅んだはずの現代において、セイグウの呪術はいまなお効力を保っていて、その力が連邦を結び付けているという噂だ。
コクシが擬態に使う呪術も、セイグウ由来のもの。
彼らはそれを日本への浸透工作のために使っているらしい。
生粋の日本人である私には、その呪術がいかなるものか、想像することさえできないが、漏れ聞くところによると、それは、人びとの欲望や恐れに作用し、本人も気づかぬうちに操られてしまうという。
私はかつてコクシ企業に勤め、すでに日本の政治家たちの多くが、セイグウに操られている現実を知った。日本の国力を削ごうとする謀略は、かなりの部分成功している。
だが、本来、日本人は呪術には強いはずだ。呪術は欲望や恐れを足掛かりにする。「真」を大切に思う日本人ならば、彼らの呪術などにかかりはしないはずなのだ。
その「真」とは、日本列島がこの世界に転移したあと、三連邦から侮蔑される地位まで堕ちた日本人が拠り所としてきたものだ。貪瞋痴三毒のはびこるこの世界では、日本の「和」の文化はトラブルしか生まない。相手を受け入れること、それは毒を取り込むことにほかならないし、そもそも日本的思いやりや譲歩は、弱さの証拠と見なされる。それゆえ、侮蔑される位置づけとなった我々は、三毒に染まらぬよう「真」を拠り所として生き、それが「和」に代わるアイデンティティとなったのだ。
品川駅でテロがあった日、私は多くのコクシ人たちの命を奪った。
あれは、目の前で行われたテロに対する正当な行為であった。
そう思いたい。
だが、私は、真実を知っている。
その事実が私を責めさいなむのだ。
彼らの多くはそれぞれ事情を抱えており、往々にして、外側に見えている姿と、内側の姿はちがっている。悪意を隠して善人を演じている者もいれば、強いられて悪行をはたらいている者もいる。セイグウの駒たるコクシ人は、そうした生き方をずっと強制されてきたのだ。
あの日、あの中に、自分の意に反してテロに参加させられていた者はいたのだろうか。
この疑問は、いまも私の心に棘のように刺さっている。
仮に、意に反してテロに加わったとしても、大量殺人を企てた以上、同情の余地はない。
私が気にする必要などないはずだ。
そのはずなのに、私は考えてしまう。
私は――
私は日本人なのだ。
そうあることにプライドを持っている。
だから、私は日本人として、「真」の道を歩みたい。
だが、そう思いはしても、周りがそれを許してくれない。
知らず知らずのうちに、道を踏み外しそうになる。
私は、常にその危ういバランスの上に身を置いているのだ。
そして、私は思い出す。
あの朝、品川駅は、テロリストから逃げる日本人たちで混乱状態にあった。
テロリストは全員がコクシ人。
この時代、三つの連邦国家が周辺国を併呑して勢力を拡大しつづけている。
弱者は喰われるだけ。
そんな世界情勢の中、すべての国は徴兵制を敷き、国民に軍事訓練を強制している。
それをしないのは日本だけ。
戦うことが当たり前の世界で、日本は腰抜けの代名詞と侮蔑されている。
そして、目の前で起きた現実が、周辺国が正しいことを裏付けている。
日本人は、逃げるばかりで反撃をしない。
ただ殺されていた。
あのとき、私は、彼我の戦力差を見極めようとしていた。
いまの私は初老の身。
身体は思い通りに動かない。
ここで死ぬのは構わない。
しかし、少しでも長く戦いたい。
どうすれば自分の命を効率的に使えるか。
私はそんなことを考えていた。
日本人の何割かは、何らかの武道の有段者だと聞いたことがある。
単に武道経験の有無で言えば、ほとんどの日本人は、体育教育に組み込まれた武道を学んでいるはず。
そういった背景があるから、戦おうと思いさえすれば戦えるのではないか。
その気になりさえすれば、コクシを退けることなど簡単にできるのではないか。
私はそう思ったのだが、彼らは戦おうとしなかった。
それは、急激に浸透しつつあるコクシの文化に影響を受けたせいなのだろうか。
愛や非暴力を謳うコクシの表の文化はきらびやかで人びとを魅了する。
だが、それだけではないはずだ。
この命に関わる場面で、なぜ誰も抵抗さえしないのか?
ひょっとしたら、背景にコクシの呪術があるのだろうか。
日本に入って来るコクシの文化は、きらびやかなイエンカ文化を模倣したものだが、そこには呪術が盛り込まれているのかもしれない。
しかし、彼らの呪術など薄っぺらなもののはずだから、その呪縛さえから解き放てば、日本人は戦えるのではないか。
あの日、私はそう考えた。
だから、あの日、あの場所で、私は叫んだのだ。
「我々日本人は戦えるはずだ」と。




