第二十三話 狐
私は阿佐ヶ谷の事務所の見える場所まで来た。
案の定、運転手は阿佐ヶ谷の事務所で待機しており、帰宅時間を狙って接触できた。
接触と言っても、すれ違いざまに、こっそりと手紙を渡しただけだ。
その手紙は、阿佐ヶ谷とのセッティングを求めるもの。
果たして、運転手は、私の願いをかなえてくれた。
そして、病院の裏側を知ることになる。
指示にしたがって訪問した病院には、VIP専用の区画があり、一般人には想像もつかない状態になっていた。
阿佐ヶ谷の病室は病室ではない。
そこは、ホテルのスイートルームのような部屋だった。
高級そうな家具さえ置かれている。
「これはこれは。品川の英雄にお出でいただけるとは、大変光栄です」
阿佐ヶ谷は、通常の入院患者が着るような病衣を着ていなかった。
彼が着ているのはゴルフウエア。
健康そうな様子でそんな服装なら、誰も病気で入院しているとは信じないだろう。
関係者以外、誰にも見られることがない以上、病人の振りをする必要はないということか。
政治家の現実は醜悪だ。
呆れるし嫌悪を催す。
しかし、この場の異質さは、それだけではない。
この部屋には強く異様な気配がある。
それは――
気配の源を探すと、空間にゆがみが見えた。
目を凝らすと、大きな獣の姿が浮かび上がる。
私は山海経の記述を思い出した。
山海経の青丘国の記事で言及されているのは獣。
四つ足で尾が九つある狐。
青丘国は九尾の狐のいる場所なのだ。
九尾というのは生命力や霊力のレベルを示す。
九とは最大の数。
レベル9。
そして、九の読みは久と同じ。すなわち永遠。
つまり、九つの尾というのは、最強クラスの生命力/霊力を持つということだ。わざわざ四つ足と記述があるのは、移動速度あるいは力がレベル4だと言う意味なのだろうか。
その霊験を政治的に利用しようと、旧世界には、九尾のいる青丘が自領のことだと主張した国が複数あったが、彼らはこの新世界を知らない。彼らの国のことであるはずがないのだ。ここには、彼らの常識からかけ離れた現実が存在している。私は九尾の狐を前に、その存在の異様さに気圧されていた。
身体が揺れる。
貧血になったように。
心の中から狐への恐怖が沸き上がって来る。
負の感情が増幅されて――
阿佐ヶ谷の呪術だ!
そう気づくと、途端に私の中の怒りがひとりでに増幅されていく。
前回の比ではない。
阿佐ヶ谷の呪術は、狐によってその力を増幅されているのか?
阿佐ヶ谷に目をやると、取り繕うのをやめたのか、見るからに邪な笑みが顔に貼りついていた。
鼻からゆっくりと息を吸う。
吸った時間の2割増しを意識し、ゆっくりと口から息を吐く。
二度繰り返すと、心が平らになった。
呪縛が解けると同時に一歩踏み出し、阿佐ヶ谷の腹部を突く。
驚愕の表情のまま阿佐ヶ谷が崩れ落ちた。
すると、ぼんやりとしていた狐の姿がはっきりと見えるようになってきた。
同時に、阿佐ヶ谷の身体が土くれに変わり、部屋に腐敗臭が漂いはじめる。
阿佐ヶ谷は、背乗りではなく、遺体を狐に操られていたのか?
私の中にそんな疑問が浮かび上がった。
私は狐と睨み合っていた。
視線を逸らせば命はない。
そんな予感のもと、私は狐から目が離せなかった。
実際のところ、目を離さずとも自分の身を守れるとは思えない。
相手は、最強であるレベル9の霊力を持つ存在。
そして、私はただの卑小な人間。
睨み合いをする意味などない。
それでも私は狐と目を合わせ、あとへは引かぬ気持ちを曲げなかった。
すると――
私は異様な感覚に陥り、身動きできなくなった。
身体をそこに残したまま、自分が頭の奥から後ろにある闇に引き込まれていく。
その感覚はどんどん強くなり、視界の端が暗くなっていった。
さらに後ろに引き込まれていく。
さらに――
そのとき、あの鳥の声がした。
「耐えよ」
その声が聞こえた時、私と入れ違いに、何かが前に出て行った。
急に部屋が明るくなった。
その明るさは強さを増していく。
光に狐が溶け込んでいき――
消えた。
それと同時に部屋の明るさは元に戻った。
私の視界も元に戻った。
阿佐ヶ谷のいたあたりに目をやると、そこには何もなく、腐敗臭も消えていた。
ノックが四回鳴った。
コンコン・コンコンというリズムで。
それはマナー通りのノック。
そのノックのあと、看護士が部屋に入ってきた。
「何か光りませんでした?」
彼女は部屋を見回し、部屋に一人いる私に質問した。
「それが……」
何をどう言えば良いのか。
私は返事に窮した。
「確かに何かすごく光ったんですが、何が起きたかよくわからないんですよ。阿佐ヶ谷さんはいくら待っても来ないし。私の方が聞きたいです」
私はその場を取り繕った。
「はあ」
「あのー、阿佐ヶ谷さん呼んでもらえます?ずっと待っているんですけど」
私はしらばっくれる戦法を選んだ。
「わかりました。少々お待ちいただけますか」
彼女はそう言ったが、結局、阿佐ヶ谷の居場所はわからないということで、私はそのまま帰ることになった。
その夜――
「ようやった」
夢の中で、人の頭を持つ鳥がそう言っていた。
山海経を調べた私は、あれがフソウのあたりに住む東方の神であることを知っている。
名はコウボウ。
人頭鳥身で黒い縁のある白服を着ており、二頭の龍に乗っている。
その神の力で九尾を退けたのか?
否。
あの光はコウボウのものではない。
あのとき、私がつながったのは、たぶん扶桑の樹。
扶桑。
それは日本の別称でもある。
記述によれば、扶桑の樹には十の太陽が宿る。
十とは、すなわち九の上。
あのときの光はレベル10の扶桑の権能で、それがレベル9の狐を退けたのではないか。
私にはそんな風に思えた。
朝食の時、テレビを見ていると、阿佐ヶ谷三郎の死が報道された。
死因は自殺。
不治の病であることがわかり、自ら命を絶った。
そういうことになっていた。
私が病院を訪問した事実はない。
現実は書き換えられていた。
その日、私が訪問したのは、病院ではなく書店。
洋子の記憶もそうなっている。
狐につままれたような。
そんな表現がふさわしい状況だった。
あの日、私はN日殺しを使った。
その技は、人為的に、深刻な機能障害を引き起こすもの。
不治の病を発症させる、という言い方もできる。
だが、効果が出るのを待つまでもなく、狐が阿佐ヶ谷を土くれに変えてしまった。
謎を残して。
土くれと化した阿佐ヶ谷が、なぜ自殺体になったのか。
報道された阿佐ヶ谷の自殺理由が、なぜN日殺しがもたらす症状と一致しているのか。
これはコウボウの仕業なのだろうか。
そう考えると――
ひょっとして、あの神はパラレルワールドを交差させたのではないか。
そう思う理由は、私の中に、遠い記憶のように、いくつもの「あのとき」の記憶が存在しているからだ。
その記憶のおかげで、私の中には、N日殺しの幾種もの力加減が記憶されている。
私の中には、パラレルワールドで使われたN=0からN=10くらいまでの記憶が混在していて、そのおかげで、私は十分な力加減を体得し、N日殺しを使いこなせるようになっていた。
阿佐ヶ谷が死んだ翌日、私は東京駅に程近い警察署に連行された。
誰かが匿名で、私が阿佐ヶ谷を手にかけたと通報したのだ。
だが、パトカーの中で、私を連行した警察官は内心を語った。
「安藤や高木の記録で、大体のことは把握しています。彼らのために阿佐ヶ谷を殴ってくれたんですよね。自分たちは、安藤さんの通夜に行ったときに録音を聞かせてもらって、はらわたが煮えくり返っていました。だから、私たちは須藤さんの味方です」
そう言う彼らの手もとには、私が阿佐ヶ谷を殴っている録画があるという。
私は、その録画が、容疑とは別の意味で気になった。
流派の機密が漏洩してはいないか。
N日殺しに使う気穴の位置が公になるのはまずいのだ。
「話は取調室に行ってからの方がいいのではないですか?」
私は、警官の言にどう返すべきか決めかね、そう言って問題を先送りした。
「そうですね。すいません。でも、ほんとうに私は須藤さんの味方ですから」
「ありがとうございます」
礼を言いはしたが、私はこの警察官の言うことを信用しているわけではない。
いろいろありすぎて、私は人を信用できなくなっていた。
だが、警察署に着いてみると、私の思いに反して、真実は車内で警察官が語ったとおりのものであった。
連行は形だけのもの。
私はすぐに解放されることになった。
「ところで、阿佐ヶ谷の病室の録画は、誰が送って来たか見当はついているんですか?」
「指紋は一切見つかりませんでした。コンビニから送られているので、防犯カメラの映像が残っているとは思うのですが。ただ、任意での提出は店主に拒否されまして」
「どこかから手が回っている感じですか?」
「それは何とも」
警察官は歯切れが悪かった。
こうして、私は警察から解放されたわけだが――
「恭介さんて、ほんと警察に縁があるわよね」
帰るなり、洋子に言われてしまった。
「そう言われると、自分が犯罪者みたいな気がする」
「じゃあ、ここで幸せな発表をします」
洋子はそう言って、後ろに回していた手を見せた。
「ほらっ、ほらっ」
彼女はそう言って、私に妊娠検査薬を見せた。
判定窓に線が表れている。
「どう?どう?」
彼女はそう言って、そのスティックで私の顔を突いた。
「ちょっと、それ、おしっこかけたやつでしょ?」
「何よ。私のおしっこなら飲めるでしょ?」
「いやいや、それはさすがに……」
「でも、よかった」
洋子は急にしんみりした口調になった。
「恭介さん、子ども欲しかったんだもんね。ほんとはね、私、妊娠できるか自信がなかったの」
「子どもが欲しいなんて言ったっけ?」
「うん。あなたって、寝惚けているときに質問すると、何でも正直に話すから。何でも知ってるわよ」
「ちょっと待って。他に何を聞いた?」
「エッチ画像の隠しフォルダとか」
「そんなものはない」
「ないの?」
「ない」
「つまんない」
「まあ、それは良いとして、おめでとうかな?ありがとうかな?こういうときは、どう言えば良いんだろう」
「両方で良いんじゃない?」
洋子は私に口づけをした。
洋子の頬には涙が流れていた。
「でも良かった。これでもう夜がんばる必要はないね」
「それはまた別の話。夜はちゃんとしないとダメよ。ずっとね。おじいちゃんになっても」
「そんなこと言われても、無理なものは無理だから」
「自分の身体はコントロールできるんでしょ?あっちの方も」
「それも質問したの?」
「何でも知ってるって言ったでしょ」
「これから寝室は別にしない?そんなことを聞いちゃうと、安心して眠れないよ」
「何処で寝るの?リビング?ダイニング?それでも聞きに行けるわよ」
彼女はいじめっ子のようににやにやしている。
じゃあ別居、と言いそうになって、私はその言葉を飲み込んだ。
妊娠初期は情緒が不安定になると聞く。
こんなトラブル続きの生活をしている以上、何もしなくてもストレスは溜まる。
彼女の負担をできるかぎり軽くするよう勤めねば。
あの日、私は洋子を失い、洋子の後を追った。
洋子はあちら側で私を待っていてくれた。
そして、私たちは人生をやり直した。
これは二度目の世界だ。
これから先はどうなるのだろう。
戦いはたぶん終わった。
終わっていなくても、もう参加したくない。
私はもう歳だ。
洋子と自分の子どものために、残りの人生を使いたい。
私の勝ち取った未来なのだから、あとは好きにさせてほしい。
私はそう思っていた。




