5話 その棲み処
王国の休息日。
セラフィーナ・アルベリオは従者ロランと共に、王宮近くの神殿を訪れた。
三週目の休息日に詣でるのは、アルベリオ家の習わしである。
嘗ては。
両親と姉と一緒に、女神に祈りを捧げた。
今は三人とも、女神の元へと帰ってしまった。
神殿の奥に、四体の女神像が鎮座している。
右に二体、左に二体。
中央の位置には、水瓶がある。
本来、この国の女神は五体。
一体の女神像が、失われている。
「では、私はご寄進を」
祈りに向かうセラフィーナを残し、ロランは神殿の事務所へ行った。
セラフィーナは頷き、床に座す。そして静謐の祈りを捧げる。
時折、脳裏にオーグリーの顔が過る。
片目を失っても、端正な顔貌は変わっていなかった。
低い声が柔らかな色をしていた。
セラフィーナの胸には、種火のように揺れる想いがある。
――女神様。お姉様。こんな私を、お許しくださいますか?
水瓶から小さな音がした。
跳ねた水滴が音を重ねる。
それはまるで、竪琴の音のようだった。
従者ロランは片手に革袋を持ち、神殿の事務所の戸を開けた。
中には常服姿の司祭が、帳面に何かを書きつけている。
ジャラリと音を立て、ロランが革袋を机上に置くと、司祭は顔を上げた。
「派手だったな……」
ロランは肩を竦め、両手を広げる。
「あんたが奴を巻きこめって、言ったんだ。素直に従った結果さ」
司祭は持っていたペンを手放す。
ついでに革袋の重みを確かめた。
司祭用の服を着ていなければ、酒場で管でも巻いていそうな風体だ。
「ふん。片目になっても、衰えていないってか」
「ああ。それに、おかしな助手を従えていた」
「助手?」
「ガキだがな。女の」
司祭は「へえ」と呟く。
「ジェンナ、とか言ってたな」
「ジェンナ?」
司祭は革袋を、再度机上に置く。
「笑うぞ。ジェンナって、ジェンナビアス様の愛称じゃねえか」
ジェンナビアス。
それは神殿から失われた女神の名前だ。
「ともかく、アッチから連絡が来たら、また港へ行ってくれ」
司祭が指さした『アッチ』の方向には、王宮が聳えていた。
◇◇
一方その夜、港の外れにある廃倉庫の屋根の上で、オーグリーは膝をついていた。
夜風が潮を孕んで頬を撫でる。遠くで犬が一声鳴き、また静かになる。
彼の隣で、ジェンナは倉庫群を見下ろしながら口を尖らせた。
「うわ。あっちの塔、なんか嫌な感じする」
「嫌な感じ、か」
「うん。熱じゃない。だけど、呼ばれてるみたいな……。火じゃなくて、火を呼ぶ方」
オーグリーは、黒革の眼帯に指を当てる。
昼間から、左眼の奥が微かに痛んでいた。
何かが近い。
あの日と同じ匂いだ。
焼けた木の匂い。油脂のない焦げ。内側から膨らんで、破れるように広がる炎。
禁足地カウレリアの記憶が、ゆっくりと浮上してくる。
無抵抗の人々。命令。爆裂。炎。叫び。
自分の半分だけが闇に落ちた感覚。
そして、背後で鳴ったあの音。
歌でもなく、悲鳴でもない、古い女神の嘆きのような音。
「……ジェンナ」
「なに」
「本当に中継点は、港の近くだな」
「そ。かなり近い」
ジェンナは肩をすくめると、指先で空気を切った。
その一瞬、オーグリーの視界に細い線が浮かぶ。
見える。
空中に、ほとんど透明な糸のようなものが幾筋も伸びていた。
倉庫街の屋根の上から、一本。
港の倉庫から一本。
さらに遠く。
王都の中心部へ向かって、幾重にも。
火災ごとに糸が増えている。
まるで、街全体を繭にしているようだ。
「……やっぱり術だな」
「でしょ。オレ、言ったもん」
「それで、その糸の先は?」
ジェンナは右手の人差し指を立てて、夜空の向こうを示した。
「王宮の中。塔のあたり」
オーグリーは息を吐いた。
「王宮か」
「うん。かなり嫌な王宮」
軽口のような調子だが、ジェンナの表情は硬かった。
「でも、おっさん。今から行くなら、たぶん一回はぶつかるよ」
「誰とだ」
「火を焚いてる奴。たぶん、こっちに気づいてる」
言い終えるより早く、下方で金属音が響いた。
倉庫の影から、黒い人影が三つ、四つ。
こちらを包囲するように上ってくる。
オーグリーは立ち上がり、剣の柄に手をかけた。
「先に来たか」
「いつもそうじゃん」
「愚痴を言うな」
「へいへい」
次の瞬間、矢が飛んだ。
狙いはオーグリーの喉元だ。
だが彼は半歩だけ体をずらす。
矢は耳元をかすめて屋根板に刺さった。
同時に、別の方向から炎が上がる。
屋根の上に、複雑な魔術陣。
古い形式の火遁式だ。
オーグリーは舌打ちした。
「撒き餌か」
「おっさん、左だ!」
ジェンナの声に反応して振り向くと、黒装束の男が短剣を振り上げていた。
剣が抜かれる。
火花が散った。
短剣は弾かれ、男の腕がしなり、屋根瓦の上へ転がる。
オーグリーはそのまま踏み込み、男の喉に剣先を突きつけた。
「誰の命令だ」
男は答えず、歯を噛みしめた。
その舌の奥で、何かを砕く気配がした。
オーグリーは眉をしかめる。
男は泡を吹くように崩れ落ち、動かなくなった。
「ちっ」
ジェンナが、屋根の端から下を見て息を呑む。
「下、逃げてる」
「追うぞ」
「うん!」
二人は倉庫の裏へ飛び降りた。
通りを抜ける風の中に、焦げた匂いが混じる。どこかで、すでに別の火種が起こされているのかもしれない。
黒装束の者たちは、港の路地を熟知していた。
だがオーグリーとて、かつて騎士団で何度も敵を追いつめている。
隠れた足音、息継ぎ、重心のかけ方。
わずかな癖の違いから、相手の逃げ道は読める。
「右に二人。左に一人」
「了解」
ジェンナが目を閉じる。
次の瞬間、彼女の輪郭が淡く揺らいだ。
ジェンナは路地の角を曲がった二人の前へ、まるでそこに最初からいたかのように立っていた。
「はーい、止まってね」
相手が驚いた隙を、オーグリーが斬る。
片腕を落とし、足を払う。血が飛び、男が倒れる。
最後の一人が逃げようとしたところで、ジェンナが低く呟いた。
「閉じて」
足元の影が、不自然に伸びる。
男の足首を絡め取り、地面に縫い付けた。
オーグリーの視線が、わずかに細くなる。
「今のは」
「内緒」
「……そうか」
追及はしない。
いや、できないという方が正しい。
「おっさん」
「なんだ」
「この連中、王宮の紋章つけてた」
ジェンナが、倒れた男の襟元を指で払う。
そこには、王家直属の印があった。
ようやく話が進んできました。
今回もお読みくださいまして、ありがとうございました!!




