第21話「譲れない戦い」①
朝、目が覚めて最初に思ったのは、静かだな、ということだった。
いつもなら、台所から包丁の音が聞こえてくる。
鍋の蓋が鳴って、誰かが戸棚を開けて、それから夕凪の「朝ご飯ですよー!」という声。
この家に人が増えてから、すっかりお馴染みになった朝の音だ。
ところが、今日は何も聞こえない。
「……寝坊した?」
布団から起き上がり、窓の外を見る。
もう十分に明るい。少なくとも、私だけが早起きしたわけではなさそうだった。
着替えて居間へ向かうと、篠が一人で水差しを並べていた。
「おはようございます、霧江さん」
篠の顔を見て、ほんの少しだけ胸が跳ねた。
あの夜以来、しばらくは目が合うだけで変に緊張していたけれど、最近はようやく以前と同じように話せるようになってきた。
……もちろん、あのことを忘れたわけではない。
「おはよう。……夕凪は?」
篠の手が止まる。
「それが、まだ起きてこなくて。朝凪さんが様子を見に行っています」
「夕凪が?」
思わず聞き返してしまった。
夕凪は誰よりも早く起きていることが多い。私が寝坊しても朝食が用意されているのは、大抵あの子のおかげだった。
「昨日、遅くまで起きてたのかな」
「片づけは皆さんにも手伝っていただいたはずなんですが……」
篠が心配そうに廊下を見る。
私も後を追おうとしたところで、ちょうど朝凪が部屋から出てきた。
「朝凪、どうだった?」
「熱がある」
「えっ」
「夕凪、風邪ひいたみたい」
朝凪の言葉に、篠と顔を見合わせる。
「今、起きられるの?」
「起きようとはする。止めた」
「だよな。私も行く」
部屋へ入ると、夕凪が布団の上に半身を起こしていた。
頬が赤い。普段の元気な顔とは違い、目も少し潤んでいる。
「夕凪、大丈夫か?」
「あ……霧江さん。おはようございます」
「おはよう。って、挨拶はいいから寝てて」
「でも、朝ご飯が……」
「まず自分の心配をして!」
思わず声が大きくなった。
夕凪はびくっと肩を揺らし、それから申し訳なさそうに眉を下げる。
「すみません……」
「いや、怒ってないよ。心配してるだけ」
私は布団の脇へ膝をつき、額にそっと手を当てた。
熱い。
触って分かるくらいには熱がある。それでも受け答えはできるし、息苦しそうな様子もない。
「今日は休み。決定」
「でも……」
「でも、じゃない。朝ご飯くらい自分たちで何とかするって」
夕凪の視線が、私の後ろへ向いた。
そこには朝凪が立っている。
「お姉ちゃん……」
「寝てて」
「……はい」
即答だった。
さっきまで私に向けていた遠慮が、姉の一言であっさり消えた。
なんだろう。この差。
篠が水差しを枕元に置き、布団を掛け直す。
「お食事は私たちで用意しますから、安心してくださいね」
「ありがとうございます、篠さん……」
夕凪は小さく頭を下げた。
その動きさえ、いつもより鈍い。
私は部屋を出て、朝凪に尋ねた。
「最近、夕凪、無理してなかった?」
「してた」
「やっぱり?」
「一人で全部はやってない。でも、誰かの手が回らなかった仕事も、気づくと夕凪がやってる」
なるほど。
工房に人が増え、家も大きくなった。
家事は分担するようにしているし、夕凪にも一人で抱え込まないよう話してきた。
それでも、食事の支度や洗濯、風呂の片づけ。人数が増えれば、細かな用事も増えていく。
気のつく夕凪は、誰かに頼むより先に自分で手を動かしてしまうのだろう。
「昨日も、私が夜に水を汲みに行ったら、洗った布を干してた」
「そんな時間に?」
「明日のうちに乾かしたいって」
朝凪はいつもと変わらない顔で話している。
でも、妹のことが心配なのは伝わってきた。
「……もう少し、家事を楽にできればいいんだけどな」
口に出してから、私は家の中を見回した。
道具なら作れる。工房もある。手を貸してくれる職人だって増えた。
なのに、肝心の生活の方は、まだ夕凪の気配りに頼っているところが多い。
「それは、後で考えよう。まずは風邪をどうにかしないと」
「うん」
篠が袖をまくって台所へ向かう。
「私、お粥を作ってみますね」
「お願い。朝凪は夕凪についててくれる?」
「分かった」
それぞれが動き始める。
さて、私はどうしよう。
病気の時は、温かくして、水を飲んで、ちゃんと休む。前世でもよく言われたことだ。
雲居は今朝から山猫商会へ出かけている。巫女に相談するにしても、帰ってくるまでには時間があるだろう。
だったら、今の私にできることをしよう。
幸い、この世界には、回復を助けてくれる薬がある。
「……回復薬」
狩人なら誰でも知っている、ごく普通の薬だ。
飲めば自然治癒力が高まり、傷の治りが早くなる。風邪のような病気でも、身体が回復するのを助けてくれるらしい。
もっとも、評判を聞く限り、とんでもなく苦いそうだ。
私はまだ作ったことがない。
けれど、作れないとは限らない。
(そういえば……)
ふと思い出したのは、以前、篠と森で摘んだ癒し草だ。
傷薬の材料になると教わった、ごくありふれた草。触れた時には【素材解明】で薬用・滋養の特性と付与スキルまで確認している。
解毒草に触れた時には、解毒薬のレシピが構築された。ならば癒し草に触れた時にも、回復薬のレシピが構築されていたんじゃないか?
「……ちょっと確かめてみるか」
私は目の前にウインドウを呼び出し、【クラフトレシピ一覧】を開いた。
並んだ名前を追っていくと、目当てのものはすぐに見つかった。
【回復薬:癒し草・水】
「あった!」
やっぱり、癒し草を見つけた時にレシピが構築されていたらしい。あの時は採取に夢中で、回復薬を作るところまでは考えていなかった。
名前を見れば、あの時に頭へ入ってきた製作手順も思い出せる。葉の使い方も、水の加減も、どんなふうに煮出せばいいかも。
作ったことはない。でも、作り方なら分かる。
「篠、ちょっと癒し草を採ってくる」
「回復薬を作るんですか?」
「うん。買いに行くより、自分で作れたら早いかなって」
「分かりました。夕凪ちゃんのことは任せてください」
頼もしい返事だった。
私は籠を手に取り、家を出た。
*
工房から少し離れた林の縁は、朝の空気がまだひんやりしていた。
足元の草をかき分けながら、葉の形を確かめていく。
「ええと……確か、この辺りに……」
癒し草なら、これまでにも何度か見かけたことがある。
篠と一緒に採ったこともある、狩人にとって身近な植物だ。
珍しい素材ではない。ただ、探そうと思うと妙に見つからない。
「あ、これか」
木陰に、見覚えのある丸い葉が伸びていた。
しゃがんで葉の形を確かめる。間違いない、癒し草だ。
「あった。これで材料は揃ったな」
前に素材解明を済ませた草だから、新しい表示は出てこない。
でも、ウインドウで確かめた回復薬の製作手順はちゃんと思い出せる。
どの部分を使うか。どれくらい細かく刻むか。水をどう加熱し、いつ葉を取り出すか。
知らなかったはずの作り方が分かる。この便利さには、何度助けられても慣れない。
「これなら、すぐ作れそうだな」
周囲を探し、必要な分だけ癒し草を摘む。
どうせなら余分に作っておきたいところだが、まずは夕凪の分だ。
私は籠を抱え直し、急いで家へ戻った。
*
「戻ったぞー!」
台所から、篠が顔を出す。
「お帰りなさい。お粥、もう少しでできますよ」
「助かる。夕凪は?」
「朝凪さんがついています。さっきお水を飲んで、今は少し休んでいるみたいです」
よかった。
私は作業台のある方へ向かい、摘んできた癒し草を広げた。
水を用意し、手順どおりに葉を処理する。
普段の料理なら、ここまで手が勝手に動くようなことはない。けれど、これは薬のクラフトだ。
刻む大きさも、火にかける順番も、迷わず分かる。
鍋から立ち上る湯気には、いかにも薬効がありそうな青臭いにおいが混じっていた。
「……身体によさそう、なんだけど」
鼻を近づけた途端、思わず顔をしかめる。
前に作った解毒薬も、こんなにおいがしたっけ。
あれは本当に苦かった。
ほどなくして、薬液が完成する。
【完成品:回復薬】
【特性:自然治癒力の上昇】
「できた!」
器に移した薬液は、濃い緑色をしていた。
出来は問題なさそうだ。
ただ、念のために少しだけ口に含んでみる。
「……っ、にっが!」
反射的に舌を出した。
苦い。
信じられないくらい苦い。
しかも、飲み込んだ後まで癒し草のにおいが残る。
「うわ……これ、解毒薬といい勝負だな……」
そういえば、最初の解毒薬を飲んだのは、この世界に来たばかりの頃だった。
転生したばかりなのに、いきなり毒で死にかけて。あの時、解毒草が手の届くところになかったら、私の二度目の人生はあっという間に終わっていたはずだ。
思い返すと、よくあんな状態で薬を作れたものだと思う。
あれから、ずいぶん賑やかになった。
今は自分のためじゃなく、夕凪のために薬を作っている。
……それにしても、薬が苦いことだけは変わらないらしい。
噂は大げさじゃなかった。
とはいえ、回復薬としてはちゃんと完成している。苦いからといって、夕凪に飲ませないわけにもいかない。
私は器を盆に載せ、夕凪の部屋へ向かった。
「夕凪、起きてるか?」
戸を開けると、夕凪は枕にもたれ、朝凪に背中を支えてもらいながら水を飲んでいた。
私に気づいて、弱々しく笑う。
「お帰りなさい、霧江さん……」
「ただいま。いいもの作ってきたぞ」
「いいもの、ですか?」
「回復薬。これを飲めば、少しは早く良くなると思う」
その瞬間だった。
夕凪が、ぴたりと固まった。
次いで、ものすごい勢いで布団を引き上げる。
あっという間に、頭のてっぺんまで隠れてしまった。
「……夕凪?」
「…………」
「薬、持ってきたんだけど」
「……いりません」
「え?」
「いりません……!」
布団の中から聞こえた声は、熱で弱っているとは思えないほど、はっきりしていた。
……さっきまで熱でぐったりしてたよな?
私は盆を持ったまま、朝凪を見た。
朝凪も私を見ている。
「……何これ?」
返事の代わりに、布団の端がぎゅっと握り締められた。




