第三十一話 手玉
それは定例のテロ対策会議の後のことであった。私が帰ろうとすると、官房長官の根岸が近づいて来た。
「須藤さん、久しぶりに晩飯でもどうですか?」
根岸は酒を飲まない。私も飲まない。そのせいか、根岸はときどき私を食事に誘う。私の方も、酒を無理強いされることがないので、誘われれば付き合っている。信頼するまでには至らないが。
「良いですよ。どこに行きます」
「赤坂で中華とかどうです?」
「良いですね」
我々は、根岸の秘書が運転する小型のハイブリッドカーで赤坂に向かった。警護の者が二人同行したので、後部座席は三人掛けだ。真ん中に座った男は体格が良く、そのうえ汗臭かった。その両脇で、私と根岸がドアに押し付けられるように座っている。これは苦行だ。私は、運転席にいる痩せた秘書を見ながら、隣の男が運転すれば良いのに、と思っていた。
――帰りは同乗を断って地下鉄で帰ろう。
私はそう決心した。
食事の席で、私と根岸はいつものように仕事関連の雑談をした。根岸は人を楽しませるような話をする質ではない。私も、そんな根岸に面白おかしい話をするつもりはなく、やはり仕事の話で応じた。それでも場が白けることはない。
お互いに仕事人間だから。
そんな中、珍しく話が逸れ、話題が私の武術になった。すると、後ろで控えていた警護の者たちが口を挿んできた。根岸は苦笑していたが、彼らをたしなめる様子はない。結局、彼らも同席することになり、無礼講のようになった。酒を飲んでいるわけでもないのに。
こんな風に、食事は意外と楽しく終わった。
しかし、店を出ると、知らないうちに、秘書と警護の者たちはいなくなっていた。
「ほかの人たちはどうしたんですか」
「ちょっと歩きながら話しませんか。久しぶりに、責任だの何だのから解放されたい気分なんですよ」
「良いですけど、警護の人がいないとまずいんじゃないですか」
「須藤さんが一人いれば何も問題ないでしょ」
「それは買いかぶりすぎです」
「いやいや、さっきの警護の連中を見たでしょう。目をキラキラさせてたじゃないですか。須藤さんは、いまや武道家にとって神様のような人ですよ」
「いやあ、私の本業は研究なんですけどね」
私の身体が老化していることは、自分が一番よく知っている。根岸は買いかぶりすぎだ。しかし、国を牛耳る根岸官房長官におだてられるのは、悪い気分ではない。だが、同時に、うまく乗せられないように気をつける必要も感じていた。
私と根岸は二人で夜道を歩いていた。
時折ながめる夜空には雲一つなく、満月が輝いている。
だが、その雰囲気を壊すように、黒いワンボックスカーが現れ、すぐ近くに停車した。
車が止まるやいなやスライドドアが開き、女性の声が聞こえた。
口を押さえられているときに出すような「んー、んー」という声だ。
運転していた男は、車を降りて、スライドドアの方に回り込んで行った。
「早くしろ」
男の声が聞こえた。
「ちょっと失礼」
尋常ではない雰囲気だったので、私は根岸に声をかけ、車の中を覗いた。
そこには、生きた人が入っていると思しき、蠢く袋が二つあった。
袋は自転車の輪行袋のようだ。
三人の男たちが、それらを運び出そうとしている。
「ほら、そっち持て」
私は相手にわかるよう男たちの前に現れた。
一人の男が私に気づく。
「何見てんだ、おまえ」
男はポケットから折り畳みナイフを取り出し、それを開いた。
私は左手でナイフを持つ手を払い、もう一方の手を男の喉に伸ばした。
その手は、虎の口のような形を採っている。
相手の男は、私が喉を掴もうとしていると思ったかもしれない。
しかし、私がそんな無駄なことするはずはない。
虎の口は閉じず、男の喉のとある気穴を打った。
その瞬間、男の声は出なくなった。
そして、呼吸もできなくなった。
男の顔は見る間に赤くなっていく。
私はその男を放置し、ほかの男たちに近づいた。
「こいつ、十人殺しだ」
男たちは、二人で一つの輪行袋を運んでいたが、一人がそう言うと、もう一方の男は袋から手を離して逃げ出した。
残された男は重さに耐えきれず、袋は鈍い音を立てて地面に落ちた。
袋の中から妙な声がした。
そして、その男も逃げて行った。
袋は蠢き、中から少女らしきうめき声が聞こえている。
その袋の口を開くと、輪行袋の中には布テープで拘束された少女が入っていた。
私は、彼女の手を拘束するテープを解き、車内に入った。
手が自由になれば、後は自分で何とかするだろう。
それよりも、車内の輪行袋が動かなくなったことが心配だった。
私は車内に放置された袋のジッパーを下ろす。
すると、涙に濡れた少女の目がこちらを見ていた。
「手を出して」
少女は拘束された両手を持ち上げた。
「あとは自分で解いてね」
私は少女の手の拘束を解き、車を出た。
車外に出ると、いつのまにか根岸の警護の者たちがいて、私が呼吸を止めた男を拘束していた。男は呼吸が回復しており、顔色は元に戻っている。その近くでは、根岸の秘書が警察を呼んでいた。
「このビルは大岩元明の白頭会が入居しているビルなんですよ。残りの部屋も、大岩の関係者が借りているという噂です」
根岸が私の隣に来て、小声でそう言った。
私は根岸に嵌められたようだ。
この誘拐に大岩が絡んでいるのなら、大岩側に私を攻撃する理由ができたことになる。
大岩は野党議員ではあるが、元は根岸と同じ党にいた。つまり、根岸たちの裏の事情を把握している。それが露見するのを恐れ、根岸たちは手が出せなかったのかもしれない。
ここからは警察の仕事になる。しかし、政権与党さえ押さえつけることができる大岩に、警察が手出しできようはずがない。根岸は何を考えているのだろうか。
根岸と話していると、上の方に人の気配を感じた。
私はさりげなく携帯を出し、そっと上方を撮影した。
「根岸さん、この事件、大岩絡みだったらもみ消されるんですか?」
私はダイレクトに問いかけた。
「事件自体はもみ消されないと思いますが、警察は大岩との関わりまで踏み込めないでしょうね」
根岸も婉曲的な表現を使わなかった。
そう言った根岸の目が、私の横を見る。
「あの、ありがとうございました」
「ありがとうございました」
少女たちは拘束を解き、私の傍らに立っていた。
私はしげしげと彼女たちを見た。
失礼なほどに。
口元がテープの痕で赤くなっていたが、二人とも稀に見る美少女だった。
大岩の人身売買組織は、上顧客に応えるために、美少女だけを誘拐して集めているのだろう。
「どういたしまして」
私がそう言うと、二つ目の袋に入っていた少女は、安心したのか、また泣き出してしまった。
それを一人目の少女が抱き寄せる。
私には、この年齢の少女たちと何を話したら良いかわからない。
どう扱えば良いのか悩んでいると、ようやく警察が到着した。
最初に到着したのは、制服の警官たちであった。
近くをパトロールしていて、この場に急行したらしい。
制服の警官らは、根岸を見ると揃って敬礼した。
根岸はそれに軽く頷く。
そして、片手をこちらに向けた。
「こちらは須藤さん。品川のテロで活躍された。あの女の子たちを救出したのは須藤さんです」
警察官たちは自己紹介をし、私に敬礼をした。
「犯人の一人はそこにいますが、あと二人いて、あっちの方に逃げて行きました。手配をしてもらった方が良いと思います」
私は二人の人相を伝えた。
「それから、あそこ。ずっとこちらを撮影している人がいます。画像を提出してもらってください。あの人は、戦闘中から撮影していたので、逃げた犯人の顔も写っていると思います」
そう言って、私は二階の人物を指さした。
私の言葉に、そこにいた皆が上を見上げる。すると、そこにいた人影は、慌てて姿を消した。
「あれは大岩元明の秘書ですね。あそこは白頭会の事務所だったと思います」
そこにいた警察官は、大岩や白頭会の名前を聞いてもピンとこないようだった。彼らは末端の警察官なので、政界について無知なのだろう。だが、それは好都合。大岩のことをよく知っていれば、ここで腰が引けてしまうかもしれない。知らなければ、物怖じせずにあの事務所に行って、遠慮なく協力を依頼するだろう。
彼らが白頭会に行くとき、私も後ろからついて行こうと思ったが、刑事らを乗せたパトカーが到着し、私の思い通りにはならなかった。
到着したのは米田と笹井だった。
彼らの管轄は品川近辺だと思っていたが――




