第20話「大事にして」③
森を出た頃には、日が少し西へ傾いていた。
木々の間ではあれほど涼しかった風も、町へ戻るとどこか生温かい。
「いやあ、すごいものが見つかったな」
「うん」
「しかも、まさか化け葛からとは。あいつ、普通のやつと見分けがつかなかったぞ」
「私も分からなかった」
朝凪の返事はいつもどおり短い。
ただ、さっきから私の右側ばかり歩いている。蔓に捕まったとき、腕を引っ張られた方だ。
「……なあ、朝凪」
「何?」
「もう痛くないって」
「聞いてない」
「でも、ずっとこっち見てるだろ」
「見てる」
否定しないんかい。
私は苦笑して、自分の腕を軽く回してみせた。袖の下には薄い赤い跡があるだけで、動かすのに支障はない。
「ほら、平気」
「分かった。あんまり動かさないで」
「はいはい」
「はい、は一回」
「夕凪の真似か?」
「少し」
口元を緩める朝凪を見て、私はようやく肩の力を抜いた。
けれど、笑っているからといって、心配が消えたわけではないらしい。
家に着くまで、彼女が私の右側を離れることはなかった。
*
「おかえりなさい!」
工房の前で、洗濯物を取り込んでいた夕凪が顔を上げた。
「ただいま、夕凪。見てくれよ。なかなか珍しい素材が――」
「霧江さん、腕」
夕凪の視線が、私の袖口で止まった。
しまった。少し捲れていたらしい。
「ああ、これ? ちょっと蔓に捕まってさ」
「ちょっとじゃない」
横から朝凪の声が飛んでくる。
「お姉ちゃん?」
「化け葛に捕まった。変わったやつで、切ってもすぐ伸びた」
「ええっ!? 大丈夫なんですか?」
「大丈夫、大丈夫。朝凪が助けてくれたから」
「そういう問題じゃないよ」
あれ。今日は姉妹そろって私に厳しい。
夕凪は慌てて洗濯籠を置くと、私たちを工房へ押し込んだ。
「今、お湯と布を持ってきます。擦れたところ、ちゃんと見せてくださいね」
「いや、傷ってほどじゃ――」
「霧江さん」
「……はい」
にこりと笑われると逆らえない。
夕凪が母屋へ走っていく。その背中を見送ってから、私は朝凪に小声で尋ねた。
「夕凪、あんなにしっかりしてたっけ?」
「いつも」
「そっか。……そうだな」
考えてみれば、うちの家事を一手に引き受けてくれているのだ。あの子にとっては、人の面倒を見ることも日常なのかもしれない。
しばらくして、夕凪が湯を張ったたらいと清潔な布を持ってきた。
私は作業台のそばに腰掛け、袖を肘まで捲る。
「ほら。大したことないだろ?」
「赤くなってますよ。少し腫れてるところもあるし」
「明日には消えるよ」
「だからって、放っておいていいことにはなりません」
温かい布が腕に当たった。
夕凪の手つきは丁寧で、必要以上に触れない。それでも小さな擦り傷を見つけるたび、眉が寄る。
隣では朝凪が、黙ってその様子を見ていた。
「お姉ちゃん。霧江さんを助けたんだよね?」
「うん」
「ありがとう。お姉ちゃんが一緒でよかった」
「……うん」
いつもなら、夕凪に褒められた朝凪は少し得意そうになる。
なのに今日は、私の腕から目を離さない。
夕凪もそれに気づいたのか、一度だけ姉の顔を見た。
「お姉ちゃんも、疲れてない?」
「平気」
「じゃあ、お茶を入れてくるね。二人とも少し休んでて」
「ありがとう」
夕凪が出ていくと、工房が急に静かになった。
「……悪かったな。心配かけて」
「もう聞いた」
「そうだけど、もう一回言っとこうと思って」
朝凪は私の隣の椅子に腰を下ろした。
「霧江は、素材を見つけると周りが見えなくなる」
「うっ」
「朝も、道具を作り始めたらずっと夢中だった」
「そこまでひどいか?」
「少し」
「少しか。よかった」
「今日は、少しじゃなかった」
正論だった。
返す言葉が見つからず、私は手のひらをひっくり返してみる。擦れた跡の向こうに、化け葛の蔓に締め上げられた感触がまだ残っている気がした。
もし朝凪がいなかったら。
そう考えかけて、やめた。
助けてもらった以上、次は自分で気をつける。それが一番だ。
「朝凪の言うとおり。次からは、近づく前に周りの様子をよく確かめるよ」
「うん。それがいい」
彼女はやっと、いつもの落ち着いた顔に戻った。
*
夕凪が入れてくれた茶を飲み、ひと息ついてから、私は持ち帰った蔓を作業台に出した。
厚い布を広げ、その上に短い蔓を置く。まだ表面にはわずかな湿り気があり、太さの割にずっしりと重い。
「よし。まずはこいつを調べよう」
「また動いたりしない?」
「念のため、蓋つきの木箱に入れておく」
小さな穴の開いた木箱を用意し、蔓を中へ移した。細い木片を渡して底に押さえつけ、勝手に動き回れないようにしてから蓋を固定する。穴から様子を見られるようにした。
私はしばらく待った。
蔓は動かない。
「これなら、落ち着いて観察できるな」
「最初から、そうして」
「耳が痛い」
朝凪が椅子を寄せてくる。
箱の中で、森で切られた蔓の表面に残っていた細かな傷が、少しずつ薄くなっていた。
「本当に直ってる」
「だろ? 切り離されても、傷を塞ぐ力は残ってるんだ」
「元に戻るの?」
「全部は分からない。少なくとも、表面の傷は直るみたいだな」
私は蓋をほんの少しだけ開け、木片で押さえた蔓の表皮に、小刀の先で浅い傷を一つ付けた。すぐに蓋を閉じ、二人で穴の向こうを覗き込む。
ほんのわずかに開いた傷口が、時間をかけて寄り合っていく。
「……ああ、なるほど」
「何が?」
「生えてたときほど速くない。あのときは切った端から伸びてきたのにな」
「根っこから、何かもらってた?」
「かもしれない。あいつ自身の力と、蔓が持ってるスキルの力は、別なのかもな」
確かめる方法はまだない。
それでも、付与スキルの方だけでこれだけ傷が直るのなら、十分すごい。
私はステータス画面を開き、確認済みの素材情報をもう一度読み返した。
【名称:化け葛の蔓】
【確認された付与スキル:自動修復(大)】
やっぱり見間違いではない。
(自動修復、しかも大か。武器や道具に付けられたら、相当便利だぞ)
真っ先に頭へ浮かんだのは、朝凪の弓だった。
いや、そもそもそのために森へ行ったのだ。
けれど、私は少しだけ考え込んだ。
「どうしたの?」
「これ、相当貴重な素材だと思うんだよな。前に採った化け葛には、こんなスキルなかったし」
「うん」
「よく分からないまま使うのは、ちょっともったいないかもしれない」
朝凪は弓を膝へ下ろし、指先で握りの革をなぞった。
「それなら、取っておく?」
「え?」
「別の道具に使った方がいいなら、そうして」
意外だった。
朝凪はこの弓を大事にしている。だからこそ、一緒に素材を探しに来たはずなのに。
「いいのか? その弓を今よりずっと長く使えるようになるかもしれないんだぞ」
「今も、ちゃんと使えるから」
朝凪は少し間を置き、続けた。
「それに、霧江が困るなら、無理に付けなくていい」
……参ったな。
こういうことを、何の計算もなく言えるのが朝凪なんだろう。
私は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
(高く売れそう、とか考えるのは雲居に任せよう)
珍しい素材だって、使いたい相手に使えなければ、私にとってはただの宝物だ。
目の前に、その相手がいる。
「いや。やっぱり朝凪の弓に使いたい」
「……本当に?」
「本当。そもそも、私もそうしたくて探しに行ったんだからな」
「でも、貴重なんでしょ?」
「だからだよ。大事なものに使うなら、もったいなくない」
朝凪の手が、弓の握りで止まった。
「……そっか」
その声が少しだけ柔らかい。
「うん。ありがとう」
「礼を言うのは、まだ早い。エンチャントが思ったとおりに使えるか、これから試すんだから」
「じゃあ、手伝う」
「助かる」
私は思わず笑った。
朝凪がいると、話が早くてありがたい。
*
夕方の光が工房の窓から差し込んでいる。
私は作業台の真ん中を空け、朝凪の弓を置いた。
その隣には、布に包んだ化け葛の蔓。
弓の状態を、もう一度丁寧に確かめる。
反りに狂いはない。弦も傷んでいない。握りの革に擦れた跡はあるけれど、使うのに困るほどじゃない。
フヨウを射抜いたときも、何度も森へ持ち出したときも、この弓は朝凪の手の中にあった。
「……そういえば、これを作ったときのこと、覚えてるか?」
「覚えてる」
「前の弓を見せてもらって、握るところも引き具合も合わせたんだよな」
「うん。最初に引いたとき、びっくりした」
「変な感じって言ってたな」
「そう。前より強いのに、いつもの弓みたいだった」
懐かしい。
あの頃は、フヨウを倒すことばかり考えていた。
朝凪には、絶対に射抜きたい相手がいた。私は、そのための道具を作った。
けれど今は違う。
朝凪はその弓を、今も毎日のように使っている。
「フヨウを倒したら、役目は終わりかと思ってた」
「終わらないよ」
「だよな。狩人だもんな」
「それもあるけど」
朝凪は、弓の握りにそっと触れた。
「この弓で、夕凪のところに帰ってきたから」
言葉が胸に落ちた。
フヨウを倒した日、夕凪が出迎えてくれたときの顔を覚えている。
朝凪はあの子を守るために、ずっと狩りをしてきた。その手に馴染む弓が、これからも必要なのだ。
「……そっか。なら、なおさら大切にしないとな」
「うん」
しばらく、二人とも弓を見ていた。
やがて朝凪が、私の方へ顔を向ける。
「霧江」
「ん?」
「さっき、助けたとき」
「うん」
「考えるより先に、身体が動いた」
私は朝凪を見る。
「狩人なんだから、そういうこともあるんじゃないか?」
「ある。でも、今日は違った」
朝凪は少し言葉を探すように、目を伏せた。
「夕凪に何かあったら、私、何も考えられなくなる」
「……うん」
「今日は、ちょっとだけ、それに似てた」
思いがけない言葉だった。
朝凪が夕凪をどれほど大切にしているか、私はよく知っている。
だからこそ、軽く返事をしていい気がしなかった。
「……そっか」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
朝凪は頷き、弓へ視線を戻した。
「……自分でも、ちょっと不思議」
朝凪は弓の握りをなぞったまま、しばらく動かなかった。
何が不思議なのか、朝凪自身もまだ言葉にできないのかもしれない。
そんな様子を見ていると、私の方から答えを決めつけるのも違う気がした。
私だって、どう答えればいいのか分からない。
気まずくなりそうで、私はわざと明るい声を出した。
「まあ、次は心配させないようにするよ。せっかく助けてもらったんだしな」
「うん。約束した」
「覚えてるって」
朝凪が少し笑った。
その顔を見て、何だかほっとした。
私は目の前の弓へ手を伸ばす。
「じゃあ、始めようか」
「うん」
ステータス画面を開き、アクティブスキルの一覧から【エンチャント】の詳細を確かめた。
詳細を閉じて一覧へ戻ったところで、画面の隅に小さな表示があるのに気づいた。
アクティブスキルの使用可能回数を示す数字だ。
「……使用回数? 無限に使えるわけじゃないのか」
どうやら、この手のスキルには使える回数に限りがあるらしい。
(回数がなくなったらどうなるんだ? 回復はするのか?)
画面を調べてみたけれど、回数の回復については何も書かれていない。そもそも、まだ一度も使っていないのだ。分からないことだらけである。
(……無駄遣いはしないようにしよう。まずは、この一回だな)
これまでの制作では、素材に備わった付与スキルを、完成するときに選んでいた。
今度は違う。すでに出来上がって、朝凪が大切に使ってきた弓へ、新しい力を加えるのだ。
弓には【攻撃力上昇(中)】が付いている。今の継承可能数は二つ。エンチャントにも同じ制限が適用されるなら、あと一つ追加できるはずだ。
私は弓と蔓を手元へ寄せた。
(そういえば、エンチャントしたら、この蔓はどうなるんだ?)
付与スキルだけが移るのか。蔓そのものも失われるのか。新しく覚えたばかりの技だから、試したこともない。
もし素材が消えてしまえば、同じものをもう一度手に入れられる保証はなかった。
(……だからこそ、ちゃんと朝凪の弓に使いたい)
私は作業台の上をもう一度確かめ、弓と蔓の位置を整えた。
「朝凪、少しだけ弓を押さえててくれ」
「こう?」
「そう。それでいい」
朝凪の指が、握りの革をそっと押さえる。
私は深く息を吸った。
(さて。新しい力、ちゃんと使えるかな)
そして、私は【エンチャント】を発動した。




