第19話「選んだ理由」④
角を曲がると、素材屋の店先は建物の陰に隠れた。
ようやく、肩の力が抜ける。
「……やれやれ。買い物に来ただけなのに、とんだ寄り道だったな」
「寄り道をしたのは、わたくしたちではありませんわ」
「そうだけどさ」
雲居は何事もなかったような顔で帳面を抱え直した。
けれど、あれだけのことを言ったあとだ。平気なはずもないだろう。
「雲居、よかったのか?」
「何がですの?」
「いや、その……言いたいこと、言えたかなって」
何とも間の抜けた質問だった。
雲居は一度瞬きをして、それから小さく笑った。
「ええ。もう十分ですわ。あの方々がどう受け取ったかは、わたくしの知るところではありませんもの」
「そっか」
「それより、霧江。まだ用事が残っておりますでしょう?」
「……そうだった」
今日は素材屋で言い争いを眺めるために出てきたわけじゃない。
「矢羽根」
朝凪が一言だけ添えた。
「そう、それ! 朝凪の矢羽根も買わないとな」
「向こうにあった」
「えっ、もう見つけたのか?」
「さっき通りかかった」
朝凪が通りの先を指さした。
私と雲居が隼たちに気を取られている間も、こいつはきっちり自分の目的を覚えていたらしい。
……少しは見習おう。
朝凪が見つけたのは、弓弦や矢柄、獣の腱などを並べた小さな店だった。
棚の一角には、鳥の羽根を束ねた品が幾つも吊るされている。
「ほら、あったぞ。どれにする?」
「見てから決める」
朝凪は店主に断りを入れると、羽根の束をひとつ手に取った。
一本ずつ指でつまみ、羽軸の曲がりや羽毛の張りを確かめる。隣の束と見比べては、首を横に振った。
私には、どれも立派な羽根に見えるんだけどな。
「違いが分かるのか?」
「うん。矢に付けると、飛び方が変わるから」
「へえ」
「大きければいいわけじゃない。重さも揃えたい」
朝凪はそう言って、二つの束を私にも見せてくれた。
確かに、よく見ると羽軸の太さも、左右への反り方も違う。
これを矢の後ろに付けるのか。
(……材料ひとつで、まだまだ知らないことがあるもんだな)
朝凪は少し考えてから、羽軸の太さが揃った方の束を選んだ。
「そっちでいいのか? こっちの方が立派そうだけど」
「いつもの矢には、こっちが合う」
「なるほどな」
見た目が立派ならいいというわけじゃない。
さっきまでの素材屋の騒ぎを思い出して、思わず苦笑した。
朝凪が代金を支払うと、店主が羽根を布で丁寧に包んでくれた。
「貸して。私が持つ」
「いや、それくらいは――」
「その手で?」
「……はい。お願いします」
今朝と同じことを言われてしまった。
朝凪は満足した様子もなく、当たり前の顔で包みを受け取る。
親切なのはありがたい。でも、その短い一言には逆らえないな。
*
山猫商会へ着く頃には、空もすっかり明るくなっていた。
立派な商館を見上げると、初めてここへ来たときのことを思い出す。
あのときは建物の大きさにも驚いたが、何より猫の耳と尻尾だらけだったのが衝撃だった。
(……今でも、ちょっと目で追っちゃうんだよなあ)
商館の戸をくぐると、帳面を抱えた稲羽がこちらへ駆け寄ってきた。
「き、霧江さん! 雲居さんも、いらっしゃいませ!」
「よう、稲羽。昨日はありがとうな」
「い、いえ! こちらこそ、昨日は……その……」
サバトラ模様の尻尾が、嬉しそうに左右へ揺れる。
「お風呂、すっごく気持ちよかったです」
「ははっ。そりゃよかった」
「朝から、また入りたいなって考えてました」
水が苦手な猫獣人にしては、相変わらず珍しいやつだ。
いや、昨日の湯船を思い出して尻尾を揺らしている姿を見れば、そんなことはどうでもよくなるか。
「次に来たときも、よかったら入っていけよ」
「は、はい!」
稲羽はぱっと顔を明るくした。
その隣で、雲居が控えめに咳払いする。
「霧江。今日は湯浴みの相談ではありませんわよ」
「分かってるって」
稲羽に案内され、私たちは商談のための小部屋へ通された。
しばらくすると、更級も姿を見せる。
「おう、昨日ぶりだね。もう仕事の話とは、雲居も働き者だ」
「仕事を溜め込む方が、後で苦労いたしますもの」
「違いない。で、今日は何の相談だい?」
雲居が帳面を開いた。
石鹸の納品予定、売れ行き、工房で確保しておく分。それらを一つずつ確かめていく。
私の頭の中では、まだ昨夜の宴会の賑やかさが残っているというのに、二人の会話はすっかり商売の調子だ。
「浴場で使う分も、これからは見込んでおきたいのですわ」
「昨日のあれかい。確かに、石鹸も今までより使うだろうね」
「ええ。ですが、工房からの納品を減らすつもりはございません。材料と人手の見通しを、改めて立てておきたくて」
「そっちは頼もしい話だ」
更級が満足そうに笑う。
商談は私の出る幕もなく進んでいく。
……こういうときの雲居は、やっぱりすごい。
「霧江、あなたも何かございましたでしょう?」
「あ、そうだ。洗い場の手桶を少し増やしたいんだよな。あと、湯を沸かす装置の竜核に魔力を補充できる人も探しててさ」
「竜核の充填かい?」
更級が顎に手を当てた。
「扱える者に心当たりがないわけじゃないが、引き受けてもらえるかは聞いてみないと分からないね」
「そっか。じゃあ、急ぎじゃないから、聞いてもらえると助かる」
「いいよ。分かったら知らせよう」
それだけで、胸につかえていたものが一つ軽くなった。
浴場を作ることばかり考えていたけど、これから使い続けるための段取りも必要なんだよな。
「手桶の方はどうなさいますの? ご自分で作るつもりでしょう?」
「まあ、いずれはな」
「いずれ、では困りますわ。今朝のように指を叩かれては」
「うっ……」
更級が吹き出した。
「何だい霧江、職人が金づちで自分の指を叩いたのかい?」
「ちょっと手元が狂っただけだって!」
「それはまた珍しいねえ」
稲羽まで口元を押さえている。
……これ以上、話を広めないでほしい。
結局、当面の手桶は必要な分だけ買い足し、残りは私の指が治ってから考えることになった。
もちろん、決めたのは雲居である。
商館を出たあと、近くの桶屋にも立ち寄った。必要な数の手桶を買い、工房へ届けてもらうよう頼んでおく。
*
桶屋を出る頃には、昼が近づいていた。
朝凪の手には矢羽根の包みがあり、ほかにも小さな荷物が増えている。手桶まで持たせずに済んだのはありがたい。
「ありがとな、朝凪。すっかり荷物持ちにさせちまった」
「いいよ。手、怪我してるし」
「助かるよ」
朝凪は短く頷いた。
雲居はその隣を、いつもの足取りで歩いている。
先ほどの狩組との一件があったというのに、今の顔には曇りがなかった。
「雲居、何だか機嫌よさそうだな」
「そう見えますの?」
「ああ。さっきは色々あったから、ちょっと心配してたんだ」
「ふふっ。過ぎたことをいつまでも気にするほど、わたくしは暇ではございませんわ」
「そりゃそうか」
雲居は抱えていた帳面を持ち直し、どこか楽しそうに笑った。
「それに、今は目の前にある商いを大きくする方が、よほど楽しゅうございますもの」
「……そりゃ、頼もしいな」
「ですから、今後とも無駄遣いはお控えくださいませ」
「最後で台無しだよ!」
朝凪が小さく笑った。
結局、雲居はこういうやつなんだ。
頼もしくて、抜け目がなくて、仕事には厳しい。
そして、今は私たちの仲間だ。
そう思うと、不思議なくらい気分がよかった。
*
工房へ戻ると、ちょうど夕凪が昼餉の支度を終えたところだった。
「お帰りなさい! お昼、間に合いましたね」
「ただいま。ぎりぎりだけどな」
「手は大丈夫ですか?」
「朝にしっかり冷やしたし、だいぶましになったよ」
指を見せると、夕凪はほっとしたように笑った。
雲居は買い物の帳面を確かめながら母屋へ向かい、朝凪も荷物を置きに行く。
私も後に続こうとして――。
「霧江さん、お帰りなさい」
その声で、足が止まった。
振り返ると、篠が浴場の方から歩いてきた。片手には洗い終えた布を畳んで持っている。
朝と同じ、いつもの穏やかな顔だ。
けれど、私と目が合った瞬間、その頬がほんの少し赤くなる。
(……あ、駄目だ)
ようやく落ち着いてきたと思ったのに。
昨夜、月明かりの下で触れた唇の感触が、また頭の中に蘇る。
「た、ただいま」
「手の具合はどうですか?」
「お、おう。朝凪に荷物を持ってもらったし、平気平気」
「そうですか。よかった」
篠が微笑む。
……ずるい。
そんな普通の顔をされると、こっちが余計に意識してしまうだろ。
「霧江、また顔が赤い」
荷物を置きに行ったはずの朝凪が、いつの間にか戻ってきていた。
「そ、そんなことないって!」
「朝も赤かった」
「今日は暑いんだよ!」
「私は暑くないけど」
「……そういう問題じゃない!」
雲居まで顔を上げる。
「朝から様子がおかしいと思っておりましたけれど、戻ってきても変わりませんのね」
「だから何でもないって!」
篠は私たちを見回して、それから少しだけ口元を緩めた。
……絶対、分かってやってる。
「皆さん、先にお昼にしましょう。霧江さんの手も、あとで見ておきますから」
「そうですわね。午後も片づけが残っておりますもの」
「お腹すいた」
雲居と朝凪は、ようやく母屋へ入っていった。
篠もその後を追おうとする。
「あ、篠」
呼び止めると、彼女がこちらを向いた。
「はい?」
「その……昨日のことなんだけどさ」
口にした途端、心臓が跳ねた。
篠の頬も、みるみる赤くなる。
それでも、彼女は逃げなかった。
「……はい」
「私、ああいうの慣れてなくてさ。驚いて、何も言えなかった」
情けない話だけど、言わないよりはましだろう。
「でも、嫌だったわけじゃない。むしろ……嬉しかった」
篠が目を見開いた。
しばらくして、照れくさそうに微笑む。
「……よかったです」
その小さな声を聞いて、私もようやく息をつけた。
「返事は、もう少し考えてもいいか?」
「もちろんです」
篠は迷わず頷いた。
「私だって、あんなことをしたのは初めてですから。今でも、すごく恥ずかしいんですよ」
「……そうは見えなかったけどな」
「頑張って、普通にしていたんです」
やっぱりそうだったのか。
「でも、待っていますね。霧江さんの言葉で聞きたいですから」
「……ああ。ちゃんと話すよ」
篠は嬉しそうに頷いた。
そして、私の怪我をした手へ、そっと視線を落とす。
「それまでは、あまり考え込みながら金づちを振らないでくださいね」
「うっ……」
……参ったな。
昨日は、あんなに大胆だったくせに。
今は真っ赤な顔で、いつもの篠みたいに私を心配してくれる。
こんなの、どう接したらいいか分からないじゃないか。
「霧江さん、早く行きましょう。夕凪さんのお料理が冷めてしまいます」
「あ、ああ」
母屋へ向かう篠の後ろを、私は少し遅れて歩き出した。
振り回す番だなんて、言ってたっけ。
(……宣言どおり、振り回されっぱなしだよ)




