第十四話 誘拐
家に帰ると、洋子は仕事をしていた。彼女は前職のコネで仕事を回してもらっている。何かの制御プログラムを組んでいることもあれば、ウェブサイトのデザインやコーディングをしていることもあり、仕事には困らないらしい。忙しそうな時には、私も彼女を手伝うようにしている。
「ただいま」
「おかえりなさい。早かったのね」
彼女は目を閉じ、キスを求めた。五十六歳と三十八歳の夫婦ではあるが、まだ新婚なのだ。
「ちょっと待って。今日は嫌なやつに会ったんで、まず穢れを落とさないと。手と顔を洗ってくる」
「嫌な奴って?」
「阿佐ヶ谷三郎」
私は洗面所から洋子に返事をした。
「そんな人に会うなんて、恭介さんも大物になったわねえ」
「いいことなのかな?魔界へ踏み込んだんじゃないかな」
「魔界って。何かオタクっぽい」
洋子は笑い出した。
彼女は刑事の言っていたことを知らない。
知らせない方がいい。
いや――
阿佐ヶ谷が洋子に手を出す可能性もあるから、それとなく注意するように言っておくべきだろうか。
悩んだが、結局、私は詳細については話さないことにした。
「冗談じゃなくて、阿佐ヶ谷については警察も疑っているから、気をつけないといけないんだよ。君もね」
私の口調に、洋子の笑うのをやめた。
「また危ないことをするの?」
「もう関わりたくはないけど、向こうが放っておいてくれない。それに、ちゃんと筋を通しておかないと気分が悪いし」
「筋って。やくざ映画じゃあるまいし」
「古い人間なんですよ。」
私は石鹸で丁寧に手を洗い、洗顔フォームで顔も洗った。
「ん」
私が洗面所から戻ると、洋子はキスを催促した。私はそれに応えた。自分の歳は忘れた。
土曜日の朝、突然洋子は出かけたいと言い出した。
土曜なら電車はそれほど混んでいない。満員電車で身動き取れない中で刺される類の心配はしなくていい。だから、私は洋子の言う通りにしても構わないと思った。
――そうだ、スカーフを買おう。
初めて会ったとき、彼女はきれいなスカーフをしていた。だが、テロの際に切られてしまった。その代わりをプレゼントしよう。
そこそこの店で食事をした後、歩きながら洋子にそのことを話してみた。
洋子は私の首に手を回し、強引に口づけをした。いつものことだが、彼女は人目など全く気にしない。喜んでくれたのは嬉しいが、私は周囲の目が気になった。私たちは若いカップルじゃないんだから。
店に入ると、私は洋子に好きなのを選ぶように言った。
だが、彼女は私に選んでほしいと言う。
私は自分のセンスに自信がない。
だから、入店時の洋子の目の動きを思い出しながら、私は二つ候補を選んだ。
ひとつは、鮮やかな青に金色や水色の柄が入ったもの。
もうひとつは、藍色に鈍い金色のラインが入ったもの。
最終判断は洋子に任せた。
彼女は少し迷ったあと、藍色の方を手に取った。
彼女は言い訳のように、鮮やかな方は自分には派手過ぎる、と言う。
それは自分の年齢を考えた上での言葉で、私には、本心では鮮やかな方に魅かれているように感じられた。
月曜日、洋子は機嫌が良かった。
出かける用事もないのに私がプレゼントしたスカーフをしている。
その一方、私の方は出かける用意をしていた。
阿佐ヶ谷三郎に呼び出されたからだ。
呼び出しは電話。ついさっきのことだ。要件は、重要機密なので会ってから話すという。
私には、この呼び出しが怪しく思えてならない。
そもそも、阿佐ヶ谷と私の間には何もない。新たに関係を築くというのなら、ちゃんと手順を踏んで進めるのが社会の常識だろう。親交がないのに突然呼びつけるというのは礼儀を欠いている。
これが政治家の傲慢さというものか。
それにしても、警察から阿佐ヶ谷に関する情報を聞いてすぐ呼び出されると、どうしても諸々勘ぐってしまう。
秘書からの電話を受けた三十分後、秘書本人が自宅まで迎えに来た。
彼の名前は木村。
私を送り出す洋子の表情には、少しだけ不安が窺える。でも、何も言わない。彼女は笑顔を作り、私を送り出した。
私は木村に促されて車に乗る。
車が動き出すと、私は木村に要件を尋ねた。
「それで、どういったご用件でしょうか」
「現在、西新宿の再開発計画が進んでいることをご存知ですか?」
「ええ、聞いたことはあります」
「阿佐ヶ谷もその計画に関わっておりまして。それでですね。先日、街のデザインにテロ対策も盛り込むことはできないか、という話になりまして、須藤様のご意見も参考にさせていただきたく――」
木村の言っていることは真実味がないように思えた。街のデザインなど、門外漢の私に何を聞くというのだ。国のプロジェクトなら、もっとふさわしい人物に依頼できるだろうに。
「都市計画なら私は適任ではないと思うのですが」
その後しばらく、中身のない話がつづいた。
私はだんだんいらいらして来た。
すると、私の携帯が鳴った。画面を見ると、発信者名は洋子になっていた。
「ちょっと失礼します」
「どうぞ」
私は携帯に応答した。
しかし、相手は洋子ではなかった。
「女は預かった。西大井まで来い。三条清麻呂の墓だ。門の横のドアから入れ。鍵は開いている」
そう言うと、通話は切れた。
日本人の発音ではなかった。
「すいません。急用ができました。どこか駅の近くで降ろしてもらえませんか?」
「駅と言わず、目的地までお送りしますよ」
「そうですか。では、お言葉に甘えて、西大井駅までお願いできますか?」
「君、行先変更。西大井の駅まで」
「わかりました」
木村が私を連れ出した直後に妻が誘拐された。
そして彼の上司――阿佐ヶ谷は敵側。
これで木村が疑われないわけがない。
それでも誘拐したということは――
いや、相手は阿佐ヶ谷だ。阿佐ヶ谷の関わった政策はすべて失敗する。知能が高いとは思えない。そして、他人の言うことを聞くタイプでもない。阿呆が周りの意見も聞かずに自分の考えを押し通したということも有り得る。
隣を見る。
木村の態度に乱れはない。
問い質してやろうかと思ったがやめた。
意味のあることをしゃべるとも思えない。
車は西大井に向かうためにUターンした。
その後、国道一号線から一方通行の三間通りに入り、回り込むようにして西大井駅の東口に着いた。
「ありがとうございます。では、これで失礼します」
「お気をつけて」
運転手は、降りて私のためにドアを開けようとしたが、私は自分でドアを開けて走り出した。
車の中で三条清麻呂公の墓所は確認した。私はその墓所の方角へ急ぐ。しかし、その手前には踏切があり、遮断機が下りていた。
気が急く。
私はいらいらしながら電車が通り過ぎるのを待った。
だが、私はそこで気づいた。
考えてみると、時間は指定されていない。
洋子の身が心配だからのんびりしていることはできない。
しかし、焦って無策で突っ込んでもいいことはない。
電車の通過を待つ時間が私を落ち着かせてくれた。
踏切の遮断機が上がると、私は歩き出した。
走ると息が上がる。
自分の歳を考えろ。
それで戦えるのか。
私は歩きながら反省した。
墓所は踏切のすぐ先にあった。
墓所の隣にある公園の前には、白いバンが駐められており、屋根には撮影中というボードが立てられていた。そのバンの側面には熊のようなキャラクターが描かれ、その脇にはシンプルな書体でセイレーンと書かれていた。その前には黒塗りのセダンが二台駐められている。
墓所の前には老人たちが集まっている。彼らは少し興奮しているようだ。
「何かあったんですか?」
私は、そこにいた老人に聞いてみた。
「映画の撮影!さっき、ガラの悪い男たちがきれいな女の人を担いで行くシーンをやっていたところ。真に迫っていたよ。すごいねぇ」
興奮した老人はまだ話し続けているが、私は礼を言って話を切り上げ、隣の公園に入った。
墓所の公園側の塀は格子状で墓所全体が見渡せる。
そちらには中年女性の集団がいた。
「見えます?」
私はその女性たちに声をかけた。
「あっちの建物の中に入っちゃって見えないのよ」
「でも、きれいな人だったよね」
「あっ。あなた品川の……」
私が行くべき場所がわかった。門を入って左手の建物だ。
「ここは危ないので離れてください。これ、映画の撮影じゃないんで」
そう言うと、私は公園を出て門の前に戻った。
後ろの女性たちが小声で話している。
十人殺しと言う声が聞こえた。




